夕べ 眠れ ず に 泣い てい たん だ ろう 歌詞。 方言−土佐弁−(高知県中土佐町周辺)

吉川英治 宮本武蔵 火の巻

夕べ 眠れ ず に 泣い てい たん だ ろう 歌詞

伏見桃山の城地を 繞 ( めぐ )っている淀川の水は、そのまま長流数里、 浪華江 ( なにわえ )の大坂城の石垣へも寄せていた。 「どうなるんだ?」 と、人々はすぐそういう話題に興味を持つ。 「どうって、何が?」 「世の中がよ」 「変るだろう。 こいつあ、はっきりしたことだ。 変らない世の中なんて、そもそも、藤原道長以来、一日だってあった 例 ( ためし )はねえ。 河の水は沸いている。 もう秋は立っているのだが、暑さはこの夏の土用にも 勝 ( まさ )って 酷 ( きび )しい。 淀の京橋口の柳はだらりと白っぽく 萎 ( な )えている。 気の狂ったような 油蝉 ( あぶらぜみ )が一匹、川を横ぎって町屋の中へ突き当ってゆく。 その町も晩の灯の色はどこへか失って、灰を浴びたような板屋根が乾き上がっているのだった。 橋の 上下 ( かみしも )には、無数の石船がつながれていて、河の中も石、 陸 ( おか )も石、どこを見まわしても石だらけなのである。 その石も皆、畳二枚以上の 巨 ( おお )きなものが多かった。 焼けきった石の上に、 石曳 ( いしひ )きの労働者たちは、無感覚に寝そべったり腰かけたり仰向けに転がったりしている。 ちょうど今が、昼飯 刻 ( どき )でその後の半刻休みを楽しんでいるのであろう。 そこらに材木をおろしている牛車の牛も 涎 ( よだれ )をたらして、満身に 蠅 ( はえ )を集めてじっとしている。 伏見城の修築だった。 いつのまにか、世の人々に「大御所」と呼ばしめている家康がここに滞在しているからではない。 城普請 ( しろぶしん )は、徳川の戦後政策の一つだった。 譜代大名 ( ふだいだいみょう )の心を 弛緩 ( しかん )させないために。 もう一つの理由は、一般民に、とにかく徳川政策を 謳歌 ( おうか )させるためには、土木の工を各地に起して、下層民へ金をこぼしてやるに限る。 今、城普請は全国的に着手されていた。 この伏見城の土木へ 日稼 ( ひかせ )ぎに来る労働者の数だけでも、千人に近かった。 その多くは、 新曲輪 ( しんぐるわ )の石垣工事にかかっているのである。 伏見町はそのせいで、急に、 売女 ( ばいた )と 馬蠅 ( うまばえ )と物売りが 殖 ( ふ )え、 「大御所様景気や」 と、徳川政策を謳歌した。 その上、 「もし戦争になれば」 と、町人たちは、機と利を察して、思惑に熱していた。 社会事象のことごとくを、そろばん珠にのせて、 「 儲 ( もう )けるのはここだ」 無言のうちに、商品は活溌にうごいた。 その大部分が、軍需品であることはいうまでもない。 もう庶民の頭には、太閤時代の文化をなつかしむよりも、大御所政策の目さきのいい方へ心酔しかけていた。 司権者は誰でもいいのである。 自分たちの小さな慾望のうちで、生活の満足ができればそれで苦情がないのだ。 家康は、そういう愚民心理を、裏切らなかった。 子どもへ菓子を 撒 ( ま )いてやるより 易々 ( いい )たる問題であったろう。 それも徳川家の金でするのではない。 栄養過多な外様大名に課役させて、程よく、彼らの力をも減殺させながら効果を挙げてゆく。 そうした都市政策の一方、大御所政治は、農村に対しても、従来の放漫な切り取り徴発や、 国持 ( くにもち )まかせを許さなかった。 徳川式の封建政策をぽつぽつ 布 ( し )きはじめていた。 それには、 (民をして政治を知らしむなかれ、政治にたよらせよ) という主義から、 (百姓は、飢えぬほどにして、気ままもさせぬが、百姓への慈悲なり) と、施政の方策をさずけて、徳川中心の永遠の計にかかっていた。 それはやがて、大名にも、町人にも、同じようにかかって来て、孫子の代まで、身うごきのならない手かせ足かせとなる封建統制の前提であったが、そういう百年先のことまでは、誰も考えなかった。 いや、 城普請 ( しろぶしん )の石揚げや石曳きに稼ぎに来ている労働者などは、 明日 ( あした )のことさえ、思っていないのである。 昼飯をたべれば、 「はやく晩になれ」 と祈るのが、いっぱいな慾念だった。 それでも時節がら、 「戦争になるか」 「なれば 何日 ( いつ )頃?」 などと、時局談は、いっぱし 熾 ( さか )んだったが、その心理には、 「戦争になったって、こちとらは、これ以上、悪くなりようがねえ」 という気持があるからで、ほんとにこの時局を 憂 ( うれ )いたり、平和の岐点をじっと案じて、どの方へ曲がるのが国と民のためだろうなどと考えているのでは決してないのである。 石の蔭で、 銭 ( ぜに )の裏表を伏せて、 博戯 ( ばくち )をしていた人足の群れで、二つ売れた。 「こちらの衆は、西瓜どうや。 西瓜買うてくれなはらんか」 と、群れから群れへ唄ってくると、 「べら棒め、銭がねえや」 「ただなら食ってやる」 そんな声ばかりだった。 すると、たった一人ぽち、青白い顔をして、石と石のあいだに 倚 ( よ )りかかって膝を抱えていた石曳きの若い労働者が、 「西瓜か」 と、力のない眼をあげた。 又八は、土のついた青銭を、掌のうえでかぞえた。 西瓜売りにわたして一個の西瓜と交換した。 それを抱え込むと、またしばらく、石に倚りかかったまま、ぐんなり 俯向 ( うつむ )いているのである。 「げ……げ……」 突然、片手をつくと、草の中へ牛みたいに 唾液 ( だえき )を吐いた。 西瓜は膝から転がり出している。 それを取ろうとする気力もないし、食べようという気で買ったわけでもないらしいのだ。 「…………」 にぶい眼で、西瓜をながめていた。 眼は虚無の玉みたいに何の意力も希望もたたえていない。 呼吸 ( いき )をすると肩ばかりうごいた。 「……畜生」 呪う者ばかりが 頭脳 ( あたま )へ映ってくる。 お 甲 ( こう )の白い顔であり、 武蔵 ( たけぞう )のすがたであった。 今の逆境へ落ちて来た過去を 振顧 ( ふりかえ )ると、武蔵がなかったらと思い、お甲に会わなかったらと彼はつい思う。 過 ( あやま )ちの一歩は、関ヶ原の 戦 ( いくさ )の時だ。 次に、お甲の誘惑だ。 あの二つのことさえなかったら、自分は今も、 故郷 ( ふるさと )にいたろう。 そして本位田家の当主になって、美しい嫁をもち、村の人々から、 羨望 ( せんぼう )される身でいられたに違いない。 「お 通 ( つう )は、怨んでいるだろうなあ……。 どうしているか」 彼の今の生活は、彼女を空想することだけが慰めだった。 お甲という女の性質がよくわかってからは、お甲と同棲しているうちから、心はお通へもどっていたのだった。 やがてあの「よもぎの寮」と呼ぶお甲の家を、ていよく突き出されたような形で出てしまってからは、よけいにお通を思うことが多かった。 その後また、よく 洛内 ( らくない )の侍たちの間で噂にのぼる宮本武蔵なる新進の剣士が、むかし友達の「 武蔵 ( たけぞう )」であることを知ると、又八はじっとしていられなかった。 (よしっ、俺だって) 彼は酒をやめた。 遊惰な悪習を蹴とばした。 そして次の生活へかかりかけた。 (お甲のやつにも、見返してやるぞ。 五年も世間を見ずに、年上の女に養われて来た不覚のほどが、はっきり身に沁みて分ったが、遅かった。 (いや、遅かあない。 まだ二十二だ。 どんなことをしたって……) と、これは誰にでも起せる程度の興奮だったが、又八としては、眼をつぶって運命の断層をとび越えるような悲壮をもって、この伏見城の土木へ働きに出たのだった。 そしてこの夏から秋までの炎天下で、自分でもよく続いたと思うほど労働をつづけていた。 (おれも、一かどの男になってみせる。 武蔵のやる芸ぐらい、俺に出来ない法はない。 いや、今にあいつを尻目にかけて、出世してみせてやる。 その時には、お甲にも黙って復讐できるのだ。 武蔵や自分よりも、彼女は一ツ年下だ。 すると今から十年経つうちには、もう三十を一つこえてしまう。 (それまで、お通が、独り身で待っているかしら?) 故郷のその後の消息は何も知らない又八だった。 そう考えると、十年では遠すぎる、少なくもここ五、六年のうちだ。 なんとしても身を立てて、故郷へ行き、お通に詫びて、お通を迎え取らなければならない。 「そうだ……五年か、六年のうちに」 西瓜を見ている眼に、やや光が出てきた。 すると、 巨 ( おお )きな石の向う側から、仲間の一人が、 肱 ( ひじ )を乗せていった。 「おい又八、何をひとりでぶつぶついってるんだ。 ……オヤ、ばかに青い 面 ( つら )して、げんなりしているじゃねえか。 どうしたんだ、腐った西瓜でも喰らって、腹でも 下痢 ( くだ )したのか」 つけ元気に、又八はうすく笑った。 だがすぐ、不快な眼まいがこみあげて来るらしく、 生唾 ( なまつば )を吐いて顔を振った。 「な、なあに、大したことはないが、少し暑さ 中 ( あた )りしたらしいんだ。 ……すまないが、 午 ( ひる )から一 刻 ( とき )ほど、休ましてくれ」 「意気地のねえ野郎だな」 逞しい石曳き仲間は、 愍 ( あわ )れむように 嘲 ( あざけ )った。 「なんだい、その西瓜は。 喰えもしねえのに買ったのか」 「仲間にすまないから、みんなに喰べてもらおうと思って」 「そいつあ如才のねえこった。 おい、又八の 奢 ( おご )りだとよ、食ってやれ」 西瓜を持って、その男は、石の角へたたきつけた。 忽ち、そこらの仲間が 蟻 ( あり )のように寄って来て、赤いしずくの 滴 ( したた )る甘肉の破片を 貪 ( むさぼ )り合った。 「やあい、仕事だぞうっ」 石曳きの 小頭 ( こがしら )が、石のうえに上がって呶鳴った。 監督の侍が、 鞭 ( むち )を持って 陽除 ( ひよ )け小屋から出て来る。 遽 ( にわ )かに汗のにおいが大地にうごき、 馬蠅 ( うまばえ )までわんわん立つ。 「テコ」や「コロ」に乗せられた巨大な石が、一握りもある太い綱に曳かれて徐々に前へ出てゆくのだった、雲の峰がうごくように。 築城時代の現出は、それにつれて全国に、石曳き歌というものの流行を 興 ( おこ )した。 今、ここの人足たちが唄い出したのもそれである。 これにてなくば、うき世なるまじく見え 候 ( そろ )) 労働歌が絃歌になり、蜂須賀侯のような大名までが、 夜興 ( やきょう )の 口誦 ( くちずさ )みに 戯 ( たわむ )れたものとみえる。 街に歌がさかんになりだしたのは、何といっても太閤の世盛りからだった。 室町将軍の頃には、歌があっても 廃頽的 ( はいたいてき )な室内のものだけだった。 その頃は、児童がうたう歌まで、ひがみッぽい暗い歌が多かったが、太閤の世になってからは、歌も明るくなり大きくなり希望的になって、民衆はそれを汗をかきながら太陽の下でうたうことを甚だ好んだ。 関ヶ原の役の後、社会文化に家康色がだんだん濃くなってくると、歌もすこし変って来て、豪放さはうすくなった。 太閤様のころには、民衆からひとりでに歌が湧いてきたが、大御所の世間になってからは、徳川 家付 ( いえつき )の作者が作ったような歌が民衆へ提供されて来た。 「……ああ、苦しい」 又八は、頭をかかえた。 頭は火みたいに熱かった。 仲間のわめいている石曳き歌が、 虻 ( あぶ )に取り巻かれているように耳にうるさかった。 「……五年、五年。 アア五年働いていたらどうなるんだ。 一日稼いでは、一日分食ってしまい、一日休めば、一日食わずにいなけれやならない」 生唾 ( なまつば )も出しきって、青ざめた顔を 俯向 ( うつむ )けていた。 何思ったか、武者修行はそこへ坐りこんだ。 面積一坪ほどな 平石 ( ひらいし )の前にである。 坐ってみるとちょうど机の高さぐらいに 肱 ( ひじ )がつけるのだ。 「ふッ……ふッ……」 焦 ( や )けていた石の砂を息で吹く、砂とともに 蟻 ( あり )の列もふき飛んでゆく。 ふたつの肱をつくと、編笠はしばらく頬杖に乗っている。 陽ざかりで、石はみな照り返すし、草いきれは逆さに顔を撫でるし、さぞ暑いだろうに、身うごきもしない。 城の工事に眺め入っているのである。 少し離れた所に、又八がいることなどは、意に介さない様子であった。 又八もそこへ来てそういう 態 ( てい )をしている武者修行があろうとあるまいと、もとより自分に何の交渉があるわけではないし、頭や胸も依然として不快なので、時折、胃から 生唾 ( なまつば )を吐きながら、背を向けて休んでいた。 その苦しげな息を耳にとめたのだろう。 編笠がうごいて、 「石曳き」 と、声をかけ、 「どういたした?」 「へい……暑さ 中 ( あた )りで」 「苦しいのか」 「少し落ちつきましたが……まだこう吐きそうなんで」 「薬をやろう」 印籠を割って、黒い粒を 掌 ( てのひら )へうつし、起って来て又八の口へ入れてくれた。 「すぐ 癒 ( なお )る」 「ありがとう存じます」 「にがいか」 「そんなでもございません」 「まだ、貴様はそこで、仕事を休んでおるのか」 「へ……」 「誰か参ったら、ちょっとおれの方へ声をかけてくれ、小石で合図をしてくれてもいい、頼むぞ」 武者修行は、そういって、前の位置に坐りこむと、今度はすぐ矢立から筆を取り出し、半紙 綴 ( とじ )の 懐中 ( ふところ )手帖を石の上にひろげて、ものを書くことに没頭しはじめた。 笠のつば越しに、彼の眼のやりばが、間断なく城へ向ったり、城の外のほうへ行ったり、また城のうしろの山の線や、河川の位置や、天守などへ、転々とうごいてゆくところを見ると、その筆の先は、伏見城の地理と廓外廓内の眼づもりを、絵図に 写 ( と )っているにちがいなかった。 関ヶ原の 戦 ( いくさ )の直前に、この城は西軍の浮田勢と島津勢に攻められて、その 増田廓 ( ますだぐるわ )や 大蔵廓 ( おおくらぐるわ )や、また諸所の 塁濠 ( るいごう )などもかなり破壊されたものだったが、今では、太閤時代の旧観にさらに鉄壁の威厳を加えて、一衣帯水の大坂城を 睥睨 ( へいげい )していた。 「……あっ」 又八が、そういった時には、写図に一心になっている編笠のうしろへ、工事課役の大名の臣か、伏見の 直臣 ( じきしん )かわからないが、 草鞋 ( わらじ )ばきで、太刀を 革紐 ( かわひも )で背なかに負うた半具足の侍が、武者修行の気のつくまで、黙って立っていたのだった。 又八は正直にすまないと思った。 けれどもう遅い。 石を投げてやっても声をかけてやっても、もう遅い。 工事目付の侍は、その眼をじっと 睨 ( ね )め返して、石の上の見取図へだまって具足の手を伸ばした。 この炎天下の我慢と、 粒々 ( りゅうりゅう )の辛苦をして、やっと写した城の見取図が、ものもいわず、いきなり肩越しに出て来た手のために、 皺 ( しわ ) くちゃに 掴 ( つか )み 奪 ( と )られようとするのを見ると、武者修行は、火薬の塊りが火を呼んだように、 「何するかッ」 満身で呶鳴った。 手頸 ( てくび )をつかまえて立つと、工事目付は 奪 ( と )り上げた彼の写図帖を、奪り返されまいとして、宙へその手をさしあげつつ、 「見せろ」 「無礼なッ」 「役目だ」 「なんであろうが」 「見ては悪いものか」 「悪いっ。 貴様などが見たってわかるもんじゃない」 「とにかく預る」 「いかん!」 帖の写図は、双方の手に裂かれて、半図ずつ握りしめた。 「曳ッ立てるぞ、素直にせぬと」 「どこへ」 「奉行所へ」 「貴様、役人か」 「然り」 「何番の。 誰の」 「左様なこと、汝らが、訊かんでもいい。 ……とにかくこれは返せん、其方も一応取りただすによって、あっちまで来い」 「あっちとは」 「工事奉行のお 白洲 ( しらす )」 「おれを罪人扱いするのか」 「だまって参るのだ」 「役人、こらっ。 見廻りは、青すじを立てた。 掴んでいた写図の破れを、地へすてて踏みにじり、二尺余りの長い十手を腰から抜いた。 武者修行の手が刀へかかったら、すかさず、その 肱 ( ひじ )へ十手の打撃を入れてやろうとするもののように、腰を 退 ( ひ )いて身構えたが、その様子もないので、もう一度、 「歩かんと、縄を打つぞ」 ことばの終らないうちに、武者修行のほうから一歩出て来た。 何か大きな声を発したと思うと、見廻りは首の根をつかみ寄せられていた。 武者修行の片手はまた、彼の 鎧帯 ( よろいおび )の腰をつかんで、 「この、虫けら」 巨石 ( おおいし )の角へ向って 抛 ( ほう )り投げた。 見廻りの 侍頭 ( さむらいがしら )は、 先刻 ( さっき )そこで石曳きの男がたたき割った西瓜のようになって、形を失ってしまった。 「……アッ」 又八は、顔を抑えた。 真っ赤な味噌みたいなものが彼のいる辺りまで 刎 ( は )ねて来たからである。 平然たるものは、 彼方 ( あなた )の武者修行であった。 よほどこんな殺人に馴れているのか、また一気に憤りを爆発させて後の涼しさに落着いているのか、とにかく、あわてて逃げ出す様子もなく、見廻りの足で踏みにじられた写図の断片と、そこらに散らばっている 反古 ( ほご )をひろい集め、次に、相手を投げる途端に 紐 ( ひも )が切れて飛んで行った編笠を、静かな目で捜している。 「…………」 又八は、凄惨な気に打たれていた。 恐ろしい力量を見て自分の毛穴までよだっている。 陽焦 ( ひや )けのした骨太の顔に薄 あばたがあり、耳の下から顎にかけて四半分ほど顔がない。 ないというのはおかしいが、太刀で斬られた 痕 ( きずあと )の肉が変に縮んでしまったのかも知れない。 その耳の裏にも黒い 刀痕 ( とうこん )があり、左の手の甲にも刀傷がある。 笠を拾って、怪異なその顔へかむると、武者修行はさっと足を速めた。 風のように彼方へ向って逃げ出したのである。 勿論、そこまでの行動は極めて短い間だった。 それは丸太組の 櫓 ( やぐら )のうえにいる 棟梁衆 ( とうりょうしゅう )や作事与力の上役だった。 そこから突然、大きな声が放たれたと思うと、櫓の下の湯呑み所の板がこいの中で、大釜の火にいぶされながら働いていた足軽たちが、 「なんだ?」 「何だ」 「また、喧嘩か」 と、外へ飛び出した。 もうその時は、作業場と町屋の境に出来ている 竹矢来 ( たけやらい )の木戸で、真っ黒にかたまった人間の怒号が黄いろい 埃 ( ほこり )につつまれていた。 「 間者 ( かんじゃ )だな! 大坂の」 「 性懲 ( しょうこ )りもなく」 「ぶっ殺せ」 口々にいって、 石工 ( いしく )や土工や工事奉行の配下は、みな自分の敵でもいるように駈け集まって行く。 半分 顎 ( あご )のない武者修行が捕まったのだ。 竹矢来の外へ出て行く牛車の蔭にかくれて、すばやく木戸の口をすり抜けようとしたが、そこの番衆たちに挙動を怪しまれて、釘の植わっている 刺叉 ( さすまた )という 柄 ( え )の長い道具で、いきなり足を 搦 ( から )み取られたのであった。 そこへ、 櫓 ( やぐら )の上からも、 「その編笠を引ッ捕えろっ」 と、呼ばわる声が同時にあったので、理由などは問わず、遮二無二、組み伏せにかかると、武者修行は形相をあらためて、野獣のように死にもの狂いとなった。 刺叉を引っ 奪 ( た )くられた男が、真っ先にその得物の先で髪を引っかけられた。 四、五人叩き伏せておいて、虚空へさっと 閃 ( ひらめ )かしたのは彼の腰に横たえていた 胴田貫 ( どうたぬき )らしい大太刀である。 平常 ( ふだん )の 差刀 ( さしもの )には頑丈すぎるが、陣太刀にすれば手ごろである。 すると、危険を避けて人間はわっと散らかったが、途端に八方から小石が降って来たのである。 「 殺 ( や )っちまえ」 「たたっ殺してしまえっ」 肝腎 ( かんじん )な侍たちが臆して近よらないので、平常、武者修行というものに対して、彼らは少しばかりの知識や学問を鼻にかけ、世の中をただ威張って横に歩くのを見栄にしている無産の 僻 ( ひが )み者か、一種の逸民と認めて、それに反感を抱いている石工だの土工だのという労働者たちが、 「 殺 ( や )っちまえ」 「のしちまえ」 と叫んで、四方から 抛 ( ほう )りつける、それは無数の石つぶてであった。 「この 凡下 ( ぼんげ )どもめ!」 駈け入れば、わッと散るのだ。 武者修行の眼はもう自分の生きる路を見つけるよりも、その石の来るほうの人間へ向って、理智や利害を越えている。 怪我人 ( けがにん )も多く出たし、死者も幾人かあったのに、それから一瞬の後は、めいめい職場にかえって、けろりとした工事場の広さであった。 何事もなかったように、石曳きは石を曳き、土工は土をかつぎ、 石工 ( いしく )は 鑿 ( のみ )で石を割っている。 鑿 ( のみ )が火花を出す暑い音、 霍乱 ( かくらん )をおこして暴れくるう馬のいななき、残暑の空は、午後に入って、じいんと 鼓膜 ( こまく )が馬鹿になるような熱さだった。 伏見城から淀のほうへ背のびをしている雲の峰は、しばらくうごきもしなかった。 「もう九分九厘まで、くたばっているが、御奉行が来るまでこうして置くから、 汝 ( てめえ )そこにいて、こいつの番をしておれ。 「……人間なんて、つまんねえものだな。 たった今そこで、城の見取図を写していた男が」 又八のにぶい 眸 ( ひとみ )は自分から十歩ほど先の地上にある一個の物体を見つめたまま、最前からぽんやりと虚無的な考えに囚われている。 「……もう死んでるらしい。 まだ三十前だろうに」 と彼は思い 遣 ( や )った。 顎の半分ない武者修行は、太い麻縄で縛られて、血に土のまぶされた黒い顔を、無念そうにしかめたまま、その顔を横伏せにして倒れている。 縄尻はそばの 巨 ( おお )きな石に巻きつけてあるのだった。 もう「ウ」も「ス」もいい得ない死人の体をそう 大仰 ( おおぎょう )に 縛 ( くく )っておかないでもよさそうなものと又八はながめていたことだった。 何で撲られたのか、破れた 袴 ( はかま )から変な恰好して露出している脚の 脛 ( すね )は、肉が 弾 ( はじ )けて折れた白骨の先が飛び出していた。 髪は 粘 ( ねば )って血を噴いているし、その血へは 虻 ( あぶ )がたかり、手や脚にはもう 蟻 ( あり )の群れが這っている。 「武者修行に出たからには、のぞみを抱いていたろうに。 親はあるのかないのか」 そんなことを 思 ( おも )い 遣 ( や )ると、又八はいやな気持に襲われて、武者修行の一生を考えているのか、自分の身の果てを考えているのか、分らなくなってきた。 「望みをもつにも、もっと悧巧に出世する道がありそうなものだ」 と、つぶやいた。 時代は若い者の野望を 煽 ( あお )って、「若者よ夢を持て」「若者よ起て」と未完成から完成への過渡期にあった。 又八ですらその社会の空気を感じるほど、今は、裸から一国一城の 主 ( あるじ )を望める時である。 その多くが武者修行の道をとるのだ。 武者修行をして歩けば今の社会では到るところで衣食に事を欠くことはない。 田夫野人でも武術には関心をもっているからだ。 寺院へ頼っても渡れるし、あわよくば地方の豪族の客となり、なお、幸運にぶつかれば、一朝事のある場合のために、大名の経済から「捨て 扶持 ( ぶち )」「蔭扶持」などというものを 貢 ( みつ )がれることもある。 だが数多い武者修行の中で、そういう幸運にあう者がどれほどあろうかといえば、これは極めて少数にちがいない。 功成り名を遂げ、一人前の 禄 ( ろく )取りになるほどの者は一万人中で二人か三人を出ないであろう。 (馬鹿馬鹿しい……) 又八は、同郷の友の宮本武蔵が行った道を 憐 ( あわれ )んだ。 おれは将来、奴を見返してやるにしても、そんな愚かな道はとらないぞと思う。 ここに死んでいる顎のない武者修行のすがたを見てもそう思う。 「……おやっ?」 又八は飛び 退 ( の )いて大きな眼をすえた。 なぜならば、死んだものときめていた蟻だらけの武者修行の手がびくっと動き出して、縄目の間から 鼈 ( すっぽん )のような手首だけを出して大地へつき、やがてむくりと、腹を上げ、顔を上げ、次に前のほうへ一尺ばかり、ずるりと這い出して来たからであった。 ぐ……と 生唾 ( なまつば )をのんで又八はなおも後へ 摺 ( ず )り 退 ( さ )がった。 腹の底から驚きを感じると声も出ないものだ。 ただ眼のみ大きくみひらいて、目前の事実に茫失した。 「……ひゅっ……ひゅっ……」 彼は、何かいおうとするらしい。 彼とは顎の半分ない武者修行である。 完全に死んでいると思っていたこの男は、まだ生きていたのだ。 ……ヒュッ、ヒュッと 断 ( き )れ 断 ( ぎ )れに彼の呼吸が 喉 ( のど )で鳴るのである。 唇は黒く 渇 ( かわ )いてしまって、そこから言葉を吐くのはもう不可能な 業 ( わざ )であった。 それを必死に一言でもいおうとするので、呼吸が割れた笛の鳴るような音を出すのだった。 又八が驚いたのは、この男が生きていたからではない。 胸の下に縛りつけられている両手で這って来たからだ。 それだけでも、驚くに足る人間の死力であるのに、その縄尻の巻きつけてある何十貫もあろう 巨石 ( おおいし )が、この瀕死の 傷負 ( ておい )が引っ張る力で、ズル、ズル……と一、二尺ずつ前へ動いて来たからである。 まるで、化け物のような怪力だ。 この工事場の労働者のうちにも、ずいぶん力自慢があって、十人力とか二十人力とか自称している天狗もあるが、こんな化け物は一人もいない。 しかも、この武者修行は、今や死なんとしている体なのだ。 「……しょっ……しょっ……お、お、おねがい」 また何か、変った 語音 ( ごいん )を出していう。 意味はまったく分らない。 「……たっ……た……たのむ……」 がくっと首を前へ折った。 こんどはほんとに息が絶えたのだろう、見ているうちに 襟 ( えり )首の皮膚の色が青黒く沈んで行った。 草むらの蟻がもう白っぽい髪の毛にたかっている。 血のかたまった鼻の穴を一匹はのぞきこんでいた。 「? ……」 何を頼まれたのか、又八は 茫 ( ぼう )としているだけだった。 けれどこの怪力の武者修行が 臨終 ( いまわ )の一念は、自分へ 憑 ( つ )き物のようについていて 違 ( たが )えることのできない約束の負担を負わされたような気持がしてならない。 お城は 暮靄 ( ぼあい )にかすんで来た。 いつのまにかもう 黄昏 ( たそが )れかけて、伏見の町には早い 灯 ( あか )りがポツポツ 戦 ( そよ )ぎだしている。 「そうだ……何かこの中に」 又八は、死者の腰に結びつけている武者修行風呂敷をそっと触ってみた。 (故郷の土へ、 遺物 ( かたみ )を届けてくれというのだろう) そう彼は判断した。 包みと印籠を、死者の体から取って、自分の 懐中 ( ふところ )へ入れた。 石の蔭から見ると、奉行配下の侍たちだ。 又八は、死骸から無断で取った品物が自分の 懐中 ( ふところ )にあると思うと、自分の危険を感じて、そこにいたたまらなくなった。 夕ぐれの風はもう秋だった。 糸瓜 ( へちま )は大きくなっている。 その下で、 盥 ( たらい )の湯に 浴 ( つ )かっている駄菓子屋の女房が、家の中の物音に、戸板の蔭から白い肌を出していった。 「誰だえ。 又八さんかい?」 又八はこの家の同居人だった。 今、あたふたと帰って来ると、戸棚を掻廻して、一枚の 単衣 ( ひとえ )と 一腰 ( ひとこし )の刀を出し、姿をかえると、手拭で 頬冠 ( ほおかむ )りして、またすぐ草履を 穿 ( は )こうとしていた。 「暗かろ、又八さん」 「なに、べつに」 「今すぐ 灯 ( あか )りをつけるで」 「それには及ばないよ、出かけるから」 「行水は」 「いらん」 「体でも拭いて行ったら」 「いらん」 急いで裏口から飛び出して行った。 といっても、垣も戸もない草原つづきである。 彼が長屋から出て来ると入れちがいに、数名の人影が、 萱 ( かや )の 彼方 ( かなた )を通って、駄菓子屋の裏表へ入ってゆくのが見えた。 工事場の侍が 交 ( ま )じっていた。 又八は、 「あぶない所だった」 と 呟 ( つぶや )いた。 顎の半分ない武者修行の死体から、包みや 印籠 ( いんろう )を取った者のあることは、その後ですぐ発見された筈である。 当然、その側にいた自分に盗人の嫌疑がかかったに相違ない。 「だが……俺は盗みをしたのじゃない。 死んだ武者修行の頼みにやむなく持物を預かって来たのだ」 又八は 疚 ( やま )しくなかった。 その品は 懐中 ( ふところ )に持っている。 これは預かった物だと意識しながら持っている。 「もう石曳きに行かれない」 彼は、 明日 ( あした )からの放浪に、なんの あてもなかった。 しかし、こういう転機でもなければ、何年でも石を曳いているかも知れないと思うと、かえって先が明るく考えられる。 萱 ( かや )の葉が肩までかかる。 夕露がいっぱいだ。 遠くから姿を発見される 惧 ( おそ )れがなくて逃げるには気楽だ。 さてこれからどっちへゆくか? どっちへ行こうと体一つである。 何かいい運だの悪い運だのがいろいろな方角で自分を待っているらしく思う。 今の足の向き方ひとつで生涯に大きな違いが生じるのだ。 必然、こうなるものだと決定された人生などがあろうとは考えられない。 偶然にまかせて歩くよりほか仕方がない。 賽 ころに必然がないように、又八にも必然がないのだった。 何かここに起ってくる偶然があれば、それに引かれて行こうと思う。 だが、伏見の里の萱原には、歩けど歩けど何の偶然もなかった。 虫の音と露とが深くなるばかりだった。 単衣 ( ひとえ )のすそはびっしょり濡れて足に巻きつき、草の実がたかって、 脛 ( すね )がむず 痒 ( がゆ )い。 又八は、昼の病苦をわすれた代りに、すっかり 飢 ( ひも )じくなっていた。 胃液まで空っぽなのだ。 追手の心配がなくなってからは、急に歩くことが苦痛になっていた。 「……何処かで寝たいものだ」 その慾望が彼を無意識にここへ運んで来たのである。 それは野末に見えた一軒の 屋 ( や )の 棟 ( むね )だった。 近づいてみると垣も門も暴風の時に傾いたまま誰も起してやり手がない。 おそらく屋根も満足なものではあるまい。 しかし一度は貴人の別荘とされて、都あたりから、糸毛の 輦 ( くるま )に ( ろう )たけた麗人が、萩を分けて通ったこともありそうな 家造 ( やづく )りなのである。 又八はその無門の門を通って中へ入り、秋草の中に埋まっている 離亭 ( はなれ )や 母屋 ( おもや )をながめて、ふと玉葉集の中にある西行の、 ちょうどよい 塒 ( ねぐら )とここに一夜を明かしている虚無僧らしいのである。 炉 ( ろ )の火が赤く立つと、大きな人影が 婆娑 ( ばさ )として壁に映る。 独り尺八を吹いているのだ。 それはまた 他人 ( ひと )に聞かそうためでもなく自ら誇って陶酔している 音 ( ね )でもない。 秋の夜の孤寂の 遣 ( や )る瀬なさを、無我と 三昧 ( さんまい )に過ごしているだけのことなのだ。 ……考えれば 慚愧 ( ざんき )にたえない。 死んだ妻にも生きている子にも会わせる顔がない。 ……このおれなどの例を見ると、四十不惑などというのは聖人のことで、凡夫の四十だいほど危ないものはない。 油断のならない山坂だ。 まして女に関しては」 胡坐 ( あぐら )の前に、尺八を 縦 ( たて )に突き、その歌口へ両手をかさねて、 「二十だい、三十だいの年でも、由来おれは、やたらに女のことで失敗をやって来たが、そのころにはどんな醜聞をさらしても、人も許してくれたし、生涯の 怪我 ( けが )にもならなかった。 ……ところが、四十だいとなると、女に対してすることが 厚顔 ( あつか )ましくもなるし、それがお 通 ( つう )の場合のような事件になると、今度は世間がゆるさない。 そして、致命的な外聞になってしまった。 禄も家もわが子にも離れるような失敗になってしまった。 ……そして、この失敗も、二十だい三十だいなら取り返せるが、四十だいの失敗は二度と芽を出すことがむずかしい」 盲人のように 俯向 ( うつむ )いたまま、声を出してそういっているのである。 「アア……それを……おれは……」 虚無僧は、天井を仰向いた。 骸骨 ( がいこつ )のように鼻の穴が大きく又八のほうから見える。 凡 ( ただ )の浪人の 垢 ( あか )じみた着物を着て、その胸に、 普化禅師 ( ふけぜんじ )の末弟という 証 ( しるし )ばかりに黒い 袈裟 ( けさ )をつけているに過ぎないのである。 敷いている一枚の 筵 ( むしろ )は、常に巻いて手に持って歩く彼の唯一の 衾 ( ふすま )であり雨露の家だった。 …… 慚愧 ( ざんき )のいたりだ」 誰かに向って謝っているように、虚無僧は頭を下げて、さらにまた下げて、 「おれはいい、おれは、それでも、いいとしよう。 おれのした結果は、おれに 酬 ( むく )うより、あの城太郎のほうへより多く 祟 ( たた )っている。 とにかく、姫路の池田侯に藩臣としてこのおれが 歴乎 ( れっき )としていれば、あの子だって、千石侍の一人息子だ。 それが今では、 故郷 ( くに )を離れ、父を離れ……。 イヤそれよりも、あの城太郎が成人して、この父が、四十だいになってから、女のことで藩地から放逐されたなどと知る日が来たら、おれはどうしよう。 ……おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。 そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」 尺八を持って、彼は外へ出て行った。 妙な虚無僧である。 よろよろ立ってゆく時、物蔭から又八が見ていると、その痩せこけた 鼻下 ( びか )にはうすい どじょう 髭 ( ひげ )が生えていたように思う。 そう年を 老 ( と )っているほどでもないのに、ひどくよぼよぼした足元だった。 ぷいと出て行ったきり、なかなか戻って来ないのだ。 少し精神に異常があるのだろうと、又八は不気味に思う半面にあわれな気もした。 それはいいが、物騒なのは、炉に残っている火であった。 ぱちぱちと夜風がそれを 煽 ( あお )っている。 燃え折れた柴の火は、床を 焦 ( こ )がしているではないか。 「あぶねえ、あぶねえ」 又八はそこへ行って、 土瓶 ( どびん )の水をじゅっとかけた。 これが野中の破れ 邸 ( やしき )だからいいようなものの 飛鳥朝 ( あすかちょう )や鎌倉時代の二度と地上に建てることのできない寺院などであったらどうだろうと考えて、 「あんなのがいるから、奈良や高野にも火事があるんだ」 と彼は、虚無僧の去ったあとに自分が坐って、がらにもない公徳心を呼び起していた。 家産や妻子もない代りに、社会への公徳心も絶無な浮浪者には、火が怖いものという観念も全くないらしい。 だから彼らは、 金堂 ( こんどう )の壁画の中ですら平然と火を燃やす。 世の中に無用に生きているに過ぎない一個の 空骸 ( むくろ )を暖めるために火を燃やす。 「だが……浮浪人だけが悪いともいえねえな」 又八は自分も浮浪人であることを思って考えた。 今の世の中ほど浮浪人が多い社会はない。 それは何が生んだかといえば、 戦 ( いくさ )だった。 戦によってぐんぐん地位を占めてゆく者も多い代りに、 芥 ( あくた )のように捨てられてゆく人間の数も実に 夥 ( おびただ )しい。 これが次の文化の 手枷 ( てかせ )、足枷となるのもやむを得ない自然の因果といえよう。 そういう浮浪の徒が、国宝の塔を 焚火 ( たきび )で焼く数よりは、戦が、意識しつつ、高野や 叡山 ( えいざん )や皇都の物を焼いたほうが、遥かに大きな地域であった。 「……ほ。 洒落 ( しゃれ )たものがあるぞ」 又八はふと横を見てつぶやいた。 ここの炉も床の間も、改めて見直せば、元は茶屋にでも使っていたらしい 閑雅 ( かんが )な造りなのである。 そこの 小床 ( ことこ )の棚に、彼の眼をひいた物がある。 高価な 花瓶 ( はないけ )や香炉などではない。 口の欠けた徳利と、黒い 鍋 ( なべ )だった。 鍋には食べ残した 雑炊 ( ぞうすい )がまだ半分残っているし、徳利は振ってみると、ごぼっと音がして、欠けた口から酒がにおう。 「ありがたい」 こういう場合、人間の胃は、他の所有権を考えている 遑 ( いとま )はない。 徳利の濁り酒をのみ、鍋を 空 ( から )にして、又八は、 「ああ、腹が 満 ( は )った」 ごろんと手枕になる。 トロトロと炉の火もとに眠りかける。 雨のように野は虫の音に 更 ( ふ )けてゆく。 戸外ばかりでなく、壁も啼く、天井も啼く、破れ畳も啼きすだく。 「そうだ」 何か思い出したとみえる。 むくりと彼は起き直った。 そう急に思いついたらしい。 解いてみた。 中から出て来たのは、洗いざらした 襦袢 ( じゅばん )だの普通の旅行者の持つ用具などであったが、その 着 ( き )がえをひろげてみると、いかにも大事そうに、油紙でくるんである巻紙大の物と路銀の金入れであろう、どさっと重い音が膝の前に落ちた。 むらさき 革 ( がわ )の 巾着 ( きんちゃく )であった。 その金入れの中には、金銀 取交 ( とりま )ぜてだいぶの額が入っていた、又八は数えるだけでも自分の心が怖くなって、思わず、 「これは 他人 ( ひと )の 金 ( かね )だ」 と、殊さらにつぶやいた。 もう一つの油紙に包んであるものを開いてみると、これは一軸の巻物である。 軸には 花梨 ( かりん )の木が用いてあり、表装には 金襴 ( きんらん )の 古裂 ( ふるぎ )れが使ってあって、何となく秘品の紐を解く気持を 抱 ( いだ )かせられる。 「何だろ?」 全く見当のつかない品物だった。 もっとも、その又八にでも、伊藤弥五郎景久といえばすぐ、 (アアあの一刀流を創始して、一刀斎と号している達人か) と合点がゆくであろうが、その伊藤一刀斎の師が、鐘巻自斎という人で、またの名を 外他通家 ( とだみちいえ )といい、まったく社会からは忘れられている、富田入道 勢源 ( せいげん )の正しい道統をうけついで、その晩節をどこか 辺鄙 ( へんぴ )な田舎に送っている高純な士であるなどということはなおさら知らない。 この目録をみても分るが、中条流の印可をうけているのだもの。 惜しい死に方をしたものだな。 ……さだめしこの世に心残りなことだったろう。 あの最期の顔は、いかにも死ぬのが残念だという顔つきだった。 これを郷里の 知 ( し )る 辺 ( べ )へでも届けてくれといいたかったに違いない」 又八は、死んだ佐々木小次郎のために、口のうちで、念仏をとなえた。 そしてこの二品は、きっと死者の望むところへ届けてやろうと思った。 肌寒いので寝ながら炉の中へ柴を投げこんで、その炎にあやされながらウトウト眠りかけた。 ここを出て行った奇異な虚無僧が吹いているのであろう、遠い 野面 ( のづら )から尺八の音が聞えて来る。 何を求め、何を呼ぶのか。 彼が出て行く折につぶやいたように、愚痴と煩悩を捨て切ろうとする必死がこもっているせいかも知れない。 野は灰色に曇っている。 今朝 ( けさ )の涼しさは「立つ秋」を思わせ、眼に見るものすべてに露がある。 戸の吹き仆されている 厨 ( くりや )に、狐の足痕がまざまざ残っていた。 夜が明けても、 栗鼠 ( りす )はそこらにうろついている。 「アア、寒い」 虚無僧は、眼をさまして、広い台所の板敷へかしこまった。 夜明け頃、ヘトヘトになって戻って来ると、尺八を持ったまま、ここへ横になって眠ってしまった彼である。 うす汚い 袷 ( あわせ )も 袈裟 ( けさ )も、夜もすがら野を歩いていたために、狐に 魅 ( ば )かされた男のように草の実や露でよごれていた。 きのうの残暑とは比較にならない陽気なので、 風邪 ( かぜ )をひき込んだのであろう、鼻のうえに 皺 ( しわ )をよせ、鼻腔と眉を一緒にして、大きな 嚔 ( くさめ )を一つ放つ。 ありやなしやの薄い どじょう 髭 ( ひげ )の先に、鼻汁がかかった。 恬 ( てん )として、虚無僧はそれを拭こうともしないのである。 「……そうじゃ、ゆうべの濁り酒がまだあったはず」 つぶやいて 起 ( た )ち上がり、そこも狐狸妖怪の 足痕 ( あしあと )だらけな廊下をとおって、奥の炉のある部屋をさがしてゆく。 捜さなければ分らないほど、この空屋敷は昼になってみるとよけいに広いのである。 あるべきところに酒の壺がないのだ。 しかしそれはすぐ炉のそばに横たわっているのを発見したが、同時に、その 空 ( から )の 容器 ( いれもの )とともに、 肱枕 ( ひじまくら )をして、 涎 ( よだれ )をながして眠っている見つけない人間をも見出し、 「誰だろ?」 及び腰に覗き込んだ。 よく眠っている男だった。 撲りつけても眼を 醒 ( さ )ましそうもない 大鼾声 ( おおいびき )をかいているのである。 まだ事件があった。 今朝の朝飯として食べのこしておいた 鍋 ( なべ )の飯が、見れば底をあらわして一粒だにないではないか。 虚無僧は顔いろを変えた。 死活の問題であった。 「やいっ」 蹴とばすと、 「ウ……ウむ……」 又八は、 肱 ( ひじ )を 外 ( はず )してむっくと首をあげかけた。 「やいっ」 つづいて、もう一ツ、眼ざましに 足蹴 ( あしげ )を食らわすと、 「何しやがる」 寝起きの顔に、青すじを立てて、又八はぬっくと起ち上がった。 「おれを、足蹴にしたな、おれを」 「したくらいでは、腹が癒えんわい。 おのれ、誰に断って、ここにある 雑炊飯 ( ぞうすいめし )のあまりと酒を食らったか」 「おぬしのか」 「わしのじゃ!」 「それやあ済まなかった」 「済まなかったで済もうか」 「 謝 ( あやま )る」 「謝るとだけでことは納まらん」 「じゃあ、どうしたらいいんだ」 「かやせ」 「 返 ( かえ )せたって、もう腹の中に入って、おれの今日の 生命 ( いのち )のつなぎになっているものをどうしようもねえ」 「わしとて、生きて行かねばならん者だ。 一日尺八をふいて、人の 門辺 ( かどべ )に立っても、ようよう貰うところは、 一炊 ( ひとかし )ぎの米と 濁酒 ( どぶろく )の一合の 代 ( しろ )が関の山じゃ。 ……そ、それを無断であかの他人のおのれらに食われて 堪 ( たま )ろうか。 かやせ! かやせ!」 餓鬼の声である。 どじょう 髭 ( ひげ )の虚無僧は、飢えている顔に青すじを立て 威猛高 ( いたけだか )に 喚 ( わめ )いた。 飢えた野良猫にひとしい虚無僧の細っこい骨ぐみだった。 叩きつけて、一振りに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、襟がみをつかまれながら、又八の喉輪へつかみかかって来た虚無僧の力には、案外な 粘 ( ねば )りがある。 「こいつ」 と、 力 ( りき )み直したが、相手の足もとは、どうして、 確 ( しっ )かりとしたものだ。 かえって又八が顎をあげて、 「うッ……」 妙な声をしぼりながら、どたどたっと次の部屋まで押し出され、それを食い止めようとする力を利用されて、手際よく、壁へ向って投げ捨てられた。 根太も柱も 腐蝕 ( くさ )っている屋敷である。 一堪りもなく壁土が崩れて、又八は全身に泥をかぶった。 「ペッ……ペッ……」 猛然と 唾 ( つば )して立つと、ものをいわない代りに、凄い血相が刃物を抜いて、跳びかかってきた。 虚無僧も心得たりという応対で、尺八をもって渡りあう。 しかし情けないことにはすぐ 息喘 ( いきぎ )れが出て来て、尖った肩でせいせいいうのだ。 それに反して又八の肉体はなんといっても若かった。 「ざまを見ろッ」 圧倒的に又八は、斬りかけ斬りかけして、彼に息をつく間を与えない。 虚無僧は化けて出そうな顔つきになった。 体の飛躍を欠いてともすると蹴つまずきそうになる。 そのたびに何ともいえない死に際のさけびを放った。 そのくせ八方に逃げ廻って、容易には太刀を浴びないのである。 しかし結果は、その誇りが又八の敗因となった。 虚無僧が猫のように庭へ跳んだので、それを追うつもりで廊下を踏んだ途端に、雨に朽ちていた縁板がみりっと割れた。 片足を床下へ突っこんで、又八が尻もちをついたのを見ると、得たりと 刎 ( は )ね返して来た虚無僧が、 「うぬ、うぬ、うぬっ」 胸ぐらを取って、顔といわず 鬢 ( びん )たといわず、 撲 ( なぐ )りつけた。 脚がきかないので又八はどうにもならなかった。 自分の顔が見るまに四斗樽のように 腫 ( は )れたかと思う。 撲られるたびに 美 ( い )い 音 ( ね )がして、貨幣はそこらに散らかった。 又八もやっと彼の手をのがれて 跳 ( と )び 退 ( の )いた。 自分の 拳 ( こぶし )が痛くなるほど、憤怒を出しきった虚無僧は、肩で息をしながら、あたりにこぼれた金銀に眼を奪われていた。 「やいっ、畜生め」 腫 ( は )れ上がった横顔を抑えながら又八は、声をふるわせてこういった。 「な、なんだっ、鍋底のあまり飯くらいが! 一合ばかしの 濁酒 ( どぶろく )が! こう見えても、金などは腐るほど持っているんだ。 餓鬼め、ガツガツするな。 それほどほしけれやあ、くれてやるから持ってゆけっ。 その代り、今てめえが俺を撲っただけ、こんどは俺が撲るからそう思えっ。 アア、あさましい。 どうしておれはこう馬鹿なのか」 もう又八へ対していっているのではない、ひとりで 悶 ( もだ )え悲しんでいるのだ。 その自省心の烈しいことも、常人とは変っていて、 「この馬鹿、貴さまは一体、 幾歳 ( いくつ )になるのか。 こんなにまで、世の中から落伍して、 落魄 ( おちぶ )れ果てた目をみながら、まだ 醒 ( さ )めないのか、 性 ( しょう )なしめ」 そばの黒い柱へ向って、自分の頭をごつんごつん 打 ( ぶ )つけては泣き、打つけては泣き、 「何のために、 汝 ( おのれ )は尺八をふいているか。 愚痴、邪慾、迷妄、我執、煩悩のすべてを六孔から吐き捨てるためではないか。 しかも息子のような年下の若者と」 ふしぎな男だ。 そういって口惜しげにベソを掻くかと思うと、また、自分の頭を、柱に向って叩きつけ、その頭が二つに割れてしまわないうちは 止 ( や )めそうもないのである。 その自責からする 折檻 ( せっかん )は、又八を撲った数よりも遥かに多い。 又八は 呆 ( あ )っけにとられていたが、青ぶくれになった虚無僧の額から血がにじみ出て来たので、止めずにいられなくなった。 「ま、ま、 止 ( よ )したらどうだ、そんな無茶な真似」 「 措 ( お )いて下され」 「どうしたんだい」 「どうもせぬ」 「病気か」 「病気じゃござらぬ」 「じゃあなんだ」 「この身が 忌々 ( いまいま )しいだけじゃ。 かような肉体は、自分で打ち殺して、 鴉 ( からす )に喰わせてやったほうがましじゃが、この愚鈍のままで殺すのも忌々しい。 せめて人なみに 性 ( しょう )を得てから、野末に捨ててやろうと思うが、自分で自分がどうにもならぬので 焦 ( じ )れるのじゃ。 ……病気といわれれば病気かのう」 又八は、何か急に気の毒になって来て、そこらに落ちている金を拾いあつめて、幾らかを彼の手に握らせながら、 「おれも悪かった、これをやろう。 これで勘弁してくれ」 「いらん」手を引っこめて、 「金など、いらん、いらん」 鍋の残り飯でさえ、あんなに怒った虚無僧が、けがらわしい物でも見るように、強く首を振って、膝まで後へ 退 ( さ )がってゆく。 「変な人だな、おめえは」 「さほどでもござらぬ」 「いや、どうしても、少しおかしいところがあるぜ」 「どうなとしておかれい」 「虚無僧、おぬしには、時々、中国 訛 ( なま )りが 交 ( ま )じるな」 「姫路じゃもの」 「ほ……。 ……吉野郷とはなつかしいぞ。 わしは、日名倉の番所に、目付役をして詰めていたことがあるで、あの辺のことは相当に知っておるが」 「じゃあ、おぬしは、元姫路藩のお侍か」 「そうじゃ、これでも以前は、武家の 端 ( はし )くれ、青木……」 名乗りかけたが、今の自分を 省 ( かえり )みて、人前に身を置いているに耐えなくなったか、 「嘘だ、今のは、嘘じゃよ。 どれ……町へながしに行こうか」 ぷいと立って、野へ歩み去った。 費 ( つか )ってならない金だと思うにつけて気になるのだ。 たんとは悪いが、少しぐらいは、この中から借りて費ったところで罪悪にはなるまいと遂には思う。 「死者の頼みで、その 遺物 ( かたみ )を、郷里へ届けてやるにしても、路銀というものが 要 ( い )る。 当然、その費用は、この内から 費 ( つか )ったとて 関 ( かま )うまい」 又八はそう考えてから、幾分気が軽くなった。 だが、金のほかに死者から預かっている「中条流印可目録」の巻物のうちにある佐々木小次郎とは、一体どこが 生国 ( しょうごく )だろうか。 唯一の頼りは、佐々木小次郎に対して、印可目録を授けている 鐘巻自斎 ( かねまきじさい )という剣術の師匠だ。 その自斎がわかれば、小次郎の素姓もすぐ知れよう。 それについて、又八も伏見から大坂へ下って来る道々、茶店、飯屋、 旅籠 ( はたご )と折のあるごとに、 「鐘巻自斎という剣術のすぐれた人がいるかね」 訊 ( たず )ねてみたが、 「聞いたこともないお人ですなあ」 と、誰もいう。 「富田 勢源 ( せいげん )の流儀をひいている中条流の大家だが」 と、いってみても、 「はてね?」 まったく知る者がないのである。 たしか、関東に出て、晩年は上州のどこか山里にかくれたきり、世間へ出なかったように聞いておる。 富田主水正とは何かと訊くと、秀頼公の兵法師範役のうちの一人で、たしか、越前 宇坂之庄 ( うさかのしょう )の浄教寺村から出た富田入道勢源の一族の者だったと思うがという話。 すこし、あいまいな気もしたが、とにかく大坂へ出るつもりだし、又八は、市街へ入るとすぐ、目抜きの町の 旅籠 ( はたご )へ泊って、そんな侍が御城内にいるか否かを訊いてみると、 「はい、富田勢源様のお孫とかで、秀頼公のお師範ではありませんが、御城内の衆に兵法を教えていたお方はございましたが、それはもう古い話で、数年前に越前の国へお帰りになっております」 これは、宿の者のいうところだった。 町人とはいえ、城内の用勤めもしている家の者のいうことであるから、前の侍のことばよりはよほど真実味のある話だった。 あの方もたしか、中条流の鐘巻自斎という人のところで修行なされて、後に、一刀流という独自な流儀をお 創 ( はじ )めになったのですから」 それも一理ある忠告であった。 だが、その弥五郎一刀斎の居所をさがしてみると、これも近年まで洛外の白河に、一庵をむすんでいたが、近頃はまた、修行に出たのか、 杳 ( よう )としてその影を京大坂の附近では見かけたことがないと誰もいう。 「ええ、面倒くせえ」 又八は、 匙 ( さじ )を投げた。 眠っていた野心的な若さを、又八は、大坂へ来てからたたき起された。 ここではさかんに、人物を需要しているのだった。 伏見城では、新政策や武家制度を組んでいるが、この大坂城では、人材を 糾合 ( きゅうごう )して、牢人軍を組織しているらしかった。 もとよりそれは、公然とではないが。 長曾我部盛親などは、町端れのつまらない小路に借家して、若いのに頭をまるめ、一夢斎と名をかえて、 (浮世のことなど、わしゃ知らんよ) といった顔つきして、風雅と遊里の両方に身をやつして暮しているが、その手から、いざという場合には、猛然と起って、 (太閤御恩顧のため) という旗じるしの 下 ( もと )に集まろうという牢人が、七百や八百は飼ってあって、その生活費も、秀頼のお手元金から出ているのだということも聞いた。 又八は、 二月 ( ふたつき )ほど、大坂を見聞しているうちに、 (ここだ。 出世のつるをつかむ土地は) と、まず興奮を抱いた。 空脛 ( からすね )に、槍一本かつぎ出して、宮本村の 武蔵 ( たけぞう )と、関ヶ原の空をのぞんで飛び出した時のような壮志が、久しぶりに、近頃、健康になった彼の体にも、 甦 ( よみがえ )って来たらしいのである。 ふところの金は、ぼつぼつ減ってゆくが、何かしら、 (おれにも運が向いてきた) という自覚がして来て、毎日が明るくて、愉快だった。 石に蹴つまずいても、そんな 足下 ( あしもと )から、不意にいい運の芽が見つかりそうな気がするのである。 (まず、 身装 ( みなり )だ) 彼はいい大小を買って差した。 もう寒さにかかる晩秋なので、それにうつりのよい小袖と羽織も買った。 旅籠 ( はたご )は、不経済と考えて、順慶堀に近い馬具師の家の離れを借り、食事は外でし、見たいものを見、家へは帰ったり帰らなかったり、好みどおりな生活をしている間に、よい知己を得、手づるを見つけ、 扶持 ( ふち )の口にありつこうと心がけていた。 この程度に、生活を 持 ( じ )していることは、彼としては、かなり自戒を保って、生れ変ったほど、身を修めているつもりなのである。 (あれへ大槍を立たせ、乗換え馬を 牽 ( ひ )かせ、供の侍を、二十人も連れて通りなさる。 「旦那がたあ、お若いし、腕もおできなさるじゃろうし、御城内の衆へ頼んでおけば、すぐお抱えの口はありましょうで」 ありそうな 口吻 ( くちぶり )で、そこの馬具師も安うけあいしたが、 就職 ( くち )はなかなかかかって来ない。 繁華な町なかの空地の草にも、朝々霜が真っ白におりる。 その霜が消えて、道のぬかるむ頃から、 銅鑼 ( どら )だの、太鼓だのが、そこでは鳴り出す。 師走 ( しわす )の 忙 ( せわ )しない人々が、案外のん気な顔して、冬日の下にいっぱいに群れていた。 いとも粗雑な矢来を囲って、外からは見えないようにそれへ 筵 ( むしろ )を張り廻してある人寄せの見世物が、六、七ヵ所に紙旗や毛槍を立て、その 閑人 ( ひまじん )の群れへ呼びかけて、客を奪い合う様はなかなか真剣な生活戦だった。 安醤油のにおいが人混みのあいだを這う。 串 ( くし )にさした煮物をくわえて、馬みたいにいなないている 毛脛 ( けずね )の男たちがあるし、夜は、白粉を塗りこくって袖をひく女たちが、解放された牝羊みたいに、ぼりぼり豆を食べながら繋がって歩いてゆく。 野天へ腰かけを出して、酒を汲んで売っている所では、今、一組の撲りあいがあって、どっちが勝ったのか負けたのか、後へ血をこぼしたまま、その喧嘩のつむじ風は、わらわらと町の方へ駈け去ってしまった。 「ありがとうございました。 だんな様が、ここにござったで、 器物 ( うつわ )は壊されずにすみましただ」 酒売りは、何度も、又八の前へきて、礼をくり返した。 その礼ごころが、 「こんどのお 燗 ( かん )は、あんばいよくついたつもりで」 頼まない 肴物 ( さかなもの )まで添えてくる。 又八は悪い気持でなかった。 町人どうしの喧嘩なので、もしこの貧しい露店の物売りに損害をかけたら取ッちめてやろうと睨みつけていたが、何の事もなくすんで、露店のおやじのためにも、自分のためにも、同慶であったと思う。 「おやじ、よく人が出るな」 「師走なので、人は出ても、人足は止まりませぬでなあ」 「天気がつづくからいい」 鳶 ( とび )が一羽、人混みの中から、何か 咥 ( くわ )えて高く上がってゆく。 そして自ら、 (まあいい、人間、酒ぐらい飲まねえでは) と、慰めたり、理由づけたりして、 「おやじ、もう一杯」 と、うしろへいった。 それと一緒に、ずっとそばの 床几 ( しょうぎ )へ来て、腰かけた男がある。 牢人だなとすぐ見てとれる恰好だった。 大小だけは人をして避けしめるほど威嚇的な 長刀 ( ながもの )であるが、 襟垢 ( えりあか )のついた 袷 ( あわせ )に上へ 一重 ( ひとえ )の胴無しも羽織っていない。 「オイオイ亭主、おれにも早いところ一合、熱くだぞ」 腰かけへ、片あぐらを乗せて、じろりと又八のほうを見た。 足もとから見上げて、顔のところまで眼がくると、 「やあ」 と、何の事もなく笑う。 又八も、 「やあ」 と、同じことをいって、 「 燗 ( かん )のつく間、どうですか一 献 ( こん )。 磊落 ( らいらく )で、豪傑肌らしいと、又八はその飲み振りを見ていた。 よく飲む。 又八がそれから一合もやるうちに、この男はもう五合を越えて、まだ 慥 ( しっ )かりしたものだった。 「どのくらい?」 と訊くと、 「ちょっと一升、落ちついてなら、まあ、量がいえぬ」 と、いう。 時局を談じると、この男は、肩の肉をもりあげた。 「家康がなんだ。 秀頼公をさしおいて、大御所などと、ばからしい。 あのおやじから本多 正純 ( まさずみ )や、 帷幕 ( いばく )の旧臣をひいたら、何が残る。 石田三成には勝たせたかったが、惜しいかな、あの男、諸侯を操縦すべく、あまりに潔癖で、また身分が足らなかった」 そんなことをいうかと思うと、 「貴公、たとえば、今にも関東、上方の手切れとなった場合は、どの手につく」 と、訊く。 又八が、ためらいなく、 「大坂方へ」 と答えると、 「ようっ」とばかり、杯を持って 床几 ( しょうぎ )から立ち上がり、 「わが党の士か、あらためて一 盞 ( さん ) 献 ( けん )じ申そう。 して、貴君はいずれの藩士」 といって、 「いや、ゆるされい。 まず自身から名乗る。 それがしは、 蒲生 ( がもう )浪人の 赤壁八十馬 ( あかかべやそま )、という者。 ごぞんじないか、 塙団右衛門 ( ばんだんえもん )、あれとは、 刎頸 ( ふんけい )の友で、共に他日を期している仲。 また今、大坂城での 錚々 ( そうそう )たる一方の将、 薄田隼人兼相 ( すすきだはやとかねすけ )とは、あの男が、漂泊時代に、共に、諸国をあるいたこともある。 大野 修理亮 ( しゅりのすけ )とも、三、四度会ったことがあるが、あれはすこし陰性でいかん。 兼相よりは、ずっと勢力はあるが」 喋りすぎたのを気がついたように、後へもどって、 「ところで、貴公は」 と、訊き直す。 又八は、この男の話を、全部がほんととは信じなかったが、それでも、何か圧倒されたような 怯 ( ひ )け 目 ( め )を感じ、自分も、 法螺 ( ほら )をふき返してやろうと思った。 「越前宇坂之庄浄教寺村の、富田流の開祖、富田入道 勢源 ( せいげん )先生をごぞんじか」 「名だけは聞いておる」 「その道統をうけ、中条流の一流をひらかれた無慾無私の大隠、鐘巻自斎といわるる人は、私の恩師でござる」 男は、そう聞いても、かくべつ驚きもしないのだ。 杯を向けて、 「じゃあ、貴公は、剣術を」 「左様」 又八は、嘘がすらすら出るのが愉快だった。 大胆に嘘をいうと、よけいに酔いが顔に咲いて、酒のさかなになる気がするのである。 やはり鍛えた体はちがうとみえ、どこか出来ているな、……して、鐘巻自斎の御門下で、何と仰せられるか。 さしつかえなくば、ご姓名を」 「佐々木小次郎という者で、伊藤弥五郎一刀斎は、私の兄弟子です」 「えっ」 と、相手の男が驚いたらしい声を発したので、又八のほうこそびっくりしてしまった。 あわてて、 (それは 冗戯 ( じょうだん )) と、取消そうと思ったが、赤壁 八十馬 ( やそま )は、とたんに地へ膝をついて頭を下げているので、今さらもう冗戯ともいえなかった。 「お見それ申して」 と、八十馬は何度もあやまる。 「佐々木小次郎殿といえば、とくより耳にしておるその道の達人。 知らないというものは、他愛のないもので、先刻からの失礼は、 平 ( ひら )に」 又八は、ほっとした。 そう改まられては、私こそ、ご挨拶のしようがない」 「いや、先ほどから、広言のみ吐いてさぞお聞き苦しかったことで」 「なに、私こそ、まだ仕官もせず、世間も知らぬ若輩者で」 「でも、剣においては。 ……そうだ、やはり佐々木小次郎」 つぶやいて、八十馬は、酔うと目やにの出る 性 ( しょう )らしい眼を、どろんと据え、 「その上で、まだご仕官もなさらぬのか、惜しいものだ」 「ただ剣一方に、すべてを打ち込んで来たので、世間にはとんと何の知己もないために」 「や、なるほど。 いずれは、主人を持たねばならぬと考えていますが」 「ならば、造作もないこと。 もっとも実力があっても、黙っていては容易に見出されるはずはない。 こうお目にかかっても、それがしですら、尊名を聞いて初めて驚いたようなもので」 と、さかんに 焚 ( た )きつけて、 「お世話しよう」 と、いい出した。 「実はそれがしも、友人の 薄田兼相 ( すすきだかねすけ )に身の振り方を依頼してあるところ。 大坂城では、禄を問わず、抱え入れようとしている折だし、貴公のような人物を推挙すれば、薄田 氏 ( うじ )も、すぐ買おう。 おまかせ下さるまいか」 どうやら赤壁 八十馬 ( やそま )は乗り気になっているらしい。 又八は、その 就職 ( くち )へありつきたいことは山々だが、佐々木小次郎であると他人の名を借用してしまったことが、どうもまずい。 引っこみのつかない不出来だ。 かりに 美作 ( みまさか )の郷士本位田又八と名乗って実際の履歴を話したら、この男も乗り気にはなるまい。 鼻さきで軽蔑を与えられるぐらいなところが落ちである。 やはり佐々木小次郎の名がものをいったのだ。 何もそう心配したほどのものじゃないと思う。 なぜならば、佐々木小次郎なる者はもう死んでいる人間だ。 伏見城の工事場で打ち殺されてしまった人物ではないか。 死者の所持していた唯一の戸籍証明である「印可目録」は自分が彼の 臨終 ( いまわ )の一言によって預かって来ているので、後で、調べのつこうわけはない。 また一箇の乱暴人として、打殺した死者に対して、そんな面倒な調べをいつまでもやっているはずもない。 (分りっこはない!) 又八の頭に大胆な、 狡 ( ずる )い考えがそう閃めいた。 勃然 ( ぼつぜん )として、彼は、死んだ佐々木小次郎になり切ってやろうと 臍 ( ほぞ )を決めた。 「おやじ、勘定」 金入れから金を出して、そこを起ちかけると、赤壁八十馬はあわてて、 「今の話は?」 と、一緒に立った。 「ぜひ、ご尽力をねがいたいが、この路傍では、十分な話もできぬ。 どこか座敷のあるところへでも行って」 「ああそうか」 と、八十馬は満足そうにうなずいて、自分の飲んだ代まで、又八が払っているのを、当り前のような顔して眺めていた。 怪しげな 白粉 ( おしろい )の裏町である。 又八としては、もっと高等な酒楼へ案内するつもりだったが、赤壁八十馬が、 「そんなところへ揚がって、つまらぬ金を 費 ( つか )うよりは、もっとおもしろい土地がある」 といって、頻りに裏町遊びを謳歌するので、ともかく引っ張られて来てみると、まんざら又八の肌に合わない情調ではない。 比丘尼横丁 ( びくによこちょう )というのだそうである。 大袈裟 ( おおげさ )にいえば長屋千軒がみな売笑婦の家で、一夜に百石の油を燈心にともすともいえるほどな繁昌さである。 すぐ近くに、 汐 ( しお )のさす黒い堀が通っているので、出格子だの、紅燈の下だのには、よく見ると、船虫や 河蟹 ( かわがに )がぞろぞろ這っていて、それが 生命取 ( いのちと )りの さそりという妖虫のようにうすきみ悪いが、無数の白粉の女の中には 眉目美 ( みめよ )いのも稀にあって、中には、もう四十にちかい容貌に、 鉄漿 ( かね )を黒々つけ、 比丘尼頭巾 ( びくにずきん )にくるまって、夜寒を 喞 ( かこ )ち顔でいるなど、なかなかもののあわれも 蕩児 ( とうじ )の心をそそるのであった。 「いるな」 又八が、ため息つくと、 「いるだろう、へたな茶屋女や歌妓などより、遥かにましだ。 「室町将軍の奥につかえていたという 比丘尼 ( びくに )があるし、父は武田の臣だったの、松永久秀の縁類の者だのという女が、この中にはずいぶんある。 泊ったことはもちろんである。 昼間になっても、飽いたといわない八十馬だった、お甲の「よもぎの寮」では、いつも日蔭者でいた又八も、多年の鬱憤をここに晴らしたか、 「もう、もう。 酒はいやだ」 と遂にかぶとを脱いで、 「帰ろう」 いい出すと、 「晩までつきあい給え」 と、八十馬はうごかない。 「晩までつきあったらどうするんだ」 「今夜、 薄田兼相 ( すすきだかねすけ )のやしきへ行って兼相と会う約束がしてあるんだ。 今から出ても 時刻 ( とき )が半端だし……。 それに、そうだ、貴公の望みももっとよく聞いて置かなければ、先へ行って話もできない」 「 禄 ( ろく )など、初めからそう望んでも無理だろう」 「いかん、自分からそんな安目を売ってはいかん。 とにかく中条流の印可を持って、佐々木小次郎ともいわれる侍が、禄はいくらでもいいから、ただ仕官がしたいなどといったら、かえって先から 蔑 ( さげす )まれるぞ。 大坂城の巨大な影が夕空をおおっているからである。 「あれが、 薄田 ( すすきだ )の邸だぞ」 濠 ( ほり )の水に背を向けて、二人は寒そうに 佇 ( たたず )んだ。 昼間から 注 ( つ )ぎこんでいた酒も、この濠端に立つとひとたまりもなく吹き飛んで、鼻の先に 水洟 ( みずばな )が凍りつく。 「あの腕木門か」 「いや、その隣の角屋敷」 「ふム……宏壮なものだな」 「出世したものさ。 三十歳前後の頃には、まだ、薄田 兼相 ( かねすけ )などといっても、世間で知っている奴はなかった、それがいつのまにか……」 赤壁八十馬のことばを、又八はそら耳で聞いていた。 疑っているのではない、もう彼のことばの端など注意してみる必要を感じないほど信頼し切っていたのだった。 「そう、そう」 又八は 懐中 ( ふところ )から、 革巾着 ( かわぎんちゃく )を取り出した。 少しくらいは、と思いながらいつのまにかこの革巾着の金も三分の一になっていた。 その残りの底をはたいて、 「ざっと、これだけあるが、これくらいなおくりものでいいのか」 「いいとも、十分だ」 「何かに包んでゆかなければいけまいが」 「なあに、仕官の 取做 ( とりな )しを頼む時の、 御推挙料 ( ごすいきょりょう )だの、御献金だのというやつは、薄田ばかりじゃない、公然と誰でも取っていることだから、何も 憚 ( はばか )って差し出す必要はすこしもないのだ。 先で、渋った顔をしていたら、金をやらずに持って帰るだけのことじゃないか。 肩を振って、堂々と通ってゆく態度を見とどけて、 (あれなら、なるほど、薄田兼相とは、貧困時代からの旧友だろう) 又八は、安心に似た気もちを抱いて、その晩は、さまざまな夢に 耽 ( ふけ )り、あくる日を待ちかねて、定めの時刻に、人寄せ場の空地へ、霜解けをふんで行った。 きょうも師走の風が寒かったが、冬日の下にはたくさん集まっていた。 どうしたのか、赤壁八十馬は、その日、姿を見せなかった。 次の日。 「何かの都合だろう」 又八は、こう善意に解釈して、れいの野天の酒売りの 床几 ( しょうぎ )で、 「きょうは」 と、正直に空地の人混みを見廻していたが、その日も遂に八十馬の姿を見ずに暮れてしまった。 少し、 てれて、 「おやじ、また来たぞ」 三日目である。 わしから依頼して、薄田殿へわたす口入れ金を預けておいたのだが、その返辞がはやく知りたいので、毎日待っているわけだが」 「おやおや、おまえ様は」 おやじは、気の毒そうに、又八の顔をながめて、 「百年待っていても、あの男が来るはずはありませぬ」 「げっ。 よほど、気をつけてあげようかと思ったが、あとの 祟 ( たた )りが恐いし、おまえ様も、あの風態を見れば、気がつくだろうと思っていたのに、金を抜かれてしまうなんて……。 これやお話にならんわい」 気の毒を通り越して、又八の無智をむしろ 愍 ( あわ )れむような 口吻 ( くちぶり )なのである。 だが又八は、恥を掻いたとは思わない。 突然の損失と希望から抛り出された 傷手 ( いたで )に、身がふるえ、血が 憤 ( いきどお )って、茫然と、空地の人群れを見つめていた。 「むだとは思うが、念のため 幻術 ( めくらまし )の囲いへ行って訊いてみなさるがよい。 あそこではよく、ガチャ蠅が集まって、銭の 賭事 ( かけごと )をしておりますで、そういう金をつかめば、ことによると、 賭場 ( あそびば )へ顔を出しているかもわかりませぬ」 「そ、そうか」 又八は、あわてて床几を起ち、 「その 幻術 ( めくらまし )の人寄せというのは、どこの囲いか」 老爺 ( おやじ )の指さすほうを見ると、この空地のうちでは最も大きな矢来が一つ見える。 幻術者 ( げんじゅつしゃ )の群れが興行しているのだという。 見物は、木戸口に 蝟集 ( いしゅう )していた。 又八が近づいて行ってみると、 「ちょちょんがちょっ 平 ( ぺい )」 だとか、 「 変兵童子 ( へんぴょうどうじ )」 とか、 「 果心居士之 ( かしんこじの )一 弟子 ( でし )」 とかいう有名な幻術師の名が、木戸口の旗に記してあって、幕と 筵 ( むしろ )でかこんであるその広い矢来のうちでは、怪しげな音楽に 交 ( ま )じって、術者の掛声と、見物の拍手が湧いていた。 裏へ廻ると見物の出入りしないべつな口があった。 又八が、そこを覗くと、 「 賭場 ( とば )へゆくのか」 と、立番の男がいう。 うなずくと、よしというような顔をしたので、彼は入って行った。 幕の中では、青天井をいただいて、二十人ばかりの浮浪人が、車座になって、 博戯 ( ばくち )をしている。 又八が立つと、じろっと、すべての白い眼が彼を見上げた。 一人がだまって、彼の前に席を開けたので、あわてて、 「この中に、赤壁八十馬って男はいないか」 訊くと、 「赤馬か。 そういえば赤馬の奴、ちっとも出て来ねえが、どうしたんだろう」 「ここへ来ましょうか」 「そんなこと、わかるもんか。 まあ、入りねえ」 「いや、おれは 博戯事 ( あそびごと )に来たんじゃない。 その男を捜しに来たのだ」 「おい、ふざけるなよ、 博戯 ( ばくち )もせずに、賭場へ何しに来やがったんだ」 「すみません」 「向う 脛 ( ずね )を掻っ払うぞ」 「すみません」 ほうほうのていで出て来ると、追いかけて来たガチャ 蠅 ( ばえ )の一人が、 「野郎待て。 ここは、すみませんで済む場所たあ違う。 ふてえ奴だ。 博戯 ( ばくち )をしなけれやあ、場代をおいてゆけ」 「金などない」 「金もねえくせに、賭場のぞきをしやがって、さては、隙があったら、銭を 攫 ( さら )って行こうという量見だったにちげえねえ、この 盗 ( ぬす )っ 人 ( と )め」 「なんだと」 又八が、くわっとして刀の 柄 ( つか )を示すと、これは面白いと、相手は敢て喧嘩を買ってくる腰だった。 「べら棒め、そんな 脅 ( おど )しに、いちいちびくついていちゃ、この大坂表で、生きちゃあいられねえんだ。 さ、斬るなら斬ってみろ」 「き! 斬るぞ」 「斬れっ、何も、断るにゃ及ばねえや」 「おれを知らんか」 「知ってるもんか」 「越前宇坂之庄、浄教寺村の流祖、富田五郎左衛門が歿後の門人佐々木小次郎とはわしのことだ」 そういったら逃げるだろうと思いのほか、相手は、ふき出して、又八のほうへ尻を向け、矢来のうちのガチャ 蠅 ( ばえ )を呼び立てた。 「やい、みんな来い、こいつ何とか今、オツな名乗りをあげやがったぜ。 おれたちを相手に抜く気らしい。 ひとつお 腕 ( て )のうちを見物としようじゃねえか」 いい終ると、きゃッと、その男は尻を斬られて跳び上がった。 又八が、不意に抜き打ちをくれたのである。 「畜生っ」 という声。 それから、わっと大勢の声がうしろに聞えた。 又八は血刀をさげて人混みの中へまぎれ込んだ。 なるべく人間の多いところへと又八は姿をかくして歩いていたが、危険を感じるほど、どの人間の顔もガチャ蠅に見え、とてもうろついておられなくなった。 銭を 抛 ( ほう )って、又八は中へとびこんだ。 そして、いささかほっとしながらどこに虎がいるのかと見廻してみると、正面に戸板を二、三枚並べ、それへ洗濯物でも貼りつけてあるように、一枚の虎の皮が貼りつけてあった。 死んだ虎を見せられても、見物は、神妙に眺め入って、これは生きていないじゃないかと、腹を立てる者はなかった。 「これが虎かいな」 「大きなものやなあ」 感心して、入口から出口の木戸へ入れ代ってゆく。 又八は、なるべく 刻 ( とき )を過ごそうと考えていつまでも虎の皮の前に立っていた。 この虎は、死んでいるのじゃろうが」 と、婆のほうがいう。 爺侍 ( じじざむらい )は、竹の仕切り越しに手をのばして、虎の毛に触れながら、 「元より、皮じゃもの、死んでおるわさ」 「木戸で呼ばわっている男は、さも生きているようにいうたがの」 「これも、 幻術 ( めくらまし )の一つじゃろて」 爺侍は苦笑していたが、婆のほうは、 忌々 ( いまいま )しげに、 萎 ( しぼ )んでいる唇を振り向けて、 「やくたいもない、幻術なら幻術と看板にあげておいたがよい。 死んだ虎を見るくらいなら絵を見るわさ。 木戸へ 去 ( い )んで、銭をかやせというて来う」 「婆、婆。 権叔父と呼ばれた爺侍が、 「やっ、又八っ」 と、呶鳴った。 お杉隠居は、眼がわるいので、 「な、なんじゃ、権叔父」 「見えなんだかよ、婆のすぐうしろに、又八めが立っておったぞ」 「げっ、ほんまか」 「逃げたっ」 「どっちゃへ?」 二人は、木戸の外へ転び出した。 もう空地の 雑沓 ( ざっとう )は暮色につつまれていた。 又八は、幾たびも人にぶつかった。 そのたびに、くるくる 舞 ( まい )して、後も見ずに、町中のほうへ逃げてゆく。 「待て、待て、 伜 ( せがれ )っ」 振りかえってみると、母親のお杉は、まるで狂気のようになって追って来るのだった。 権叔父も、手をふりあげ、 「馬鹿ようっ、なんで逃げるぞい。 暖簾棒 ( のれんぼう )だの竹竿を持って、町の者は、先へゆく又八を 蝙蝠 ( こうもり )を打つようにたたき伏せた。 往来の者も、わいわいと取りかこんで、 「捕まえた」 「ふてえ奴だ」 「どやせ」 「たたっ殺してやれ」 足が出る、手が出る、 唾 ( つば )を吐きかける。 後から息を 喘 ( き )って、権叔父とともに追いついて来たお杉隠居はそのていを見ると、群衆を突きとばし、小脇差のつかに手をかけて歯を 剥 ( む )いた。 「ええ、むごいことを、おぬしら何しやるのじゃ、この者へ」 弥次馬は、理を 弁 ( わきま )えずに、 「婆どの。 こいつは、泥棒だよ」 「泥棒ではない、わしが子じゃわ」 「え、おまえの子か」 「おおさ、ようも足蹴にしやったな。 町人の分際で、侍の子を足蹴にしやったな。 婆が相手にしてくりょう、もいちど、今の無礼をしてみやい」 「 冗戯 ( じょうだん )じゃない。 じゃあ先刻泥棒泥棒と呶鳴ったのは誰だ」 「呶鳴ったのは、この婆じゃが、おぬしら風情に足蹴にしてくれと頼みはせぬ。 泥棒とよんだら伜めが、足を止めようかと思うていうた親心じゃわ。 それも知らいで、撲ったり蹴ったりは何事じゃ、このあわて者めが!」 町中の森である。 おぼろに常夜燈がまたたいていた。 「こう来やい」 お杉隠居は、又八の 襟 ( えり )がみを 抓 ( つま )んで、往来からそこの境内まで引きずって来た。 婆の 権 ( けん )まくに驚いたとみえ、弥次馬はもう 尾 ( つ )いて来ない。 殿 ( しんがり )として、鳥居の下で見張っていた権叔父も、やがて後から来て、 「婆、もう 折檻 ( せっかん )はせぬものだぞ。 又八とて、もう子どもではなし」 母子 ( おやこ )の手と襟がみを、もぎ離そうとすると、 「何をいうぞい」 隠居は、権叔父を、 肱 ( ひじ )で突き 退 ( の )けて、 「わしが子を、わしが折檻するに差し出口など、要らぬお世話、おぬしは黙っていやい。 老人になれば誰も単純で気短かになるという。 今の場合の複雑な感情は余りにも 枯渇 ( こかつ )した血には強烈すぎたのであろう。 泣いているのか、怒っているのか、狂喜の変態なあらわれか。 「親のすがたを見て、逃げ出すとはなんの芸じゃ。 汝 ( われ )は、木の股から生れくさったか、わしが子ではなかったかよ。 なんで 故郷 ( くに )へもどって来て、ご先祖様のまつりをせぬか、この母にちょっとでも、顔見せぬか。 かんべんしてくれ、かんべんしてくれ」 又八は、 嬰児 ( あかご )みたいに、母の手の下からさけんだ。 「悪いことは知っている。 知っていればこそ、帰れなかったんだ。 今日も、余り不意だったのでびっくりして、逃げる気もなく、おらあ駈け出してしまった。 ……面目ない、面目ない! おふくろにも叔父御にも、おらあただ面目ないんで」 と、両手で顔をおおった。 それを見ると、婆も目鼻に 皺 ( しわ )をあつめて、すすり泣いた。 しかし気丈な老婆は、自分が 脆 ( もろ )くなるのをすぐ自分の心で叱咤しながら、 「ご先祖の恥さらし、面目ないというからには、どうせ 碌 ( ろく )なことをしていくさったのではあるまいが」 権叔父は、見るに見かねて、 「もうよかろう、婆、そう打擲しては、かえって又八を 拗 ( ねじ )け者にするぞよ」 「また差し出口かよ、おぬしは男のくせに甘うていかぬ。 又八には 父親 ( てておや )がないゆえ、この婆は母であるとともに、厳しい父親でもなければならぬのじゃ。 それゆえわしは折檻をしまする。 ……まだまだこんなことで足ろうかいの。 又八ッそれへ直りゃい」 自分も大地へ 畏 ( かしこ )まって坐りこみ、子へも、大地を指さしていった。 「はい」 又八は、土にまみれた肩を起して、 悄然 ( しょうぜん )と坐り直した。 この母親は怖かった。 世間の母親なみ以上の甘さもあったが、すぐご先祖様を持ち出すので、又八は頭があがらないのであった。 「つつみ隠しをするときかぬぞよ。 関ヶ原の 戦 ( いくさ )へ出て、おぬし、あれ以来、何していやった。 婆の得心がまいるまで、つぶさに話しゃれ」 「……話します」 隠す気は起らない。 「ふウむ……」 と、権叔父が 呻 ( うめ )くと、 「あきれた子よの」 と、隠居も舌を鳴らし、 「そして今では、何していやるか。 そういう 生活 ( たつき )を過ごしながらも、剣術に精出していやったとは、さすがにわしが子。 ……のう叔父御よ。 やはり婆が子じゃの」 この辺で機嫌を直させてしまいたいものだと権叔父は、大きく何度もうなずいて、 「それやあ、ご先祖の血は、どこかにあろうわさ。 「どれ、どれ」 手を出したが、渡さずに、 「安心してござれ、おふくろ」 「なるほど」 隠居は、首を振って、 「見たか、権叔父、大したものじゃわ。 小さい頃から、あの 武蔵 ( たけぞう )などより、ぐんと賢く、腕も出来ていただけのことはある」 と、 涎 ( よだれ )を垂らさないばかりに満足をあらわしたが、ふと、それを巻きかけた又八の手がすべって、終りの一行が眼にうつると、 「これ待て、ここに佐々木小次郎とあるのはなんじゃ」 「あ……これですか……これは 仮名 ( かめい )です」 「仮名? 何で仮名などつかいなさる、本位田又八と、立派な名のあるものを」 「でも 省 ( かえり )みて、自分に恥のある 生活 ( くらし )をしていたので、先祖の名を汚すまいと」 「オオそうか。 その性根たのもしい。 じっと首を垂れたまま、又八は老母の烈々と吐くことばに打たれていた。 こうしている間は、彼も善良で神妙な息子だった。 けれど、隠居がいおうとする重点は、もっぱら家名の面目とか、侍の意気とかにあったが、この息子の感情を強く打った点は、そこになくて、 (お通がこころ変りした) と、いう初耳の話だった。 「おふくろ、それは 真実 ( まったく )か」 彼の顔いろを知ると、隠居は、自分の 鞭撻 ( べんたつ )が、彼を奮起させたものと思いこみ、 「嘘と思うなら、叔父御にもただしてみやれ、お通 阿女 ( あま )はおぬしを見かぎって、 武蔵 ( たけぞう )の後を追って 去 ( い )んだわさ。 のう権叔父」 「そうじゃ、七宝寺の千年杉へ、沢庵坊主のため、 縛 ( くく )りつけられたのを、あのお通の手をかりて逃げ失せた 男女 ( ふたり )のことゆえ、どうせ 碌 ( ろく )な仲じゃあるまいての」 こう聞いては又八も、鬼とならずにいられなかった。 この婆や権叔父が、 故郷 ( くに )を出て、こうして諸国をあるいている意気地が。 ……よく」 「おぬしにも、それではのめのめと、故郷の土は踏めまいが」 「帰りません、もう、帰りません」 「討ってたも、 怨敵 ( おんてき )を」 「ええ」 「気のない返辞をするものかな、おぬしには 武蔵 ( たけぞう )を討つ力がないと思うてか」 「そんなことはありません」 権叔父も、そばから、 「案じるな又八、わしもついているのじゃが」 「この婆とても」 「お通と武蔵、二つの首を、晴れて故郷への土産に引っさげて戻ろうぞ。 のう又八、そうしておぬしにはよい嫁女をさがし、あっぱれ本位田家の跡目をついで貰わにゃならん。 そうした上は、武士の面目も立つ、 近郷 ( きんごう )への評判もようなる、まず、 吉野郷 ( よしのごう )で 負 ( ひ )け 目 ( め )をとる 家統 ( いえすじ )は 他 ( ほか )にはあるまいてな」 「さあ、その気になってたも。 なるかよ又八」 「はい」 「よい子じゃ、叔父御、 賞 ( ほ )めておくりゃれ。 きっと武蔵とお通を討つと誓うた。 ……」 と隠居はやっと気がすんだらしく、先刻から 怺 ( こら )えていた氷のような大地から身を動かしかけたが、 「ア…… 痛々々 ( たたた )」 「婆、どうしやった」 「冷えてかいの、腰が急に吊ってこう下腹へさしこんで来ましたわい」 「これやいかぬ、また持病を起してか」 又八は、背を向けて、 「おふくろ、すがりなされ」 「何、わしを負うてくれる。 ……負うてくれるか」 と、子の肩に抱きついて、 「何年ぶりぞいの、叔父御よ、又八がわが身を負うてくれたわいな」 と、 欣 ( うれ )し泣きに泣くのであった。 ほかに禁制の煙草も船底にかくしているらしい。 元より秘密だが、においで知れる。 月に何度か、 阿波 ( あわ )の国から大坂へ通う便船で、そうした貨物とともに便乗している客には、この年の暮を、大坂へ商用に出るか、戻るかする 商人 ( あきんど )が八、九分で、 「どうです、 儲 ( もう )かるでしょう」 「儲かりませんよ、 堺 ( さかい )はひどく景気がいいというが」 「鉄砲 鍛冶 ( かじ )など、職人が足らなくて弱っているそうですな」 べつの商人が、また、 「てまえは、その 戦道具 ( いくさどうぐ )の、 旗差物 ( はたさしもの )とか、 具足 ( ぐそく )など納めていますが、昔ほど儲かりませんて」 「そうかなあ」 「お侍方がそろばんに明るくなって」 「ハハア」 「むかしは、野武士がかついで来る 掠 ( かす )め 物 ( もの )を、すぐ染めかえ、塗りかえして、御陣場へ納める。 するとまた、次の戦があって、野武士がそいつを集めてくる。 また 新物 ( あらもの )にするといったふうに、 盥廻 ( たらいまわ )しがきいたり、金銀のお支払いなどもおよそ目分量みたいなものでしたがね」 そういう話ばかりが多い。 中には、 「もう内地では、うまい儲けはありっこない。 呂宋 ( るそん )助左衛門とか、茶屋助次郎といった人のように、 乗 ( の )るか 反 ( そ )るかで海の外へ出かけなければ」 と、海洋をながめて、彼方の国の富を説いている者があるし、或る者はまた、 「それでも、何のかのといっても、わしら町人は、侍から見れば遥かに割がよく生きていますよ。 いったい侍衆なんて、食い物の味ひとつ分るじゃなし、大名の贅沢といったところが、町人から見ればお甘いもので、いざといえば、鉄と 革 ( かわ )を 鎧 ( よろ )って、死にに行かなければならないし、ふだんは面目とか武士道とかにしばられて、好きな真似はできないし、気の毒みたいなものでございますよ」 「すると、景気がわるいの何のといっても、やはり町人にかぎりますかな」 「かぎりますとも、気ままでね」 「頭さえ下げていればすみますからな。 舶載 ( はくさい )の 毛氈 ( もうせん )をひろく敷きこんで、一階級を示しているのだ。 のぞいてみると、なるほど、桃山の 豪奢 ( ごうしゃ )は今、太閤が亡き後は、武家になくて、町人の中へ移っているかと思われる。 酒器のぜいたくさ、旅具旅装の 絢爛 ( けんらん )なること、持物の 凝 ( こ )っていること、ケチな一商人でも、侍の千石取などは及びもない。 「ちと、飽きましたな」 「退屈しのぎに、始めましょうか」 「やりましょう。 そこの 幕 ( とばり )をひとつ懸け廻して」 と、小袖幕のうちにかくれると、彼らは、 妾 ( めかけ )や手代に酒をつがせて、南蛮船が近ごろ日本へ 齎 ( もたら )した「うんすん 骨牌 ( かるた )」というものを始める。 そこで儲けている一つかみの黄金があれば、一村の 飢餓 ( きが )が救われるであろうほどの物を、まるで、 冗戯 ( じょうだん )みたいに、遣り取りしていた。 こういう階級の中に、ほんの一割ほどだが、乗り合わしている山伏とか、牢人者とか、儒者とか、坊主とか、武芸者などという者は、彼らからいわせるといわゆる、 (いったいなんのために生きているんだ) と 借問 ( しゃくもん )される部類のほうで、みんな 荷梱 ( にごうり )の蔭に、ぽつねんと味気ない顔して、冬の海をながめているのだった。 それらのあじきない顔つきの組の中に、一人の少年が 交 ( ま )じっていた。 「これ、じっとしておれ」 荷梱に 倚 ( よ )り懸って、冬日の海に向いながら、膝の上に何やら丸っこい毛だらけな物を抱いている。 可愛い小猿を」 と、そばの者がさしのぞいて、 「よく馴れてござるの」 「は」 「永くお飼いになっているのであろうな」 「いえ、ついこのごろ、土佐から阿波へ越えてくる山の中で」 「捕まえられたのか」 「その代り、親猿の群れに追いかけられて、ひどい目にあいました」 話を交わしながらも、少年は、顔を上げない。 小猿を膝の間に挟んで、 蚤 ( のみ )を見つけているのだった。 前髪に紫の 紐 ( ひも )をかけ、派手やかな小袖へ、 緋 ( ひ )らしゃの胴羽織を 纒 ( まと )っているので、少年とは見えるものの、 年齢 ( とし )のほどは、少年という称呼に当てはまるかどうか、保証のかぎりでない。 煙管 ( きせる )にまで、 太閤張 ( たいこうばり )というのが出来て、一頃は 流行 ( はや )ったように、こういう派手派手しい風俗も、桃山全盛の遺風であって、 二十歳 ( はたち )をこえても元服をせず、二十五、六を過ぎても、まだ童子髪を 結 ( ゆ )って金糸をかけ、さながらまだ清童であるかのような見栄を持つ習いが、いまに至ってもかなり 遺 ( のこ )っているからである。 だからこの少年も、一概に身なりをもって、未成年者と見ることはできない。 体つきからしても、堂々たる巨漢であるし、色は小白くて、いわゆる 丹唇 ( たんしん )明眸であるが、眉毛が濃くて、 眉端 ( びたん )は眼じりから開いて上へ 刎 ( は )ねている。 なかなかきつい顔なのだ。 何もそう 年齢 ( とし )の 詮索 ( せんさく )ばかり気にやむこともないが、あれこれ綜合してその中庸をとって推定すれば、まず十九か、二十歳というところでなかろうかと思われる。 さてまた、この美少年の身分はというと、元より旅いでたちで、 革足袋 ( かわたび )にわらじ 穿 ( ば )きだし、どこといって抑えどころもないが、 歴乎 ( れっき )とした藩臣でなく、牢人の 境界 ( きょうがい )であることは、こういう船旅において、ほかの山伏だの 傀儡師 ( くぐつし )だの、乞食のようなボロ侍だの、 垢 ( あか )くさい庶民の中に交じって、気軽にごろごろしている 態 ( てい )をみても、およそ想像はつく。 だが、牢人にしては、ちょっと立派なものを一つ身に着けている。 それは、緋羽織の背なかへ、 革紐 ( かわひも )で斜めに負っている陣刀づくりの大太刀である。 反 ( そ )りがなくて、 竿 ( さお )のように長い。 ものが大きいし、 拵 ( こしら )えが見事なので、その少年のそばへ寄った者は、すぐ少年の肩ごしに 柄 ( つか )の 聳 ( そび )えているその刀に目がつくのだった。 「 京洛 ( みやこ )でもちょっと見ない」 と思う。 刀のすぐれた物を見ると、その持ち主から、遠くは、その以前の経歴までが考えられてゆく。 祇園藤次は、 機 ( おり )があったら、その美少年へ、話しかけてみたいと思っていた。 はたはたと、大きな百 反帆 ( たんぽ )は、生きもののように、船客たちの頭の上で潮鳴りを切って鳴っていた。 藤次は旅に 倦 ( う )んでいた。 祇園藤次は、その飽き飽きした旅を、もう十四日もつづけて来たあげくのこの船中であった。 さしも、室町将軍家の兵法所出仕として、名誉と財と、両方にめぐまれて来た吉岡家も、清十郎の代になって、 放縦 ( ほうじゅう )な生活をやりぬいたため、すっかり家産は傾いてきた。 四条の道場まで、抵当に入っているので、この 年暮 ( くれ )には、町人の手へ取られるかも知れないという内ふところ。 年暮に近づいて、あっちこっちから責め立ててくる負債をあわせると、いつのまにか、途方もない数字にのぼっていて、父拳法の遺産をそっくり渡して、編笠一かいで立ち 退 ( の )いても、なお、足らないくらいな実情に 堕 ( お )ち 入 ( い )っていた。 (どうしたものか) という清十郎の相談である。 そんな主旨の廻文を、清十郎に書かせ、これを 携 ( たずさ )えて、中国、九州、四国などに散在している吉岡拳法門下の出身者を、歴訪して来たのである。 もちろん振武閣建築の寄附金を 勧進 ( かんじん )するために。 先代の拳法が育てた弟子は随分各地の藩に奉公していて、みな相当な地位の侍になっている。 けれど、そういう 勧説 ( かんぜい )を持って行っても、藤次が予算していたように、おいそれと寄進帳へ筆をつけてくれるのはすくない。 (いずれ書面をもって) とか、 (いずれ、上洛の折に) とかいうのが多く、現に藤次が携えて帰る金は、予定していた額の何分の一にも当らない。 だが、自分の財政ではなし、まあ、どうかなろうと 多寡 ( たか )をくくって、 先刻 ( さっき )から、師の清十郎の顔より、久しく会わないお甲の顔のほうを、努めて、想像にのぼせていたが、それにも限度があるので、また、 生欠伸 ( なまあくび )に襲われて、退屈なからだを、船のうえに持てあましていた。 うらやましいのは、先刻から小猿の 蚤 ( のみ )をとっている美少年だった。 いい退屈しのぎを持っている。 藤次は、そばへ寄って、とうとう話しかけ出した。 「若衆。 「はあ、大坂へ行きます」 「ご家族は大坂にお住まいかの」 「いえ、べつに」 「では阿波のご住人か」 「そうでもありません」 膠 ( にべ )のない若衆である。 そういってまた他念なく、小猿の毛を指で掻き分けているのであった。 ちょっと話のつぎ穂がない。 藤次は、黙ったが、また、 「よいお刀だな」 と、こんどは彼の背にある大太刀を 賞 ( ほ )めた。 「大太刀を、かんぬきに横たえて、 りゅうとして歩くのは、見た眼は伊達でよいが、そういう人物にかぎって、逃げる時には、刀を肩へかつぐやつだ。 美少年は、ちらと、彼のそういう尊大な顔つきへ、瞳をひらめかせ、 「富田流を」 と、いった。 「富田流なら、小太刀のはずだが」 「小太刀です。 私は、人真似がきらいです。 そこで、師の逆を行って、大太刀を工夫したところ、師に怒られて破門されました」 「若いうちは、えて、そういう 叛骨 ( はんこつ )を誇りたがるものだ。 そして」 「それから、越前の浄教寺村をとび出し、やはり富田流から出て、中条流を 創 ( た )てた鐘巻自斎という先生を訪ねてゆきますと、それは気の毒だと、入門をゆるされ、四年ほど修行するうち、もうよかろうと師にもいわれるまでになりました」 「田舎師匠というものは、すぐ目録や免許を出すからの」 「ところが、自斎先生は容易にゆるしを出しません。 先生が印可をゆるしたのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎一刀斎ひとりだという話でした。 国許 ( くにもと )では、知られている刀で、 物干竿 ( ものほしざお )という名があるくらいです」 無口だと思いのほか、自分のすきな話題になると、美少年は問わないことまで語りだした。 そして口を開き出すとなると、相手の気色などは見ていない。 そういう点や、またさっき自分で話した経歴などから見ても、すがたに似あわない我のつよい性格らしく思われた。 祇園藤次は、この多感な美少年の述懐を聞いても、若い彼といっしょになって、感傷を共にする気には元よりなれない。 だが、退屈に苦しんでいるよりは、ましだと考えて、 「ふム、なるほど」 熱心に聞いている顔つきを装うと、美少年は、 鬱懐 ( うっかい )をもらすように、 「その時、すぐ行けばよかったのです。 けれど私は周防、師は上州の山間、何百里の道です。 冬雲に陽がかくれると、海は急に灰色を呈し、時々、 舷 ( ふなべり )に 飛沫 ( しぶき )が寒く立つ。 美少年はなお話をやめない。 多感な語気をもって語る。 「師の自斎には、何の身寄りもありません。 で、甥の天鬼には、遺産といってもわずかでしょうが、金を与え、遠く離れている私には、中条流の印可目録を 遺 ( のこ )してゆかれました。 天鬼は、私のそれを預かって、今諸国を修行にあるいていますが、来年の 彼岸 ( ひがん )の中日には、上州と周防とのちょうど中ほどの 道程 ( みちのり )にあたる三河の 鳳来寺山 ( ほうらいじさん )へ、双方からのぼって、対面しようという約束を書面で交わしてあります。 そこで私は天鬼から師のおかたみを受けることになっているので、それまでは近畿のあたりを 悠々 ( ゆるゆる )と、修行がてら見物して歩こうと思っているのです」 ようやくいうだけのことをいい終ったように、美少年は改めて、話し相手の藤次にむかい、 「あなたは、大坂ですか」 「いや京都」 それきり黙って、しばらく、波音に耳をとられていたが、 「すると 其許 ( そこもと )はやはり、兵法をもって身を立てて行かれる気か」 藤次はさっきから少し軽蔑した顔つきであったが、今も うんざりしたようにいう。 この頃のように、こう小生意気な兵法青年がうようよ歩いて、すぐ印可の目録のといって誇っていることが、彼には、 小賢 ( こざか )しく聞えてならない。 そんなに天下に上手や達人が蚊みたいに 殖 ( ふ )えてたまるものか。 「京都には、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎という人がいるそうですが、今でもやっておりますか?」 よいほどに聞いてみれば、だんだん口の幅を広くしてくる。 気に食わない前髪めがと藤次は 小癪 ( こしゃく )に思う。 けれど考え直してみると、こいつはまだ自分が吉岡門の高弟祇園藤次なる者であることを知らないのだ。 知ったらさだめし前言に恥じて、びっくりする奴に違いない。 藤次は顔を 歪 ( ゆが )めた後から、軽蔑をみなぎらして、 「あそこへ行って、片輪にならずに、門を戻って来る自信が、あるかな?」 「なんの!」 美少年は突っ返すようにいった。 「大きな門戸を構えているので、世間が買いかぶっているので、初代の拳法は達人だったでしょうが、当主の清十郎も、その弟の伝七郎とやらも、たいした者じゃないらしい」 「だが、当ってみなければ、分るまいが」 「もっぱら諸国の武芸者のうわさです。 うわさですから、皆が皆、ほんとでもありますまいが、まず京流吉岡も、あれでおしまいだろうとは、よく聞くことですね」 大概にしろといいたい。 藤次は、ここらで名乗ってやろうかと思ったが、ここで けりを着けたのでは、 揶揄 ( からか )ったのでなく、揶揄われたに等しいものになる。 船が、大坂へ着くにはまだ大分間もあることだし、 「なるほど、このごろは、諸国にも天狗が多いそうだから、そういう評判もあろうな。 ところで、おん身は先ほど、師を離れて、郷里にあるうちは、毎日のように、錦帯橋の 畔 ( ほとり )へ出て、 飛燕 ( ひえん )を斬って大太刀のつかいようを工夫されたと仰っしゃったな」 「いいました」 「じゃあ、この船で、時々、ああして飛び来っては 掠 ( かす )めてゆく 海鳥 ( うみどり )を、その大太刀で、斬り落すことも容易であろうな」 「…………」 何か悪感情を包んでいる相手のことばを、美少年もようやくさとったらしく、瞬間、まじまじと藤次のそういう浅黒い唇を見つめていたが、やがて、 「出来たって、そんな 莫迦 ( ばか )な芸を私はやる気になれぬ。 あなたは、古岡の門人か、縁者か」 「何でもないが、京都の人間だから、京都の吉岡を悪くいわれれば、やはりおもしろくはない」 「ははは、うわさですよ、私がいったわけじゃない」 「若衆」 「なんです」 「 生兵法 ( なまびょうほう )という 諺 ( ことわざ )を知っているか。 将来のため忠言しておくが、世間をそう甘く見すぎると、出世はせんぜ。 やれ、中条流の印可目録を取っているの、飛燕を斬って、大太刀の工夫をしたのと、人をみな盲とするような 法螺 ( ほら )はよせ。 よいか、法螺をふくのも相手を見てふくのだぜ」 「私を、法螺ふきと、仰っしゃったな」 美少年が、こう念を押すように突っ込むと、 「いったがどうした」 藤次は、 反 ( そ )らした胸を、わざと相手へ寄せて、 「おまえの将来のためにいってやったのだ。 若い者の 衒 ( てら )いも、少しは愛嬌だが、あまり過ぎると見ぐるしい」 「…………」 「最前から何事もふむふむと聞いているので、人を 舐 ( な )めてつい 駄ぼらが出たのだろうが、実は 此方 ( このほう )こそ、吉岡清十郎の高弟、祇園藤次という者だ。 以後、京流吉岡の悪評をいいふらすと、ただはおかんぞ」 周 ( まわ )りの船客がじろじろ見るので、藤次はそれだけの権威と立場とを明らかにして、 「このごろの若い奴は、生意気でいかん」 つぶやきながら、独り、 艫 ( とも )のほうへ歩み去った。 (何かなくては済まないらしいぞ) と予感したので、船客たちは、遠方からではあるが、皆、二人のほうへ首を振向けた。 藤次は決して事を好んだわけではない。 大坂へ着けば、船着場にはお甲が待っているかもしれないのだ。 女と会う前に、年下の者と、喧嘩などをやっては、人目につくし、あとがうるさい。 そしらぬ顔して、彼は、 舷 ( ふなべり )の 欄 ( らん )へ 肱 ( ひじ )をかけ、 艫舵 ( ともかじ )の下にうず巻いている青ぐろい瀬を見ていた。 「もし」 美少年は、その背中を軽くたたいた。 相当に 拗 ( しつ )こい性質である。 だが、感情に激しているような語気ではない、極めて静かなのだ。 「もし……藤次先生」 知らないふうも 装 ( よそお )えないので、 「なんだ」 顔を向けると、 「あなたは、 人中 ( ひとなか )において、私を 法螺 ( ほら )ふきと申されたが、それでは私も面目が立たないから、最前、やって見ろとおおせられた芸を、やむなくここで演じてみようと存じます。 立ち会ってください」 「わしが、何を求めたか」 「お忘れのはずはない。 藤次は、その構えを白い眼で見すえながら、何用か、と 彼方 ( かなた )から答えた。 すると、美少年は、真面目くさって、 「おそれ入るが、海鳥を、私のまえへ呼び降ろしていただきたい。 何羽でも、斬って見せます」 一休 和尚 ( おしょう )の頓智ばなしをそのまま用いて、美少年は、藤次へ 酬 ( むく )いたものとみえる。 藤次はあきらかに 愚弄 ( ぐろう )されたのだ。 人を小馬鹿にするも程があるといっていい。 当然、烈火のように怒った。 「だまれ。 あのように空を 翔 ( か )けている海鳥を思いのままに、眼の前へ呼びよせられるものなら、誰でも斬るわ」 すると美少年は、 「海は千万里、 剣 ( つるぎ )は三尺、側へ来ないものは、私にも斬れません」 それ見たかといわないばかりに藤次は二、三歩出て、 「逃げ口上をいう奴だ。 出来ませんなら出来ませんと、素直に 謝 ( あやま )れ」 「いや、謝るほどなら、こんな身構えは 仕 ( つかまつ )りません。 海鳥のかわりに、べつな物を斬ってお目にかける」 「何を?」 「藤次先生、もう五歩こちらへ出て来ませんか」 「なんだ」 「あなたのお首を拝借したい。 私が 法螺 ( ほら )ふきか否かを試せといったそのお首だ。 罪もない海鳥を斬るよりは、そのお首のほうが恰好ですから」 「ばッ、ばかいえっ」 思わず藤次はその首をすくめた。 ばっと空気の斬れる音がした。 三尺の長剣が、針ほどな光にしか見えないくらい 迅 ( はや )かったのである。 首はたしかに着いているし、そのほかなんの異状も感じなかった。 「おわかりか」 美少年は、そういって、 荷梱 ( にごうり )のあいだへ立ち去った。 土気色になった自分の顔いろを、藤次はいかんともすることが出来なかった。 だが、その時はまだ自分の五体のうちの最も重要な部分が斬り落されていることなど気づかなかった。 美少年が去った後で、ふと、冬陽のうすくあたっている船板の上を見ると、変な物が落ちている。 それは、 刷毛 ( はけ )のような小さな毛の 束 ( たば )だ、アッと、初めて気づいて、自分の髪へ手をやってみると、 髷 ( まげ )がない。 「や、や? ……」 撫 ( な )でまわして驚き顔をしている間に、根の 元結 ( もとゆい )がほぐれて、 鬢 ( びん )の毛はばらりと顔にちらかった。 「やったな! 青二才」 棒のように胸へ突っ張ってくる憤怒であった。 美少年が自ら語っていたことのすべてが、嘘でも 法螺 ( ほら )でもないことが、とたんに分りすぎるほど彼には分った。 年に似合わない怖ろしい技だと思う。 若い仲間にも、ああいう若いのもいるのかと今さら思う。 だが、 頭脳 ( あたま )の驚嘆と、肚のそこの憤怒とは、べつ物である。 そこからのぞいて見ると、美少年は 先刻 ( さっき )の席へもどって、何か、失くし物でもしたように、自分の足もとを見廻している。 藤次は、絶好な隙をその体に見つけた。 身をかがめて、美少年のうしろへ迫り、こんどは、彼の 髷 ( まげ )を斬り払ってやろうとするのだった。 当然、顔にかかる、頭の鉢を横に割るだろう。 勿論、それでさしつかえない。 うむっ! 満身が赤く 膨 ( ふく )れあがって、彼の 唇 ( くち )と鼻腔が出る息を結んだ時であった。 三十尺もあろうかと思われる帆ばしらの 天 ( て )っ 辺 ( ぺん )に。 下では、ほかの船客までが、海上の旅に 倦 ( う )み 飽 ( あ )いていた折からなので、事こそあれと、みな顔を空へ上げ、 「やあ、何か 咥 ( くわ )えている」 「 骨牌 ( かるた )のふだですよ」 「ハハア、あそこで、金持ち連がやっていた骨牌を 攫 ( さら )って行ったんですか」 「ごらんなさい、小猿のやつも、帆ばしらの上で骨牌をめくる真似をしている」 ヒラヒラと、そういう顔の中へ一枚の札が落ちて来た。 「畜生」 堺の 商人 ( あきんど )のひとりが、あわててそれを拾いあげたが、 「まだ足らない。 どこからも、おれのだといって名乗り出る者がない。 しかし、その辺にいた客はみな知っている。 例の美少年のすがたへ期せずして一同の眼が注がれた。 船頭も知っていた筈だ。 そこで当然 業腹 ( ごうはら )が煮えてきたに違いない。 船頭声を一段と張りあげて、 「飼い主はねえのか。 飼い主がねえならねえように、おらが処分するが、あとで苦情はあんめえな」 いないのではない、美少年は荷物に 倚 ( よ )りかかって、黙然と、何か考え事でもしている様子なのだ。 「……なんて図々しい」 と、ささやく者がある。 船頭もぎょろりと美少年の頭を見ていた。 博戯 ( あそび )を 邪 ( さまた )げられた金持ち階級は、 遽 ( にわか )にざわめいて悪口を口走る。 だが美少年は、ちょっと膝を横に坐り直したきりだった。 どこへ吹く風かという姿である。 「海のうえにも、猿が住むとみえて、飼い主のねえ猿が舞いこんだ。 飼い主のねえ畜生なら、どうして始末してもかまうめい。 後で、耳が遠いの、聞かなかったのと、苦情のねえように、証人になってくらっせえ」 「いいとも、わしらが証人に立ってやる」 と例の旦那連中が、腹を立てて、呶鳴った。 船頭は、船底へゆく 段梯子 ( だんばしご )を下りて行った。 上がって来た時には、火のついた火縄と、 種子島銃 ( たねがしまじゅう )を持っていた。 のん気なのは、上の小猿だ。 潮風の空で、 骨牌 ( かるた )を見ている。 それがいかにも意思があって人間をからかっているように見えるのである。 「…………」 下では、船頭が、火縄を鼻の先にいぶして種子島の 銃先 ( つつさき )を空へ向け、じっと、小猿を狙いすましていた。 「しっ……」 と、堺の商人が 袂 ( たもと )をひいた。 それまで 唖 ( おし )のように 他所 ( よそ )を向いていた美少年がぐっと体を起し、 「船頭」 と、こちらへ声を投げたからである。 こんどは、船頭のほうで そら耳を装っていた。 火縄が、チラと 関金 ( せきがね )の 煙硝 ( えんしょう )へ口火を点じかけた。 「あっ」 ドカアンと弾音はたかく 反 ( そ )ッぽへ走った。 銃 ( つつ )は美少年の手に 引 ( ひ )っ 奪 ( た )くられているのだった。 船客たちは、耳を抑えて 俯 ( う )つ伏した。 「な! なにしやがる!」 これは船頭の当然な怒号だった。 おどり上がって美少年の胸ぐらにぶら下がったのである。 頑丈な 船乗 ( ふなのり )の体も、美少年のまえに正当に立つと、ぶら下がったという言葉がおかしくないほど、背も骨ぐみも、段ちがいに美少年のほうが 逞 ( たくま )しくて立派だったのである。 「おまえこそ、何するのだ、飛び道具で、無心の小猿を撃ち落そうとしたろう」 「そうだ」 「不届きではないか」 「なぜッ。 船頭風情の身をもって、客よりも高い場所に突っ立ち、頭の上からあのように 喚 ( わめ )いたとて、侍が、答えられるか」 「いい抜けを 吐 ( ほ )ざくな。 そのためにおらは何度も断ってある。 小猿が 骨牌 ( かるた )のふだを取って逃げたからとて、この身がいいつけたわけではなし、あの連中のする 悪戯 ( いたずら )を、猿が真似したまでのこと、わしから迷惑を詫び出るすじはない」 ことばの半ばから、美少年は、血の気の多いその顔を、 彼方 ( あなた )の一つどころにかたまっている堺や大坂の旦那連のほうへ向けて、極めて皮肉な笑い方をしていったのであった。 潮騒 ( しおさい )の夕闇に、木津川 湊 ( みなと )の灯は赤く 戦 ( そよ )いでいる。 どことなく魚臭いものが迫る。 陸 ( おか )が近づいたのだ。 船から呼ばわる声と、陸でわいわいという声が、徐々に、距離をちぢめていた。 どぼーんと、真っ白なしぶきが立つ。 錨 ( いかり )が 抛 ( ほう )りこまれたのである。 「かしわ屋でございますが」 「 住吉 ( すみよし )の 社家 ( しゃけ )の息子さまは、この船にござらっしゃらぬか」 「飛脚屋さんはいるかね」 「旦那様あ」 渡海場の 埠頭 ( ふとう )にかたまっていた迎えの 提燈 ( ちょうちん )は、灯の波を作って船の横へ迫ってゆく。 その中を、例の美少年が、 揉 ( も )まれて降りて行った。 肩に小猿を乗せている姿を見て、 旅籠 ( はたご )の客引きが二、三人、 「もしもし、 猿 ( えて )のお泊り賃は、 無料 ( ただ )にいたしておきますが、私どもへお越しくださいませぬか」 「てまえどもは住吉の門前で、ご参詣にもよし、座敷の見晴らしも至極よいお部屋がございますが」 それらの者には 一顧 ( いっこ )もせず、そうかといって迎えに来ている知人もないらしく、美少年は小猿をかついで、真っ先にこの 湊 ( みなと )から姿を消してしまった。 それを見送って、 「何んていう生意気なやつだろう。 すこしばかり兵法が出来ると思って」 「まったく、あの若造のために、船の中は半日、みんな面白くなく暮してしまった」 「こっちが町人でなければ、あのままただでこの船を降ろすのじゃないが」 「まあまあ、侍には、たんと威張らせておいてやるがいいさ。 肩で風を切っていれば、それで気が済むんだから他愛はない。 わしら町人は、花は人にくれても、 実 ( み )を喰おうという流儀だから、今日ぐらいな 忌々 ( いまいま )しさは、仕方があるまいて」 こんなことをいいながら、荷物沢山な旅すがたを揃えて、ぞろぞろ降りて行ったのは例の堺や大坂の 商人連 ( あきんどれん )であり、そこへは無数の出迎えが、 提燈 ( ちょうちん )や乗物をあつめ、一人一人に、幾人かの女の顔も取り巻いていた。 祇園 ( ぎおん )藤次は、誰よりも後から、こっそりと 陸 ( おか )へ上がっていた。 形容のできない顔つきである。 不愉快といって、きょうほど不愉快な日はなかったに違いない。 髷 ( まげ )をちょん切られた頭には、頭巾をかぶせているが、眉にも 唇 ( くち )にも、暗澹とただよっている。 渡海場に立って吹き 曝 ( さら )されていた顔が、寒さに 硬 ( こわ )ばって、年をかくしている 皺 ( しわ )が、 白粉 ( おしろい )の上に出ていた。 「お、お甲か。 とにかく、住吉へでも行って、よい宿を見つけよう」 「え、あちらに、駕も連れて来ましたから」 「そいつは有難う、じゃあ宿も先に取っておいてくれたか」 「みな様も、待ちかねているでしょう」 「え?」 意外な顔して、藤次は、 「オイお甲、ちょっと待ってくれ。 おまえとここで落ちあったのは、二人ぎりでどこか静かな家で二、三日 悠 ( ゆ )っくりしようという考えじゃないか。 ……それを、皆様とは一体、誰と誰のことをいうのだ」 「乗らない。 わしは乗らない」 祇園藤次は、迎えの駕を 拒 ( こば )んでぷんぷん怒りながら、お甲の先へ歩いていた。 お甲が何かいうと、 「ばかっ」 と、ものをいわせない。 彼をして、こう立腹させた原因は、お甲が告げた新しい事情にも 因 ( もと )づくが、すでに船の中からもやもやしていた鬱憤が、あわせて今、爆発したことは 否 ( いな )めない。 「おれは、一人で泊るっ。 駕なんか追ッ返せ。 なんだ。 人の気も知らないで、ばかっ、ばかっ!」 と、 袂 ( たもと )を払う。 河の前の 雑魚 ( ざこ )市場は、みな戸が閉まって、魚の 鱗 ( うろこ )が、貝をちらしたように、暗い長屋の戸に光っていた。 そこまで来ると、人影も少なくなったので、お甲は、藤次に抱きついた。 「およしなさい、見ッともない」 「離せっ」 「一人で泊ったら、あっちが変なものになりますよ」 「どうにでもなれっ」 「そんなこといわないで」 白粉 ( おしろい )と髪の香の、冷たい頬が、藤次の頬へ貼りついた。 藤次はやや旅の孤独から 甦 ( よみがえ )った。 「……ネ、頼みますから」 「がっかりした」 「そうでしょう、だけど、二人にはまたいい 機 ( おり )があるでしょう」 「おれは、せめて大坂で二、三日は二人ぎりと、楽しみにして着いたのだ」 「分ってますよ」 「わかっているなら、なぜ 他 ( ほか )の者を引ッ張って来たのだ。 俺が思っているほど、おまえは俺を思っていないからだろう」 藤次が責めると、 「また、あんな……」 と、お甲はうらめしげな眼をこらして、泣きたいような顔をして見せる。 彼女のいい訳は、こうだった。 藤次から飛脚を受け取ると、彼女は勿論、自分だけで大坂へ来るつもりだった。 ところが折わるく、吉岡清十郎がその日もまた、六、七名の門人を連れて「よもぎの寮」へ飲みに来て、いつのまにか、 朱実 ( あけみ )の口から、そのことを聞いてしまい、 (藤次が大坂へ着くなら、わしらも迎えに行ってやろうじゃないか) といい出した。 それに調子をあわせる取り巻き連も多く、 (朱実も行け) と、いう騒ぎになってしまい、いやともいえずお甲は一行十人ほどの中に 交 ( ま )じって住吉の旅館に落着き、一同の遊んでいる間に、自分だけ一人で駕を持ってここへ迎えに来たのだという。 今日という日に迷信がわき起るほど、何か、後にも先にも、不愉快ばかりが考えられた。 第一、 陸 ( おか )を踏むとすぐ、清十郎だの同輩だのに、旅先の首尾を聞かれることが辛い。 いやもっと嫌なことは、この頭巾を脱ぐことである。 (何といおう) 彼は、 髷 ( まげ )のない頭を苦に病んだ、彼にも侍というものの面目はある。 人に知られない恥なら掻いてもよいが、人にわかる恥を重大に思う。 「……じゃあ仕方がない、住吉へ行くから駕を連れて来い」 「乗ってくれますか」 お甲はまた、渡海場のほうへ、駈け戻った。 この夕方、船で着く藤次を迎えに行くといって出たお甲は、まだ帰って来ない。 その間に、同勢は風呂にはいり、 旅舎 ( やど )の どてらに 着膨 ( きぶく )れて、 「やがて、藤次もお甲も見えるだろう、その間、こうしていてもつまらんじゃないか」 飲んで待っていようということになったのは、この同勢として、当然な納まりであった。 藤次の顔が見えるまでのつなぎとして飲んでいたうちはいいが、いつの間にか膝がくずれ、杯がみだれ出すと、もうそんな者はどうでもよくなってしまい、 「この住吉には、 唄 ( うた )い 女 ( め )はいないのか」 「きれいなのを三、四人呼ぼうじゃないか。 どうだ 諸卿 ( しょけい )」 と、病気が始まる。 (よせ、つまらない)などという顔は、この中には一つもいない。 ただ師の吉岡清十郎の顔いろを多少 憚 ( はばか )るのであったが、 「若先生には、朱実が側についているから、別間のほうへ、お移り願おうじゃないか」 横着な奴らかなと清十郎はにが笑いする。 けれど、それは自分に取っても好ましい。 炬燵 ( こたつ )のある部屋に入って、朱実とふたりで差し向うほうが、この同勢と飲んでいるより、どれほどいい人生かわからない。 「さあ、これからだ」 とは門人どもが、門人だけになってからの発声だった。 やがて程なく 十三間川 ( とさまがわ )の名物という怪しげな 唄 ( うた )い 女 ( め )が笛、三味線などの ひねこびた楽器を持って庭にあらわれ、 「いったい、あんたはん達は、喧嘩するのかいな、酒あがるのかいな」 と訊ねる。 すでによほど大トラになっている一人が、 「ばかっ、金を 費 ( つか )って喧嘩する奴があるか。 おまえたちを呼ぶからには、大いに飲んで遊ぶのだ」 「じゃあ、まちっと、静かにあがりやはったらどうかいな」 手際 ( てぎわ )よく扱われて、 「然らば、歌おう」 抛 ( ほう )り出していた 毛脛 ( けずね )をひっ込めたり、横にしていた体を起して、 絃歌 ( げんか )ようやく盛んならんとする頃おい、小女が来て、 「あの、お客様が、船からお着きなさいまして、ただ今、お連れ様といっしょに、ここへきやはりまする」 と、告げて行った。 「なんだ、何が来たと」 「藤次といった」 「 冬至 ( とうじ )冬至、 魚 ( とっと )の目か」 お甲と祇園藤次は、あきれ顔して部屋の口に立っていた。 誰も彼を待ったらしい者は一名もないのだった。 藤次は、一体何のために、この年末この同勢が、住吉へなど来ているのかと疑った。 お甲にいわせれば自分を迎えに来たのだというが、どこに自分を迎えに来たらしい人間が一人でもいるか、むっとして、 「おい、 下婢 ( おんな )」 「はい」 「若先生は、どこにいらっしゃるか、若先生のいる部屋へ行こう」 廊下をもどりかけると、 「よう、先輩、ただ今お帰りか。 たまらない臭気を放つ。 逃げようとしたので、トラは強引に座敷へ引きずり込んだ、そして、膳を踏みつけたから形のごとく 杯盤狼藉 ( はいばんろうぜき )を作って、共倒れに仆れた。 「……あっ、頭巾を」 藤次は、あわてて自分のそれへ手をやったが遅かった。 辷 ( すべ )った拍子に、トラは彼の頭巾をつかんで後ろへ腰をついていた。 その晩は、酒の興で済んだが、次の日になるとこの同勢が、ゆうべとは打って変って、 旅舎 ( やど )のすぐ裏の浜辺に出て、天下の大事でも議すように、 「怪しからん沙汰だ」 と、肩を 昂 ( あ )げ、 唾 ( つば )をとばし、 肱 ( ひじ )を突っ張って、小松の生えている砂地に 円 ( まる )く坐っていた。 いやしくも天下の兵法所をもって任じる吉岡道場の名折れだ、断じて、これを捨ておくことはできないぞ」 「しからば、どうするのだ」 「これからでも遅くあるまい。 その小猿を連れて歩いている前髪の武者修行を 捜 ( さが )し出す! どんなことをしても捜し出す! そして、 彼奴 ( きゃつ )の 髷 ( まげ )をちょん切って、祇園藤次 ずれの恥辱じゃない、吉岡道場の存在を 厳 ( おごそ )かにする。 その動機をたずねると、こうなのである。 彼らの憤激はそれから始まったものである。 怪 ( け )しからぬ先輩と、祇園藤次をつかまえて詰問に及ぼうとすると、藤次は今朝早く、吉岡清十郎と何か話していたが、朝飯をたべるとすぐ、お甲とふたりで、先へ京都へ 発 ( た )ってしまったという。 いよいよもって、うわさは事実にちがいない。 そういう腰抜けの先輩を追いかけるのは愚かである、追うならばどこの何者かわからないが、自分たちの手で、小猿を携えた前髪を捕まえ、存分に、吉岡道場の汚名をそそいでやろうじゃないか。 住吉の浦は、眼のおよぶ限り、 白薔薇 ( しろばら )をつないだような波である。 冬とも思えない磯の香が陽に煙っている。 朱実 ( あけみ )は、白い 脛 ( はぎ )を見せて、波に戯れながら何か拾って見ては捨てていた。 何事か起ったように、吉岡の門人たちが思い思いな方角へ向い、刀のこじりを 刎 ( は )ね上げて分れて行くのを眺めて、 「オヤ、何だろう」 朱実はまるい眼をしながら、波打ち際に立って見送っていた。 ほかの者もみな手分けして、捜しに行ったんだ」 「何を捜しに行ったんです」 「小猿を携えている前髪の若い侍さ」 「その人がどうかしたのですか」 「 抛 ( ほう )っておいては、清十郎先生のお名まえにもかかわるのだ」 祇園藤次の飛んでもない置土産の一件を話して聞かすと、朱実は興もない 口吻 ( くちぶり )で、 「皆さんは、始終喧嘩ばかり捜しているんですね」 と、たしなめ顔にいう。 貝殻など何も捜さなくっても、 天 ( そら )の星ほど、こんなに落ちている」 「わたしの捜しているのは、そんなくだらない貝殻じゃありません。 わすれ貝です」 「わすれ貝、そんな貝があるものか」 「ほかの浜にはないが、この住吉の浦にだけはあるんですって」 「ないよ」 「あるんですよ」……いい争って、朱実は、 「嘘だと思うならば証拠を見せてあげますからこっちへ来てごらんなさい」 と、ほど遠からぬ所の松並木の下へ、無理やりにその門人を引っぱって来て一つの 碑 ( いしぶみ )を指した。 いとまあらば ひろひに行かむ住吉の きしに寄るてふ 恋わすれ貝 新勅撰集のうちにある古歌の一首がそれには刻んである。 朱実は誇って、 「どうです、これでもないといえますか」 「伝説だよ、取るにも足らん歌よみの嘘だ」 「住吉にはまだ、わすれ水、わすれ草などという物もあるんです」 「じゃ、あるとしておくさ。 ……だから捜しているの。 あんたも一緒になって捜してくださいよ」 「それどころじゃない」 思い出したように、その門人は足の向きを変えて、どこかへ駈けていってしまった。 苦しくなると、そう思うほどだったが、また、 「忘れたくない」 朱実は、胸を抱いて、矛盾の 境 ( さかい )に立った。 もしほんとにわすれ貝という物があるならば、それはあの清十郎の袂へこそ、そっと入れてやりたい。 そしてこの自分という者を彼から忘れてもらいたいと、ため息ついて思う。 「 執 ( しつ )こい人……」 思うだけでも、朱実は心がふさいだ。 自分の青春をのろうために、あの清十郎は生活しているような気もちにさえ襲われる。 清十郎のねばり濃い求愛に、心が暗くなる時は、必ずその心のすみで、彼女は 武蔵 ( むさし )のことを考えた。 なぜならば、遮二無二に今の境遇を切り 解 ( ほど )いて現在の身から夢の中へ、駈け出してしまいたくなるからだった。 「……だけど?」 彼女は、しかし幾たびもためらった。 自分はそこまでつき詰めているが、武蔵の気もちはわからなかった。 「……アアいっそのこと忘れてしまいたい」 青い海が、ふと誘惑でさえあった。 朱実は、海を見つめていると、自分が怖くなった。 何のためらいもなく、真っ直にそこへ向って駈けて行かれる気がするのである。 そのくせ自分がこんなつき詰めた考えを抱いているなどということは、およそ彼女の 養母 ( はは )のお甲も知らない。 清十郎も思わない。 誰でも朱実と一つに暮した者は皆、この娘は至って快活で、お 転婆 ( てんば )で、そしてまだ、男性の恋愛が受け取れないほど開花の 晩 ( おそ )い 質 ( たち )だと思いこんでいるらしいのである。 朱実はそんな男たちやまた 養母 ( はは )を、心のうちであかの他人に思っていた。 どんな 冗戯 ( じょうだん )でもいえるのである。 そしていつも鈴のついた 袂 ( たもと )を振って、駄々っ子みたいに振舞っているのだったが、独りになると、春の草いきれのように熱いため息をついていた。 さっきから先生がお呼びでごさいますよ。 どこへ行ったのかと、えらいご心配になって」 旅舎 ( やど )の男だった。 彼女のすがたを 碑 ( いしぶみ )のそばに見つけて、こういいながら走って来た。 朱実がもどって行って見ると、清十郎はただひとりで、松かぜの音を静かに 閉 ( た )てこめた冬座敷で、 緋 ( ひ )の 蒲団 ( ふとん )をかけた 炬燵 ( こたつ )に手を入れてぽつねんとしていた。 彼女のすがたを見ると、 「どこへ行っていたのだ、この寒いのに」 「オオ嫌だ、ちっとも寒くなんかありやしない。 浜はいっぱいに陽があたっていますもの」 「何していた」 「貝をひろっていたの」 「子どもみたいだな」 「子どもですもの」 「正月が来たら 幾歳 ( いくつ )になると思う」 「幾歳になっても子どもでいたい……いいでしょう」 「よかあない。 すこしは、おふくろの案じているのも考えてやれよ」 「おっ母さんなんか、何も私のことなんか考えているものですか。 自分がまだ若い気ですもの」 「ま、 炬燵 ( こたつ )へお入り」 「炬燵なんか、 逆上 ( のぼせ )るから大っ嫌い。 ……私はまだ年寄りじゃありませんからね」 「朱実」……手くびをつかんで、清十郎は膝へ引き寄せた。 「きょうは誰もいないらしい。 おまえの 養母 ( おふくろ )も、粋をきかして先へ京都へ帰ったし……」 ふと清十郎の燃えている眼を見て、朱実はからだが 硬 ( こわ )ばってしまった。 「…………」 無意識に身を 退 ( ひ )きかけたが、彼の手は、彼女の手くびを離さない。 痛いほど握りしめ、 「なぜ逃げる?」 とがめるように 額 ( ひたい )に青すじを立てる。 「逃げやしません」 「きょうは皆、留守なのだ、こういう折はまたとない。 そうだろう朱実」 「なにがです」 「そう 棘々 ( とげとげ )しくいうな。 もうおまえと 馴染 ( なじ )んでから小一年、おれの気持もわかったはず、お甲はとうに承知なのだ。 おまえがおれに従わないのは、おれに腕がないからだとあの 養母 ( おふくろ )はいっている。 それでも清十郎は離さないのである。 こういう場合に京八流の兵法が応用されては、いかに彼女が争っても無駄であろう。 それにまた、きょうの清十郎はいつもとやや違っていた。 いつも 自暴 ( やけ )に酒を 仰飲 ( あお )って執こくからむのだが、きょうは酒気はないし、青白い顔をしているのだった。 離さないと、みんなを呼ぶからいい」 「呼んでみい! ……。 この棟は 母屋 ( おもや )から離れているし、誰も来るなと断ってあるのだ」 「わたし帰ります」 「帰さん!」 「あなたの体じゃありません」 「ば、ばかっ。 ……おまえの 養母 ( おふくろ )に聞け、おまえの体には、おれの手から身代金ほどの金が、お甲へやってあるのだ」 「おっかさんが私を売り物にしても、私は売った覚えはない。 死んだって、嫌な男なぞに」 「なにっ」 緋 ( ひ )の 炬燵 ( こたつ )ぶとんが、朱実の顔を押しかぶせた。 朱実は心臓のつぶれるような声をあげた。 ……呼べど、呼べど、誰も来なかった。 ひんやりと薄陽のあたっている障子には、何事もなげに、松のかげが遠い潮鳴りのように揺れているに過ぎない。 外は、あくまで静かな冬の日であった。 チチ、チチ、とどこかで、人間の無残な振舞いとはおよそ遠い小鳥の声がしていた。 ……ほど 経 ( た )って。 そこの障子のうちで、わっと号泣する朱実の声がもれた。 しいんとして、ややしばらくのあいだ、人の声も気はいもしないでいると思うと、清十郎が青じろい顔を持って、ついと、障子の外へすがたを現わした。 「あっ! ……」 清十郎は身伸びをして、 手拭 ( てぬぐい )で巻いた手を抑えながら、見送ってしまった。 まるで、発狂したような 迅 ( はや )さと取乱した彼女の姿であった。 「…………」 ちょっと、不安そうな眼をしたが、清十郎は、追って行かなかった。 「これよ、 権叔父 ( ごんおじ )」 「おい、なんじゃあ」 「おぬし、くたびれぬかよ」 「いささか 気懶 ( けだる )うなっておる」 「そうじゃろが、この婆もちと、きょうは 歩行 ( ひろ )い飽いた。 したが、さすがに住吉の 社 ( やしろ )、見事な結構ではある。 ……ホホ、これが若宮八幡の秘木とかいう橘の樹かいの」 「そうとみえる」 「 神功 ( じんぐう )皇后さまが、 三韓 ( さんかん )へご渡海なされた折に、八十 艘 ( そう )の 貢 ( みつ )ぎ 物 ( もの )のうちの第一のみつぎ物がこれじゃといういい伝えじゃが」 「婆よ、あの 神馬 ( しんめ )小屋にいる馬は、よい馬ぞよ。 加茂の 競 ( くら )べ 馬 ( うま )に出したら、あれこそ第一でがなあろうに」 「ムム、月毛じゃの」 「何やら立て札があるわ」 「この 飼料 ( かいば )のおん豆を 煎 ( せん )じて飲ますれば、夜泣き、歯ぎしりが止むとある。 権叔父、おぬし飲むがええ」 「ばかをいわしゃれ」 笑いながら見廻して、 「おや、又八は」 「ほんに、又八はどこへ行ったぞいな」 「ヤア、ヤア、あれなる 神楽 ( かぐら )の 殿 ( でん )の下に足をやすめているわ」 「又よう。 又八は、のそりのそり歩いて来た。 この 婆 ( ばば )とこの 爺 ( じじ )を連れにして、毎日こう歩いてばかりいるのは、彼としてかなりの我慢らしく見える。 それが五日や十日の見物というならまだしも、宮本武蔵という敵と巡り会って討ち果すまでの長い旅かと思うと、なんとしても、憂鬱にならざるを得ない。 元日か二日が過ぎたらすぐ別れようと思う。 だが、婆も爺も、先の短いせいか、 仏性 ( ほとけしょう )があるというのか、神社仏閣というといちいちお 賽銭 ( さいせん )を奉ったり、長々と祈願をこめたりばかりしていて、今日も、この住吉だけで、ほとんど一日暮れてしまいそうだ。 「はよう来ぬか」 鈍々 ( どんどん )たる足つきで、顔をふくらませて来る又八をながめて、お杉隠居は、若い者のように 焦 ( じ )れた。 「勝手なことをいってら」 又八は、口返答して、少しも足を早めないのだ。 「人を待たせる時は、いくらでも待たせておいて」 「何をいうぞ、この息子は。 神さまの霊域へ来たら、神さまをおがむのは人間のあたりまえなことじゃ。 おぬし、神にも仏にも手を合せたのを見たことがないが、そういう量見では、行く末が思いやらるる」 又八は、横を向いて、 「うるせえな」 それを聞き咎めてまた婆が、 「何がうるさいのじゃ」 初めの二、三日こそ、 母子 ( おやこ )の愛情は蜜より濃やかであったが、馴れるにつれ又八が、事ごとに たてを突いたり老母を小馬鹿にしたりするので、 旅籠 ( はたご )に帰るとお杉隠居は、この息子を前に坐らせ、毎夜のようにお談義ばかりであった。 それが今、ここで始まりそうな気色なので権叔父は、こんなところで開き直られては閉口と、 「まアまア、まアまア」 と、 母子 ( ふたり )をなだめて歩み出した。 困った 母子 ( おやこ )だと権叔父は思う。 何とか、隠居のきげんを直し、又八のふくれ 面 ( つら )もなだめたいものだと、双方に気をつかって歩いている。 「ホ、よいにおいがすると思ったら、あれなる磯茶屋で、焼き 蛤 ( はまぐり )をひさいでおる。 婆よ 一酌 ( ひとしゃく )やろうではないか」 高燈籠の近くにある海辺の 葭簀 ( よしず )茶屋であった。 気のすすまない顔つきの二人を誘って、 「酒あるか」 権叔父は先へ入って行く。 そして、 「さ、又八もきげん直せ。 婆もちとやかまし過ぎるぞよ」 杯を出すと、 「飲みとうない」 お杉隠居は、横を向く。 引っ込みを失って、権叔父はその杯を、 「じゃあ又八」 と、彼へ 酌 ( さ )した。 むッつりむッつり又八はたちまち二、三本ほど飲みほしてしまう。 それが老母の気に喰わないことは勿論である。 「おい、もう一本」 権叔父をさし 措 ( お )いて、又八が四本目を求めると、 「いい加減にしやれ!」 と、婆は叱った。 「 遊山 ( ゆさん )や酒のむためのこの旅かよ。 権叔父も、ほどにしたがよい。

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斎藤茂吉 万葉秀歌

夕べ 眠れ ず に 泣い てい たん だ ろう 歌詞

伏見桃山の城地を 繞 ( めぐ )っている淀川の水は、そのまま長流数里、 浪華江 ( なにわえ )の大坂城の石垣へも寄せていた。 「どうなるんだ?」 と、人々はすぐそういう話題に興味を持つ。 「どうって、何が?」 「世の中がよ」 「変るだろう。 こいつあ、はっきりしたことだ。 変らない世の中なんて、そもそも、藤原道長以来、一日だってあった 例 ( ためし )はねえ。 河の水は沸いている。 もう秋は立っているのだが、暑さはこの夏の土用にも 勝 ( まさ )って 酷 ( きび )しい。 淀の京橋口の柳はだらりと白っぽく 萎 ( な )えている。 気の狂ったような 油蝉 ( あぶらぜみ )が一匹、川を横ぎって町屋の中へ突き当ってゆく。 その町も晩の灯の色はどこへか失って、灰を浴びたような板屋根が乾き上がっているのだった。 橋の 上下 ( かみしも )には、無数の石船がつながれていて、河の中も石、 陸 ( おか )も石、どこを見まわしても石だらけなのである。 その石も皆、畳二枚以上の 巨 ( おお )きなものが多かった。 焼けきった石の上に、 石曳 ( いしひ )きの労働者たちは、無感覚に寝そべったり腰かけたり仰向けに転がったりしている。 ちょうど今が、昼飯 刻 ( どき )でその後の半刻休みを楽しんでいるのであろう。 そこらに材木をおろしている牛車の牛も 涎 ( よだれ )をたらして、満身に 蠅 ( はえ )を集めてじっとしている。 伏見城の修築だった。 いつのまにか、世の人々に「大御所」と呼ばしめている家康がここに滞在しているからではない。 城普請 ( しろぶしん )は、徳川の戦後政策の一つだった。 譜代大名 ( ふだいだいみょう )の心を 弛緩 ( しかん )させないために。 もう一つの理由は、一般民に、とにかく徳川政策を 謳歌 ( おうか )させるためには、土木の工を各地に起して、下層民へ金をこぼしてやるに限る。 今、城普請は全国的に着手されていた。 この伏見城の土木へ 日稼 ( ひかせ )ぎに来る労働者の数だけでも、千人に近かった。 その多くは、 新曲輪 ( しんぐるわ )の石垣工事にかかっているのである。 伏見町はそのせいで、急に、 売女 ( ばいた )と 馬蠅 ( うまばえ )と物売りが 殖 ( ふ )え、 「大御所様景気や」 と、徳川政策を謳歌した。 その上、 「もし戦争になれば」 と、町人たちは、機と利を察して、思惑に熱していた。 社会事象のことごとくを、そろばん珠にのせて、 「 儲 ( もう )けるのはここだ」 無言のうちに、商品は活溌にうごいた。 その大部分が、軍需品であることはいうまでもない。 もう庶民の頭には、太閤時代の文化をなつかしむよりも、大御所政策の目さきのいい方へ心酔しかけていた。 司権者は誰でもいいのである。 自分たちの小さな慾望のうちで、生活の満足ができればそれで苦情がないのだ。 家康は、そういう愚民心理を、裏切らなかった。 子どもへ菓子を 撒 ( ま )いてやるより 易々 ( いい )たる問題であったろう。 それも徳川家の金でするのではない。 栄養過多な外様大名に課役させて、程よく、彼らの力をも減殺させながら効果を挙げてゆく。 そうした都市政策の一方、大御所政治は、農村に対しても、従来の放漫な切り取り徴発や、 国持 ( くにもち )まかせを許さなかった。 徳川式の封建政策をぽつぽつ 布 ( し )きはじめていた。 それには、 (民をして政治を知らしむなかれ、政治にたよらせよ) という主義から、 (百姓は、飢えぬほどにして、気ままもさせぬが、百姓への慈悲なり) と、施政の方策をさずけて、徳川中心の永遠の計にかかっていた。 それはやがて、大名にも、町人にも、同じようにかかって来て、孫子の代まで、身うごきのならない手かせ足かせとなる封建統制の前提であったが、そういう百年先のことまでは、誰も考えなかった。 いや、 城普請 ( しろぶしん )の石揚げや石曳きに稼ぎに来ている労働者などは、 明日 ( あした )のことさえ、思っていないのである。 昼飯をたべれば、 「はやく晩になれ」 と祈るのが、いっぱいな慾念だった。 それでも時節がら、 「戦争になるか」 「なれば 何日 ( いつ )頃?」 などと、時局談は、いっぱし 熾 ( さか )んだったが、その心理には、 「戦争になったって、こちとらは、これ以上、悪くなりようがねえ」 という気持があるからで、ほんとにこの時局を 憂 ( うれ )いたり、平和の岐点をじっと案じて、どの方へ曲がるのが国と民のためだろうなどと考えているのでは決してないのである。 石の蔭で、 銭 ( ぜに )の裏表を伏せて、 博戯 ( ばくち )をしていた人足の群れで、二つ売れた。 「こちらの衆は、西瓜どうや。 西瓜買うてくれなはらんか」 と、群れから群れへ唄ってくると、 「べら棒め、銭がねえや」 「ただなら食ってやる」 そんな声ばかりだった。 すると、たった一人ぽち、青白い顔をして、石と石のあいだに 倚 ( よ )りかかって膝を抱えていた石曳きの若い労働者が、 「西瓜か」 と、力のない眼をあげた。 又八は、土のついた青銭を、掌のうえでかぞえた。 西瓜売りにわたして一個の西瓜と交換した。 それを抱え込むと、またしばらく、石に倚りかかったまま、ぐんなり 俯向 ( うつむ )いているのである。 「げ……げ……」 突然、片手をつくと、草の中へ牛みたいに 唾液 ( だえき )を吐いた。 西瓜は膝から転がり出している。 それを取ろうとする気力もないし、食べようという気で買ったわけでもないらしいのだ。 「…………」 にぶい眼で、西瓜をながめていた。 眼は虚無の玉みたいに何の意力も希望もたたえていない。 呼吸 ( いき )をすると肩ばかりうごいた。 「……畜生」 呪う者ばかりが 頭脳 ( あたま )へ映ってくる。 お 甲 ( こう )の白い顔であり、 武蔵 ( たけぞう )のすがたであった。 今の逆境へ落ちて来た過去を 振顧 ( ふりかえ )ると、武蔵がなかったらと思い、お甲に会わなかったらと彼はつい思う。 過 ( あやま )ちの一歩は、関ヶ原の 戦 ( いくさ )の時だ。 次に、お甲の誘惑だ。 あの二つのことさえなかったら、自分は今も、 故郷 ( ふるさと )にいたろう。 そして本位田家の当主になって、美しい嫁をもち、村の人々から、 羨望 ( せんぼう )される身でいられたに違いない。 「お 通 ( つう )は、怨んでいるだろうなあ……。 どうしているか」 彼の今の生活は、彼女を空想することだけが慰めだった。 お甲という女の性質がよくわかってからは、お甲と同棲しているうちから、心はお通へもどっていたのだった。 やがてあの「よもぎの寮」と呼ぶお甲の家を、ていよく突き出されたような形で出てしまってからは、よけいにお通を思うことが多かった。 その後また、よく 洛内 ( らくない )の侍たちの間で噂にのぼる宮本武蔵なる新進の剣士が、むかし友達の「 武蔵 ( たけぞう )」であることを知ると、又八はじっとしていられなかった。 (よしっ、俺だって) 彼は酒をやめた。 遊惰な悪習を蹴とばした。 そして次の生活へかかりかけた。 (お甲のやつにも、見返してやるぞ。 五年も世間を見ずに、年上の女に養われて来た不覚のほどが、はっきり身に沁みて分ったが、遅かった。 (いや、遅かあない。 まだ二十二だ。 どんなことをしたって……) と、これは誰にでも起せる程度の興奮だったが、又八としては、眼をつぶって運命の断層をとび越えるような悲壮をもって、この伏見城の土木へ働きに出たのだった。 そしてこの夏から秋までの炎天下で、自分でもよく続いたと思うほど労働をつづけていた。 (おれも、一かどの男になってみせる。 武蔵のやる芸ぐらい、俺に出来ない法はない。 いや、今にあいつを尻目にかけて、出世してみせてやる。 その時には、お甲にも黙って復讐できるのだ。 武蔵や自分よりも、彼女は一ツ年下だ。 すると今から十年経つうちには、もう三十を一つこえてしまう。 (それまで、お通が、独り身で待っているかしら?) 故郷のその後の消息は何も知らない又八だった。 そう考えると、十年では遠すぎる、少なくもここ五、六年のうちだ。 なんとしても身を立てて、故郷へ行き、お通に詫びて、お通を迎え取らなければならない。 「そうだ……五年か、六年のうちに」 西瓜を見ている眼に、やや光が出てきた。 すると、 巨 ( おお )きな石の向う側から、仲間の一人が、 肱 ( ひじ )を乗せていった。 「おい又八、何をひとりでぶつぶついってるんだ。 ……オヤ、ばかに青い 面 ( つら )して、げんなりしているじゃねえか。 どうしたんだ、腐った西瓜でも喰らって、腹でも 下痢 ( くだ )したのか」 つけ元気に、又八はうすく笑った。 だがすぐ、不快な眼まいがこみあげて来るらしく、 生唾 ( なまつば )を吐いて顔を振った。 「な、なあに、大したことはないが、少し暑さ 中 ( あた )りしたらしいんだ。 ……すまないが、 午 ( ひる )から一 刻 ( とき )ほど、休ましてくれ」 「意気地のねえ野郎だな」 逞しい石曳き仲間は、 愍 ( あわ )れむように 嘲 ( あざけ )った。 「なんだい、その西瓜は。 喰えもしねえのに買ったのか」 「仲間にすまないから、みんなに喰べてもらおうと思って」 「そいつあ如才のねえこった。 おい、又八の 奢 ( おご )りだとよ、食ってやれ」 西瓜を持って、その男は、石の角へたたきつけた。 忽ち、そこらの仲間が 蟻 ( あり )のように寄って来て、赤いしずくの 滴 ( したた )る甘肉の破片を 貪 ( むさぼ )り合った。 「やあい、仕事だぞうっ」 石曳きの 小頭 ( こがしら )が、石のうえに上がって呶鳴った。 監督の侍が、 鞭 ( むち )を持って 陽除 ( ひよ )け小屋から出て来る。 遽 ( にわ )かに汗のにおいが大地にうごき、 馬蠅 ( うまばえ )までわんわん立つ。 「テコ」や「コロ」に乗せられた巨大な石が、一握りもある太い綱に曳かれて徐々に前へ出てゆくのだった、雲の峰がうごくように。 築城時代の現出は、それにつれて全国に、石曳き歌というものの流行を 興 ( おこ )した。 今、ここの人足たちが唄い出したのもそれである。 これにてなくば、うき世なるまじく見え 候 ( そろ )) 労働歌が絃歌になり、蜂須賀侯のような大名までが、 夜興 ( やきょう )の 口誦 ( くちずさ )みに 戯 ( たわむ )れたものとみえる。 街に歌がさかんになりだしたのは、何といっても太閤の世盛りからだった。 室町将軍の頃には、歌があっても 廃頽的 ( はいたいてき )な室内のものだけだった。 その頃は、児童がうたう歌まで、ひがみッぽい暗い歌が多かったが、太閤の世になってからは、歌も明るくなり大きくなり希望的になって、民衆はそれを汗をかきながら太陽の下でうたうことを甚だ好んだ。 関ヶ原の役の後、社会文化に家康色がだんだん濃くなってくると、歌もすこし変って来て、豪放さはうすくなった。 太閤様のころには、民衆からひとりでに歌が湧いてきたが、大御所の世間になってからは、徳川 家付 ( いえつき )の作者が作ったような歌が民衆へ提供されて来た。 「……ああ、苦しい」 又八は、頭をかかえた。 頭は火みたいに熱かった。 仲間のわめいている石曳き歌が、 虻 ( あぶ )に取り巻かれているように耳にうるさかった。 「……五年、五年。 アア五年働いていたらどうなるんだ。 一日稼いでは、一日分食ってしまい、一日休めば、一日食わずにいなけれやならない」 生唾 ( なまつば )も出しきって、青ざめた顔を 俯向 ( うつむ )けていた。 何思ったか、武者修行はそこへ坐りこんだ。 面積一坪ほどな 平石 ( ひらいし )の前にである。 坐ってみるとちょうど机の高さぐらいに 肱 ( ひじ )がつけるのだ。 「ふッ……ふッ……」 焦 ( や )けていた石の砂を息で吹く、砂とともに 蟻 ( あり )の列もふき飛んでゆく。 ふたつの肱をつくと、編笠はしばらく頬杖に乗っている。 陽ざかりで、石はみな照り返すし、草いきれは逆さに顔を撫でるし、さぞ暑いだろうに、身うごきもしない。 城の工事に眺め入っているのである。 少し離れた所に、又八がいることなどは、意に介さない様子であった。 又八もそこへ来てそういう 態 ( てい )をしている武者修行があろうとあるまいと、もとより自分に何の交渉があるわけではないし、頭や胸も依然として不快なので、時折、胃から 生唾 ( なまつば )を吐きながら、背を向けて休んでいた。 その苦しげな息を耳にとめたのだろう。 編笠がうごいて、 「石曳き」 と、声をかけ、 「どういたした?」 「へい……暑さ 中 ( あた )りで」 「苦しいのか」 「少し落ちつきましたが……まだこう吐きそうなんで」 「薬をやろう」 印籠を割って、黒い粒を 掌 ( てのひら )へうつし、起って来て又八の口へ入れてくれた。 「すぐ 癒 ( なお )る」 「ありがとう存じます」 「にがいか」 「そんなでもございません」 「まだ、貴様はそこで、仕事を休んでおるのか」 「へ……」 「誰か参ったら、ちょっとおれの方へ声をかけてくれ、小石で合図をしてくれてもいい、頼むぞ」 武者修行は、そういって、前の位置に坐りこむと、今度はすぐ矢立から筆を取り出し、半紙 綴 ( とじ )の 懐中 ( ふところ )手帖を石の上にひろげて、ものを書くことに没頭しはじめた。 笠のつば越しに、彼の眼のやりばが、間断なく城へ向ったり、城の外のほうへ行ったり、また城のうしろの山の線や、河川の位置や、天守などへ、転々とうごいてゆくところを見ると、その筆の先は、伏見城の地理と廓外廓内の眼づもりを、絵図に 写 ( と )っているにちがいなかった。 関ヶ原の 戦 ( いくさ )の直前に、この城は西軍の浮田勢と島津勢に攻められて、その 増田廓 ( ますだぐるわ )や 大蔵廓 ( おおくらぐるわ )や、また諸所の 塁濠 ( るいごう )などもかなり破壊されたものだったが、今では、太閤時代の旧観にさらに鉄壁の威厳を加えて、一衣帯水の大坂城を 睥睨 ( へいげい )していた。 「……あっ」 又八が、そういった時には、写図に一心になっている編笠のうしろへ、工事課役の大名の臣か、伏見の 直臣 ( じきしん )かわからないが、 草鞋 ( わらじ )ばきで、太刀を 革紐 ( かわひも )で背なかに負うた半具足の侍が、武者修行の気のつくまで、黙って立っていたのだった。 又八は正直にすまないと思った。 けれどもう遅い。 石を投げてやっても声をかけてやっても、もう遅い。 工事目付の侍は、その眼をじっと 睨 ( ね )め返して、石の上の見取図へだまって具足の手を伸ばした。 この炎天下の我慢と、 粒々 ( りゅうりゅう )の辛苦をして、やっと写した城の見取図が、ものもいわず、いきなり肩越しに出て来た手のために、 皺 ( しわ ) くちゃに 掴 ( つか )み 奪 ( と )られようとするのを見ると、武者修行は、火薬の塊りが火を呼んだように、 「何するかッ」 満身で呶鳴った。 手頸 ( てくび )をつかまえて立つと、工事目付は 奪 ( と )り上げた彼の写図帖を、奪り返されまいとして、宙へその手をさしあげつつ、 「見せろ」 「無礼なッ」 「役目だ」 「なんであろうが」 「見ては悪いものか」 「悪いっ。 貴様などが見たってわかるもんじゃない」 「とにかく預る」 「いかん!」 帖の写図は、双方の手に裂かれて、半図ずつ握りしめた。 「曳ッ立てるぞ、素直にせぬと」 「どこへ」 「奉行所へ」 「貴様、役人か」 「然り」 「何番の。 誰の」 「左様なこと、汝らが、訊かんでもいい。 ……とにかくこれは返せん、其方も一応取りただすによって、あっちまで来い」 「あっちとは」 「工事奉行のお 白洲 ( しらす )」 「おれを罪人扱いするのか」 「だまって参るのだ」 「役人、こらっ。 見廻りは、青すじを立てた。 掴んでいた写図の破れを、地へすてて踏みにじり、二尺余りの長い十手を腰から抜いた。 武者修行の手が刀へかかったら、すかさず、その 肱 ( ひじ )へ十手の打撃を入れてやろうとするもののように、腰を 退 ( ひ )いて身構えたが、その様子もないので、もう一度、 「歩かんと、縄を打つぞ」 ことばの終らないうちに、武者修行のほうから一歩出て来た。 何か大きな声を発したと思うと、見廻りは首の根をつかみ寄せられていた。 武者修行の片手はまた、彼の 鎧帯 ( よろいおび )の腰をつかんで、 「この、虫けら」 巨石 ( おおいし )の角へ向って 抛 ( ほう )り投げた。 見廻りの 侍頭 ( さむらいがしら )は、 先刻 ( さっき )そこで石曳きの男がたたき割った西瓜のようになって、形を失ってしまった。 「……アッ」 又八は、顔を抑えた。 真っ赤な味噌みたいなものが彼のいる辺りまで 刎 ( は )ねて来たからである。 平然たるものは、 彼方 ( あなた )の武者修行であった。 よほどこんな殺人に馴れているのか、また一気に憤りを爆発させて後の涼しさに落着いているのか、とにかく、あわてて逃げ出す様子もなく、見廻りの足で踏みにじられた写図の断片と、そこらに散らばっている 反古 ( ほご )をひろい集め、次に、相手を投げる途端に 紐 ( ひも )が切れて飛んで行った編笠を、静かな目で捜している。 「…………」 又八は、凄惨な気に打たれていた。 恐ろしい力量を見て自分の毛穴までよだっている。 陽焦 ( ひや )けのした骨太の顔に薄 あばたがあり、耳の下から顎にかけて四半分ほど顔がない。 ないというのはおかしいが、太刀で斬られた 痕 ( きずあと )の肉が変に縮んでしまったのかも知れない。 その耳の裏にも黒い 刀痕 ( とうこん )があり、左の手の甲にも刀傷がある。 笠を拾って、怪異なその顔へかむると、武者修行はさっと足を速めた。 風のように彼方へ向って逃げ出したのである。 勿論、そこまでの行動は極めて短い間だった。 それは丸太組の 櫓 ( やぐら )のうえにいる 棟梁衆 ( とうりょうしゅう )や作事与力の上役だった。 そこから突然、大きな声が放たれたと思うと、櫓の下の湯呑み所の板がこいの中で、大釜の火にいぶされながら働いていた足軽たちが、 「なんだ?」 「何だ」 「また、喧嘩か」 と、外へ飛び出した。 もうその時は、作業場と町屋の境に出来ている 竹矢来 ( たけやらい )の木戸で、真っ黒にかたまった人間の怒号が黄いろい 埃 ( ほこり )につつまれていた。 「 間者 ( かんじゃ )だな! 大坂の」 「 性懲 ( しょうこ )りもなく」 「ぶっ殺せ」 口々にいって、 石工 ( いしく )や土工や工事奉行の配下は、みな自分の敵でもいるように駈け集まって行く。 半分 顎 ( あご )のない武者修行が捕まったのだ。 竹矢来の外へ出て行く牛車の蔭にかくれて、すばやく木戸の口をすり抜けようとしたが、そこの番衆たちに挙動を怪しまれて、釘の植わっている 刺叉 ( さすまた )という 柄 ( え )の長い道具で、いきなり足を 搦 ( から )み取られたのであった。 そこへ、 櫓 ( やぐら )の上からも、 「その編笠を引ッ捕えろっ」 と、呼ばわる声が同時にあったので、理由などは問わず、遮二無二、組み伏せにかかると、武者修行は形相をあらためて、野獣のように死にもの狂いとなった。 刺叉を引っ 奪 ( た )くられた男が、真っ先にその得物の先で髪を引っかけられた。 四、五人叩き伏せておいて、虚空へさっと 閃 ( ひらめ )かしたのは彼の腰に横たえていた 胴田貫 ( どうたぬき )らしい大太刀である。 平常 ( ふだん )の 差刀 ( さしもの )には頑丈すぎるが、陣太刀にすれば手ごろである。 すると、危険を避けて人間はわっと散らかったが、途端に八方から小石が降って来たのである。 「 殺 ( や )っちまえ」 「たたっ殺してしまえっ」 肝腎 ( かんじん )な侍たちが臆して近よらないので、平常、武者修行というものに対して、彼らは少しばかりの知識や学問を鼻にかけ、世の中をただ威張って横に歩くのを見栄にしている無産の 僻 ( ひが )み者か、一種の逸民と認めて、それに反感を抱いている石工だの土工だのという労働者たちが、 「 殺 ( や )っちまえ」 「のしちまえ」 と叫んで、四方から 抛 ( ほう )りつける、それは無数の石つぶてであった。 「この 凡下 ( ぼんげ )どもめ!」 駈け入れば、わッと散るのだ。 武者修行の眼はもう自分の生きる路を見つけるよりも、その石の来るほうの人間へ向って、理智や利害を越えている。 怪我人 ( けがにん )も多く出たし、死者も幾人かあったのに、それから一瞬の後は、めいめい職場にかえって、けろりとした工事場の広さであった。 何事もなかったように、石曳きは石を曳き、土工は土をかつぎ、 石工 ( いしく )は 鑿 ( のみ )で石を割っている。 鑿 ( のみ )が火花を出す暑い音、 霍乱 ( かくらん )をおこして暴れくるう馬のいななき、残暑の空は、午後に入って、じいんと 鼓膜 ( こまく )が馬鹿になるような熱さだった。 伏見城から淀のほうへ背のびをしている雲の峰は、しばらくうごきもしなかった。 「もう九分九厘まで、くたばっているが、御奉行が来るまでこうして置くから、 汝 ( てめえ )そこにいて、こいつの番をしておれ。 「……人間なんて、つまんねえものだな。 たった今そこで、城の見取図を写していた男が」 又八のにぶい 眸 ( ひとみ )は自分から十歩ほど先の地上にある一個の物体を見つめたまま、最前からぽんやりと虚無的な考えに囚われている。 「……もう死んでるらしい。 まだ三十前だろうに」 と彼は思い 遣 ( や )った。 顎の半分ない武者修行は、太い麻縄で縛られて、血に土のまぶされた黒い顔を、無念そうにしかめたまま、その顔を横伏せにして倒れている。 縄尻はそばの 巨 ( おお )きな石に巻きつけてあるのだった。 もう「ウ」も「ス」もいい得ない死人の体をそう 大仰 ( おおぎょう )に 縛 ( くく )っておかないでもよさそうなものと又八はながめていたことだった。 何で撲られたのか、破れた 袴 ( はかま )から変な恰好して露出している脚の 脛 ( すね )は、肉が 弾 ( はじ )けて折れた白骨の先が飛び出していた。 髪は 粘 ( ねば )って血を噴いているし、その血へは 虻 ( あぶ )がたかり、手や脚にはもう 蟻 ( あり )の群れが這っている。 「武者修行に出たからには、のぞみを抱いていたろうに。 親はあるのかないのか」 そんなことを 思 ( おも )い 遣 ( や )ると、又八はいやな気持に襲われて、武者修行の一生を考えているのか、自分の身の果てを考えているのか、分らなくなってきた。 「望みをもつにも、もっと悧巧に出世する道がありそうなものだ」 と、つぶやいた。 時代は若い者の野望を 煽 ( あお )って、「若者よ夢を持て」「若者よ起て」と未完成から完成への過渡期にあった。 又八ですらその社会の空気を感じるほど、今は、裸から一国一城の 主 ( あるじ )を望める時である。 その多くが武者修行の道をとるのだ。 武者修行をして歩けば今の社会では到るところで衣食に事を欠くことはない。 田夫野人でも武術には関心をもっているからだ。 寺院へ頼っても渡れるし、あわよくば地方の豪族の客となり、なお、幸運にぶつかれば、一朝事のある場合のために、大名の経済から「捨て 扶持 ( ぶち )」「蔭扶持」などというものを 貢 ( みつ )がれることもある。 だが数多い武者修行の中で、そういう幸運にあう者がどれほどあろうかといえば、これは極めて少数にちがいない。 功成り名を遂げ、一人前の 禄 ( ろく )取りになるほどの者は一万人中で二人か三人を出ないであろう。 (馬鹿馬鹿しい……) 又八は、同郷の友の宮本武蔵が行った道を 憐 ( あわれ )んだ。 おれは将来、奴を見返してやるにしても、そんな愚かな道はとらないぞと思う。 ここに死んでいる顎のない武者修行のすがたを見てもそう思う。 「……おやっ?」 又八は飛び 退 ( の )いて大きな眼をすえた。 なぜならば、死んだものときめていた蟻だらけの武者修行の手がびくっと動き出して、縄目の間から 鼈 ( すっぽん )のような手首だけを出して大地へつき、やがてむくりと、腹を上げ、顔を上げ、次に前のほうへ一尺ばかり、ずるりと這い出して来たからであった。 ぐ……と 生唾 ( なまつば )をのんで又八はなおも後へ 摺 ( ず )り 退 ( さ )がった。 腹の底から驚きを感じると声も出ないものだ。 ただ眼のみ大きくみひらいて、目前の事実に茫失した。 「……ひゅっ……ひゅっ……」 彼は、何かいおうとするらしい。 彼とは顎の半分ない武者修行である。 完全に死んでいると思っていたこの男は、まだ生きていたのだ。 ……ヒュッ、ヒュッと 断 ( き )れ 断 ( ぎ )れに彼の呼吸が 喉 ( のど )で鳴るのである。 唇は黒く 渇 ( かわ )いてしまって、そこから言葉を吐くのはもう不可能な 業 ( わざ )であった。 それを必死に一言でもいおうとするので、呼吸が割れた笛の鳴るような音を出すのだった。 又八が驚いたのは、この男が生きていたからではない。 胸の下に縛りつけられている両手で這って来たからだ。 それだけでも、驚くに足る人間の死力であるのに、その縄尻の巻きつけてある何十貫もあろう 巨石 ( おおいし )が、この瀕死の 傷負 ( ておい )が引っ張る力で、ズル、ズル……と一、二尺ずつ前へ動いて来たからである。 まるで、化け物のような怪力だ。 この工事場の労働者のうちにも、ずいぶん力自慢があって、十人力とか二十人力とか自称している天狗もあるが、こんな化け物は一人もいない。 しかも、この武者修行は、今や死なんとしている体なのだ。 「……しょっ……しょっ……お、お、おねがい」 また何か、変った 語音 ( ごいん )を出していう。 意味はまったく分らない。 「……たっ……た……たのむ……」 がくっと首を前へ折った。 こんどはほんとに息が絶えたのだろう、見ているうちに 襟 ( えり )首の皮膚の色が青黒く沈んで行った。 草むらの蟻がもう白っぽい髪の毛にたかっている。 血のかたまった鼻の穴を一匹はのぞきこんでいた。 「? ……」 何を頼まれたのか、又八は 茫 ( ぼう )としているだけだった。 けれどこの怪力の武者修行が 臨終 ( いまわ )の一念は、自分へ 憑 ( つ )き物のようについていて 違 ( たが )えることのできない約束の負担を負わされたような気持がしてならない。 お城は 暮靄 ( ぼあい )にかすんで来た。 いつのまにかもう 黄昏 ( たそが )れかけて、伏見の町には早い 灯 ( あか )りがポツポツ 戦 ( そよ )ぎだしている。 「そうだ……何かこの中に」 又八は、死者の腰に結びつけている武者修行風呂敷をそっと触ってみた。 (故郷の土へ、 遺物 ( かたみ )を届けてくれというのだろう) そう彼は判断した。 包みと印籠を、死者の体から取って、自分の 懐中 ( ふところ )へ入れた。 石の蔭から見ると、奉行配下の侍たちだ。 又八は、死骸から無断で取った品物が自分の 懐中 ( ふところ )にあると思うと、自分の危険を感じて、そこにいたたまらなくなった。 夕ぐれの風はもう秋だった。 糸瓜 ( へちま )は大きくなっている。 その下で、 盥 ( たらい )の湯に 浴 ( つ )かっている駄菓子屋の女房が、家の中の物音に、戸板の蔭から白い肌を出していった。 「誰だえ。 又八さんかい?」 又八はこの家の同居人だった。 今、あたふたと帰って来ると、戸棚を掻廻して、一枚の 単衣 ( ひとえ )と 一腰 ( ひとこし )の刀を出し、姿をかえると、手拭で 頬冠 ( ほおかむ )りして、またすぐ草履を 穿 ( は )こうとしていた。 「暗かろ、又八さん」 「なに、べつに」 「今すぐ 灯 ( あか )りをつけるで」 「それには及ばないよ、出かけるから」 「行水は」 「いらん」 「体でも拭いて行ったら」 「いらん」 急いで裏口から飛び出して行った。 といっても、垣も戸もない草原つづきである。 彼が長屋から出て来ると入れちがいに、数名の人影が、 萱 ( かや )の 彼方 ( かなた )を通って、駄菓子屋の裏表へ入ってゆくのが見えた。 工事場の侍が 交 ( ま )じっていた。 又八は、 「あぶない所だった」 と 呟 ( つぶや )いた。 顎の半分ない武者修行の死体から、包みや 印籠 ( いんろう )を取った者のあることは、その後ですぐ発見された筈である。 当然、その側にいた自分に盗人の嫌疑がかかったに相違ない。 「だが……俺は盗みをしたのじゃない。 死んだ武者修行の頼みにやむなく持物を預かって来たのだ」 又八は 疚 ( やま )しくなかった。 その品は 懐中 ( ふところ )に持っている。 これは預かった物だと意識しながら持っている。 「もう石曳きに行かれない」 彼は、 明日 ( あした )からの放浪に、なんの あてもなかった。 しかし、こういう転機でもなければ、何年でも石を曳いているかも知れないと思うと、かえって先が明るく考えられる。 萱 ( かや )の葉が肩までかかる。 夕露がいっぱいだ。 遠くから姿を発見される 惧 ( おそ )れがなくて逃げるには気楽だ。 さてこれからどっちへゆくか? どっちへ行こうと体一つである。 何かいい運だの悪い運だのがいろいろな方角で自分を待っているらしく思う。 今の足の向き方ひとつで生涯に大きな違いが生じるのだ。 必然、こうなるものだと決定された人生などがあろうとは考えられない。 偶然にまかせて歩くよりほか仕方がない。 賽 ころに必然がないように、又八にも必然がないのだった。 何かここに起ってくる偶然があれば、それに引かれて行こうと思う。 だが、伏見の里の萱原には、歩けど歩けど何の偶然もなかった。 虫の音と露とが深くなるばかりだった。 単衣 ( ひとえ )のすそはびっしょり濡れて足に巻きつき、草の実がたかって、 脛 ( すね )がむず 痒 ( がゆ )い。 又八は、昼の病苦をわすれた代りに、すっかり 飢 ( ひも )じくなっていた。 胃液まで空っぽなのだ。 追手の心配がなくなってからは、急に歩くことが苦痛になっていた。 「……何処かで寝たいものだ」 その慾望が彼を無意識にここへ運んで来たのである。 それは野末に見えた一軒の 屋 ( や )の 棟 ( むね )だった。 近づいてみると垣も門も暴風の時に傾いたまま誰も起してやり手がない。 おそらく屋根も満足なものではあるまい。 しかし一度は貴人の別荘とされて、都あたりから、糸毛の 輦 ( くるま )に ( ろう )たけた麗人が、萩を分けて通ったこともありそうな 家造 ( やづく )りなのである。 又八はその無門の門を通って中へ入り、秋草の中に埋まっている 離亭 ( はなれ )や 母屋 ( おもや )をながめて、ふと玉葉集の中にある西行の、 ちょうどよい 塒 ( ねぐら )とここに一夜を明かしている虚無僧らしいのである。 炉 ( ろ )の火が赤く立つと、大きな人影が 婆娑 ( ばさ )として壁に映る。 独り尺八を吹いているのだ。 それはまた 他人 ( ひと )に聞かそうためでもなく自ら誇って陶酔している 音 ( ね )でもない。 秋の夜の孤寂の 遣 ( や )る瀬なさを、無我と 三昧 ( さんまい )に過ごしているだけのことなのだ。 ……考えれば 慚愧 ( ざんき )にたえない。 死んだ妻にも生きている子にも会わせる顔がない。 ……このおれなどの例を見ると、四十不惑などというのは聖人のことで、凡夫の四十だいほど危ないものはない。 油断のならない山坂だ。 まして女に関しては」 胡坐 ( あぐら )の前に、尺八を 縦 ( たて )に突き、その歌口へ両手をかさねて、 「二十だい、三十だいの年でも、由来おれは、やたらに女のことで失敗をやって来たが、そのころにはどんな醜聞をさらしても、人も許してくれたし、生涯の 怪我 ( けが )にもならなかった。 ……ところが、四十だいとなると、女に対してすることが 厚顔 ( あつか )ましくもなるし、それがお 通 ( つう )の場合のような事件になると、今度は世間がゆるさない。 そして、致命的な外聞になってしまった。 禄も家もわが子にも離れるような失敗になってしまった。 ……そして、この失敗も、二十だい三十だいなら取り返せるが、四十だいの失敗は二度と芽を出すことがむずかしい」 盲人のように 俯向 ( うつむ )いたまま、声を出してそういっているのである。 「アア……それを……おれは……」 虚無僧は、天井を仰向いた。 骸骨 ( がいこつ )のように鼻の穴が大きく又八のほうから見える。 凡 ( ただ )の浪人の 垢 ( あか )じみた着物を着て、その胸に、 普化禅師 ( ふけぜんじ )の末弟という 証 ( しるし )ばかりに黒い 袈裟 ( けさ )をつけているに過ぎないのである。 敷いている一枚の 筵 ( むしろ )は、常に巻いて手に持って歩く彼の唯一の 衾 ( ふすま )であり雨露の家だった。 …… 慚愧 ( ざんき )のいたりだ」 誰かに向って謝っているように、虚無僧は頭を下げて、さらにまた下げて、 「おれはいい、おれは、それでも、いいとしよう。 おれのした結果は、おれに 酬 ( むく )うより、あの城太郎のほうへより多く 祟 ( たた )っている。 とにかく、姫路の池田侯に藩臣としてこのおれが 歴乎 ( れっき )としていれば、あの子だって、千石侍の一人息子だ。 それが今では、 故郷 ( くに )を離れ、父を離れ……。 イヤそれよりも、あの城太郎が成人して、この父が、四十だいになってから、女のことで藩地から放逐されたなどと知る日が来たら、おれはどうしよう。 ……おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。 そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」 尺八を持って、彼は外へ出て行った。 妙な虚無僧である。 よろよろ立ってゆく時、物蔭から又八が見ていると、その痩せこけた 鼻下 ( びか )にはうすい どじょう 髭 ( ひげ )が生えていたように思う。 そう年を 老 ( と )っているほどでもないのに、ひどくよぼよぼした足元だった。 ぷいと出て行ったきり、なかなか戻って来ないのだ。 少し精神に異常があるのだろうと、又八は不気味に思う半面にあわれな気もした。 それはいいが、物騒なのは、炉に残っている火であった。 ぱちぱちと夜風がそれを 煽 ( あお )っている。 燃え折れた柴の火は、床を 焦 ( こ )がしているではないか。 「あぶねえ、あぶねえ」 又八はそこへ行って、 土瓶 ( どびん )の水をじゅっとかけた。 これが野中の破れ 邸 ( やしき )だからいいようなものの 飛鳥朝 ( あすかちょう )や鎌倉時代の二度と地上に建てることのできない寺院などであったらどうだろうと考えて、 「あんなのがいるから、奈良や高野にも火事があるんだ」 と彼は、虚無僧の去ったあとに自分が坐って、がらにもない公徳心を呼び起していた。 家産や妻子もない代りに、社会への公徳心も絶無な浮浪者には、火が怖いものという観念も全くないらしい。 だから彼らは、 金堂 ( こんどう )の壁画の中ですら平然と火を燃やす。 世の中に無用に生きているに過ぎない一個の 空骸 ( むくろ )を暖めるために火を燃やす。 「だが……浮浪人だけが悪いともいえねえな」 又八は自分も浮浪人であることを思って考えた。 今の世の中ほど浮浪人が多い社会はない。 それは何が生んだかといえば、 戦 ( いくさ )だった。 戦によってぐんぐん地位を占めてゆく者も多い代りに、 芥 ( あくた )のように捨てられてゆく人間の数も実に 夥 ( おびただ )しい。 これが次の文化の 手枷 ( てかせ )、足枷となるのもやむを得ない自然の因果といえよう。 そういう浮浪の徒が、国宝の塔を 焚火 ( たきび )で焼く数よりは、戦が、意識しつつ、高野や 叡山 ( えいざん )や皇都の物を焼いたほうが、遥かに大きな地域であった。 「……ほ。 洒落 ( しゃれ )たものがあるぞ」 又八はふと横を見てつぶやいた。 ここの炉も床の間も、改めて見直せば、元は茶屋にでも使っていたらしい 閑雅 ( かんが )な造りなのである。 そこの 小床 ( ことこ )の棚に、彼の眼をひいた物がある。 高価な 花瓶 ( はないけ )や香炉などではない。 口の欠けた徳利と、黒い 鍋 ( なべ )だった。 鍋には食べ残した 雑炊 ( ぞうすい )がまだ半分残っているし、徳利は振ってみると、ごぼっと音がして、欠けた口から酒がにおう。 「ありがたい」 こういう場合、人間の胃は、他の所有権を考えている 遑 ( いとま )はない。 徳利の濁り酒をのみ、鍋を 空 ( から )にして、又八は、 「ああ、腹が 満 ( は )った」 ごろんと手枕になる。 トロトロと炉の火もとに眠りかける。 雨のように野は虫の音に 更 ( ふ )けてゆく。 戸外ばかりでなく、壁も啼く、天井も啼く、破れ畳も啼きすだく。 「そうだ」 何か思い出したとみえる。 むくりと彼は起き直った。 そう急に思いついたらしい。 解いてみた。 中から出て来たのは、洗いざらした 襦袢 ( じゅばん )だの普通の旅行者の持つ用具などであったが、その 着 ( き )がえをひろげてみると、いかにも大事そうに、油紙でくるんである巻紙大の物と路銀の金入れであろう、どさっと重い音が膝の前に落ちた。 むらさき 革 ( がわ )の 巾着 ( きんちゃく )であった。 その金入れの中には、金銀 取交 ( とりま )ぜてだいぶの額が入っていた、又八は数えるだけでも自分の心が怖くなって、思わず、 「これは 他人 ( ひと )の 金 ( かね )だ」 と、殊さらにつぶやいた。 もう一つの油紙に包んであるものを開いてみると、これは一軸の巻物である。 軸には 花梨 ( かりん )の木が用いてあり、表装には 金襴 ( きんらん )の 古裂 ( ふるぎ )れが使ってあって、何となく秘品の紐を解く気持を 抱 ( いだ )かせられる。 「何だろ?」 全く見当のつかない品物だった。 もっとも、その又八にでも、伊藤弥五郎景久といえばすぐ、 (アアあの一刀流を創始して、一刀斎と号している達人か) と合点がゆくであろうが、その伊藤一刀斎の師が、鐘巻自斎という人で、またの名を 外他通家 ( とだみちいえ )といい、まったく社会からは忘れられている、富田入道 勢源 ( せいげん )の正しい道統をうけついで、その晩節をどこか 辺鄙 ( へんぴ )な田舎に送っている高純な士であるなどということはなおさら知らない。 この目録をみても分るが、中条流の印可をうけているのだもの。 惜しい死に方をしたものだな。 ……さだめしこの世に心残りなことだったろう。 あの最期の顔は、いかにも死ぬのが残念だという顔つきだった。 これを郷里の 知 ( し )る 辺 ( べ )へでも届けてくれといいたかったに違いない」 又八は、死んだ佐々木小次郎のために、口のうちで、念仏をとなえた。 そしてこの二品は、きっと死者の望むところへ届けてやろうと思った。 肌寒いので寝ながら炉の中へ柴を投げこんで、その炎にあやされながらウトウト眠りかけた。 ここを出て行った奇異な虚無僧が吹いているのであろう、遠い 野面 ( のづら )から尺八の音が聞えて来る。 何を求め、何を呼ぶのか。 彼が出て行く折につぶやいたように、愚痴と煩悩を捨て切ろうとする必死がこもっているせいかも知れない。 野は灰色に曇っている。 今朝 ( けさ )の涼しさは「立つ秋」を思わせ、眼に見るものすべてに露がある。 戸の吹き仆されている 厨 ( くりや )に、狐の足痕がまざまざ残っていた。 夜が明けても、 栗鼠 ( りす )はそこらにうろついている。 「アア、寒い」 虚無僧は、眼をさまして、広い台所の板敷へかしこまった。 夜明け頃、ヘトヘトになって戻って来ると、尺八を持ったまま、ここへ横になって眠ってしまった彼である。 うす汚い 袷 ( あわせ )も 袈裟 ( けさ )も、夜もすがら野を歩いていたために、狐に 魅 ( ば )かされた男のように草の実や露でよごれていた。 きのうの残暑とは比較にならない陽気なので、 風邪 ( かぜ )をひき込んだのであろう、鼻のうえに 皺 ( しわ )をよせ、鼻腔と眉を一緒にして、大きな 嚔 ( くさめ )を一つ放つ。 ありやなしやの薄い どじょう 髭 ( ひげ )の先に、鼻汁がかかった。 恬 ( てん )として、虚無僧はそれを拭こうともしないのである。 「……そうじゃ、ゆうべの濁り酒がまだあったはず」 つぶやいて 起 ( た )ち上がり、そこも狐狸妖怪の 足痕 ( あしあと )だらけな廊下をとおって、奥の炉のある部屋をさがしてゆく。 捜さなければ分らないほど、この空屋敷は昼になってみるとよけいに広いのである。 あるべきところに酒の壺がないのだ。 しかしそれはすぐ炉のそばに横たわっているのを発見したが、同時に、その 空 ( から )の 容器 ( いれもの )とともに、 肱枕 ( ひじまくら )をして、 涎 ( よだれ )をながして眠っている見つけない人間をも見出し、 「誰だろ?」 及び腰に覗き込んだ。 よく眠っている男だった。 撲りつけても眼を 醒 ( さ )ましそうもない 大鼾声 ( おおいびき )をかいているのである。 まだ事件があった。 今朝の朝飯として食べのこしておいた 鍋 ( なべ )の飯が、見れば底をあらわして一粒だにないではないか。 虚無僧は顔いろを変えた。 死活の問題であった。 「やいっ」 蹴とばすと、 「ウ……ウむ……」 又八は、 肱 ( ひじ )を 外 ( はず )してむっくと首をあげかけた。 「やいっ」 つづいて、もう一ツ、眼ざましに 足蹴 ( あしげ )を食らわすと、 「何しやがる」 寝起きの顔に、青すじを立てて、又八はぬっくと起ち上がった。 「おれを、足蹴にしたな、おれを」 「したくらいでは、腹が癒えんわい。 おのれ、誰に断って、ここにある 雑炊飯 ( ぞうすいめし )のあまりと酒を食らったか」 「おぬしのか」 「わしのじゃ!」 「それやあ済まなかった」 「済まなかったで済もうか」 「 謝 ( あやま )る」 「謝るとだけでことは納まらん」 「じゃあ、どうしたらいいんだ」 「かやせ」 「 返 ( かえ )せたって、もう腹の中に入って、おれの今日の 生命 ( いのち )のつなぎになっているものをどうしようもねえ」 「わしとて、生きて行かねばならん者だ。 一日尺八をふいて、人の 門辺 ( かどべ )に立っても、ようよう貰うところは、 一炊 ( ひとかし )ぎの米と 濁酒 ( どぶろく )の一合の 代 ( しろ )が関の山じゃ。 ……そ、それを無断であかの他人のおのれらに食われて 堪 ( たま )ろうか。 かやせ! かやせ!」 餓鬼の声である。 どじょう 髭 ( ひげ )の虚無僧は、飢えている顔に青すじを立て 威猛高 ( いたけだか )に 喚 ( わめ )いた。 飢えた野良猫にひとしい虚無僧の細っこい骨ぐみだった。 叩きつけて、一振りに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、襟がみをつかまれながら、又八の喉輪へつかみかかって来た虚無僧の力には、案外な 粘 ( ねば )りがある。 「こいつ」 と、 力 ( りき )み直したが、相手の足もとは、どうして、 確 ( しっ )かりとしたものだ。 かえって又八が顎をあげて、 「うッ……」 妙な声をしぼりながら、どたどたっと次の部屋まで押し出され、それを食い止めようとする力を利用されて、手際よく、壁へ向って投げ捨てられた。 根太も柱も 腐蝕 ( くさ )っている屋敷である。 一堪りもなく壁土が崩れて、又八は全身に泥をかぶった。 「ペッ……ペッ……」 猛然と 唾 ( つば )して立つと、ものをいわない代りに、凄い血相が刃物を抜いて、跳びかかってきた。 虚無僧も心得たりという応対で、尺八をもって渡りあう。 しかし情けないことにはすぐ 息喘 ( いきぎ )れが出て来て、尖った肩でせいせいいうのだ。 それに反して又八の肉体はなんといっても若かった。 「ざまを見ろッ」 圧倒的に又八は、斬りかけ斬りかけして、彼に息をつく間を与えない。 虚無僧は化けて出そうな顔つきになった。 体の飛躍を欠いてともすると蹴つまずきそうになる。 そのたびに何ともいえない死に際のさけびを放った。 そのくせ八方に逃げ廻って、容易には太刀を浴びないのである。 しかし結果は、その誇りが又八の敗因となった。 虚無僧が猫のように庭へ跳んだので、それを追うつもりで廊下を踏んだ途端に、雨に朽ちていた縁板がみりっと割れた。 片足を床下へ突っこんで、又八が尻もちをついたのを見ると、得たりと 刎 ( は )ね返して来た虚無僧が、 「うぬ、うぬ、うぬっ」 胸ぐらを取って、顔といわず 鬢 ( びん )たといわず、 撲 ( なぐ )りつけた。 脚がきかないので又八はどうにもならなかった。 自分の顔が見るまに四斗樽のように 腫 ( は )れたかと思う。 撲られるたびに 美 ( い )い 音 ( ね )がして、貨幣はそこらに散らかった。 又八もやっと彼の手をのがれて 跳 ( と )び 退 ( の )いた。 自分の 拳 ( こぶし )が痛くなるほど、憤怒を出しきった虚無僧は、肩で息をしながら、あたりにこぼれた金銀に眼を奪われていた。 「やいっ、畜生め」 腫 ( は )れ上がった横顔を抑えながら又八は、声をふるわせてこういった。 「な、なんだっ、鍋底のあまり飯くらいが! 一合ばかしの 濁酒 ( どぶろく )が! こう見えても、金などは腐るほど持っているんだ。 餓鬼め、ガツガツするな。 それほどほしけれやあ、くれてやるから持ってゆけっ。 その代り、今てめえが俺を撲っただけ、こんどは俺が撲るからそう思えっ。 アア、あさましい。 どうしておれはこう馬鹿なのか」 もう又八へ対していっているのではない、ひとりで 悶 ( もだ )え悲しんでいるのだ。 その自省心の烈しいことも、常人とは変っていて、 「この馬鹿、貴さまは一体、 幾歳 ( いくつ )になるのか。 こんなにまで、世の中から落伍して、 落魄 ( おちぶ )れ果てた目をみながら、まだ 醒 ( さ )めないのか、 性 ( しょう )なしめ」 そばの黒い柱へ向って、自分の頭をごつんごつん 打 ( ぶ )つけては泣き、打つけては泣き、 「何のために、 汝 ( おのれ )は尺八をふいているか。 愚痴、邪慾、迷妄、我執、煩悩のすべてを六孔から吐き捨てるためではないか。 しかも息子のような年下の若者と」 ふしぎな男だ。 そういって口惜しげにベソを掻くかと思うと、また、自分の頭を、柱に向って叩きつけ、その頭が二つに割れてしまわないうちは 止 ( や )めそうもないのである。 その自責からする 折檻 ( せっかん )は、又八を撲った数よりも遥かに多い。 又八は 呆 ( あ )っけにとられていたが、青ぶくれになった虚無僧の額から血がにじみ出て来たので、止めずにいられなくなった。 「ま、ま、 止 ( よ )したらどうだ、そんな無茶な真似」 「 措 ( お )いて下され」 「どうしたんだい」 「どうもせぬ」 「病気か」 「病気じゃござらぬ」 「じゃあなんだ」 「この身が 忌々 ( いまいま )しいだけじゃ。 かような肉体は、自分で打ち殺して、 鴉 ( からす )に喰わせてやったほうがましじゃが、この愚鈍のままで殺すのも忌々しい。 せめて人なみに 性 ( しょう )を得てから、野末に捨ててやろうと思うが、自分で自分がどうにもならぬので 焦 ( じ )れるのじゃ。 ……病気といわれれば病気かのう」 又八は、何か急に気の毒になって来て、そこらに落ちている金を拾いあつめて、幾らかを彼の手に握らせながら、 「おれも悪かった、これをやろう。 これで勘弁してくれ」 「いらん」手を引っこめて、 「金など、いらん、いらん」 鍋の残り飯でさえ、あんなに怒った虚無僧が、けがらわしい物でも見るように、強く首を振って、膝まで後へ 退 ( さ )がってゆく。 「変な人だな、おめえは」 「さほどでもござらぬ」 「いや、どうしても、少しおかしいところがあるぜ」 「どうなとしておかれい」 「虚無僧、おぬしには、時々、中国 訛 ( なま )りが 交 ( ま )じるな」 「姫路じゃもの」 「ほ……。 ……吉野郷とはなつかしいぞ。 わしは、日名倉の番所に、目付役をして詰めていたことがあるで、あの辺のことは相当に知っておるが」 「じゃあ、おぬしは、元姫路藩のお侍か」 「そうじゃ、これでも以前は、武家の 端 ( はし )くれ、青木……」 名乗りかけたが、今の自分を 省 ( かえり )みて、人前に身を置いているに耐えなくなったか、 「嘘だ、今のは、嘘じゃよ。 どれ……町へながしに行こうか」 ぷいと立って、野へ歩み去った。 費 ( つか )ってならない金だと思うにつけて気になるのだ。 たんとは悪いが、少しぐらいは、この中から借りて費ったところで罪悪にはなるまいと遂には思う。 「死者の頼みで、その 遺物 ( かたみ )を、郷里へ届けてやるにしても、路銀というものが 要 ( い )る。 当然、その費用は、この内から 費 ( つか )ったとて 関 ( かま )うまい」 又八はそう考えてから、幾分気が軽くなった。 だが、金のほかに死者から預かっている「中条流印可目録」の巻物のうちにある佐々木小次郎とは、一体どこが 生国 ( しょうごく )だろうか。 唯一の頼りは、佐々木小次郎に対して、印可目録を授けている 鐘巻自斎 ( かねまきじさい )という剣術の師匠だ。 その自斎がわかれば、小次郎の素姓もすぐ知れよう。 それについて、又八も伏見から大坂へ下って来る道々、茶店、飯屋、 旅籠 ( はたご )と折のあるごとに、 「鐘巻自斎という剣術のすぐれた人がいるかね」 訊 ( たず )ねてみたが、 「聞いたこともないお人ですなあ」 と、誰もいう。 「富田 勢源 ( せいげん )の流儀をひいている中条流の大家だが」 と、いってみても、 「はてね?」 まったく知る者がないのである。 たしか、関東に出て、晩年は上州のどこか山里にかくれたきり、世間へ出なかったように聞いておる。 富田主水正とは何かと訊くと、秀頼公の兵法師範役のうちの一人で、たしか、越前 宇坂之庄 ( うさかのしょう )の浄教寺村から出た富田入道勢源の一族の者だったと思うがという話。 すこし、あいまいな気もしたが、とにかく大坂へ出るつもりだし、又八は、市街へ入るとすぐ、目抜きの町の 旅籠 ( はたご )へ泊って、そんな侍が御城内にいるか否かを訊いてみると、 「はい、富田勢源様のお孫とかで、秀頼公のお師範ではありませんが、御城内の衆に兵法を教えていたお方はございましたが、それはもう古い話で、数年前に越前の国へお帰りになっております」 これは、宿の者のいうところだった。 町人とはいえ、城内の用勤めもしている家の者のいうことであるから、前の侍のことばよりはよほど真実味のある話だった。 あの方もたしか、中条流の鐘巻自斎という人のところで修行なされて、後に、一刀流という独自な流儀をお 創 ( はじ )めになったのですから」 それも一理ある忠告であった。 だが、その弥五郎一刀斎の居所をさがしてみると、これも近年まで洛外の白河に、一庵をむすんでいたが、近頃はまた、修行に出たのか、 杳 ( よう )としてその影を京大坂の附近では見かけたことがないと誰もいう。 「ええ、面倒くせえ」 又八は、 匙 ( さじ )を投げた。 眠っていた野心的な若さを、又八は、大坂へ来てからたたき起された。 ここではさかんに、人物を需要しているのだった。 伏見城では、新政策や武家制度を組んでいるが、この大坂城では、人材を 糾合 ( きゅうごう )して、牢人軍を組織しているらしかった。 もとよりそれは、公然とではないが。 長曾我部盛親などは、町端れのつまらない小路に借家して、若いのに頭をまるめ、一夢斎と名をかえて、 (浮世のことなど、わしゃ知らんよ) といった顔つきして、風雅と遊里の両方に身をやつして暮しているが、その手から、いざという場合には、猛然と起って、 (太閤御恩顧のため) という旗じるしの 下 ( もと )に集まろうという牢人が、七百や八百は飼ってあって、その生活費も、秀頼のお手元金から出ているのだということも聞いた。 又八は、 二月 ( ふたつき )ほど、大坂を見聞しているうちに、 (ここだ。 出世のつるをつかむ土地は) と、まず興奮を抱いた。 空脛 ( からすね )に、槍一本かつぎ出して、宮本村の 武蔵 ( たけぞう )と、関ヶ原の空をのぞんで飛び出した時のような壮志が、久しぶりに、近頃、健康になった彼の体にも、 甦 ( よみがえ )って来たらしいのである。 ふところの金は、ぼつぼつ減ってゆくが、何かしら、 (おれにも運が向いてきた) という自覚がして来て、毎日が明るくて、愉快だった。 石に蹴つまずいても、そんな 足下 ( あしもと )から、不意にいい運の芽が見つかりそうな気がするのである。 (まず、 身装 ( みなり )だ) 彼はいい大小を買って差した。 もう寒さにかかる晩秋なので、それにうつりのよい小袖と羽織も買った。 旅籠 ( はたご )は、不経済と考えて、順慶堀に近い馬具師の家の離れを借り、食事は外でし、見たいものを見、家へは帰ったり帰らなかったり、好みどおりな生活をしている間に、よい知己を得、手づるを見つけ、 扶持 ( ふち )の口にありつこうと心がけていた。 この程度に、生活を 持 ( じ )していることは、彼としては、かなり自戒を保って、生れ変ったほど、身を修めているつもりなのである。 (あれへ大槍を立たせ、乗換え馬を 牽 ( ひ )かせ、供の侍を、二十人も連れて通りなさる。 「旦那がたあ、お若いし、腕もおできなさるじゃろうし、御城内の衆へ頼んでおけば、すぐお抱えの口はありましょうで」 ありそうな 口吻 ( くちぶり )で、そこの馬具師も安うけあいしたが、 就職 ( くち )はなかなかかかって来ない。 繁華な町なかの空地の草にも、朝々霜が真っ白におりる。 その霜が消えて、道のぬかるむ頃から、 銅鑼 ( どら )だの、太鼓だのが、そこでは鳴り出す。 師走 ( しわす )の 忙 ( せわ )しない人々が、案外のん気な顔して、冬日の下にいっぱいに群れていた。 いとも粗雑な矢来を囲って、外からは見えないようにそれへ 筵 ( むしろ )を張り廻してある人寄せの見世物が、六、七ヵ所に紙旗や毛槍を立て、その 閑人 ( ひまじん )の群れへ呼びかけて、客を奪い合う様はなかなか真剣な生活戦だった。 安醤油のにおいが人混みのあいだを這う。 串 ( くし )にさした煮物をくわえて、馬みたいにいなないている 毛脛 ( けずね )の男たちがあるし、夜は、白粉を塗りこくって袖をひく女たちが、解放された牝羊みたいに、ぼりぼり豆を食べながら繋がって歩いてゆく。 野天へ腰かけを出して、酒を汲んで売っている所では、今、一組の撲りあいがあって、どっちが勝ったのか負けたのか、後へ血をこぼしたまま、その喧嘩のつむじ風は、わらわらと町の方へ駈け去ってしまった。 「ありがとうございました。 だんな様が、ここにござったで、 器物 ( うつわ )は壊されずにすみましただ」 酒売りは、何度も、又八の前へきて、礼をくり返した。 その礼ごころが、 「こんどのお 燗 ( かん )は、あんばいよくついたつもりで」 頼まない 肴物 ( さかなもの )まで添えてくる。 又八は悪い気持でなかった。 町人どうしの喧嘩なので、もしこの貧しい露店の物売りに損害をかけたら取ッちめてやろうと睨みつけていたが、何の事もなくすんで、露店のおやじのためにも、自分のためにも、同慶であったと思う。 「おやじ、よく人が出るな」 「師走なので、人は出ても、人足は止まりませぬでなあ」 「天気がつづくからいい」 鳶 ( とび )が一羽、人混みの中から、何か 咥 ( くわ )えて高く上がってゆく。 そして自ら、 (まあいい、人間、酒ぐらい飲まねえでは) と、慰めたり、理由づけたりして、 「おやじ、もう一杯」 と、うしろへいった。 それと一緒に、ずっとそばの 床几 ( しょうぎ )へ来て、腰かけた男がある。 牢人だなとすぐ見てとれる恰好だった。 大小だけは人をして避けしめるほど威嚇的な 長刀 ( ながもの )であるが、 襟垢 ( えりあか )のついた 袷 ( あわせ )に上へ 一重 ( ひとえ )の胴無しも羽織っていない。 「オイオイ亭主、おれにも早いところ一合、熱くだぞ」 腰かけへ、片あぐらを乗せて、じろりと又八のほうを見た。 足もとから見上げて、顔のところまで眼がくると、 「やあ」 と、何の事もなく笑う。 又八も、 「やあ」 と、同じことをいって、 「 燗 ( かん )のつく間、どうですか一 献 ( こん )。 磊落 ( らいらく )で、豪傑肌らしいと、又八はその飲み振りを見ていた。 よく飲む。 又八がそれから一合もやるうちに、この男はもう五合を越えて、まだ 慥 ( しっ )かりしたものだった。 「どのくらい?」 と訊くと、 「ちょっと一升、落ちついてなら、まあ、量がいえぬ」 と、いう。 時局を談じると、この男は、肩の肉をもりあげた。 「家康がなんだ。 秀頼公をさしおいて、大御所などと、ばからしい。 あのおやじから本多 正純 ( まさずみ )や、 帷幕 ( いばく )の旧臣をひいたら、何が残る。 石田三成には勝たせたかったが、惜しいかな、あの男、諸侯を操縦すべく、あまりに潔癖で、また身分が足らなかった」 そんなことをいうかと思うと、 「貴公、たとえば、今にも関東、上方の手切れとなった場合は、どの手につく」 と、訊く。 又八が、ためらいなく、 「大坂方へ」 と答えると、 「ようっ」とばかり、杯を持って 床几 ( しょうぎ )から立ち上がり、 「わが党の士か、あらためて一 盞 ( さん ) 献 ( けん )じ申そう。 して、貴君はいずれの藩士」 といって、 「いや、ゆるされい。 まず自身から名乗る。 それがしは、 蒲生 ( がもう )浪人の 赤壁八十馬 ( あかかべやそま )、という者。 ごぞんじないか、 塙団右衛門 ( ばんだんえもん )、あれとは、 刎頸 ( ふんけい )の友で、共に他日を期している仲。 また今、大坂城での 錚々 ( そうそう )たる一方の将、 薄田隼人兼相 ( すすきだはやとかねすけ )とは、あの男が、漂泊時代に、共に、諸国をあるいたこともある。 大野 修理亮 ( しゅりのすけ )とも、三、四度会ったことがあるが、あれはすこし陰性でいかん。 兼相よりは、ずっと勢力はあるが」 喋りすぎたのを気がついたように、後へもどって、 「ところで、貴公は」 と、訊き直す。 又八は、この男の話を、全部がほんととは信じなかったが、それでも、何か圧倒されたような 怯 ( ひ )け 目 ( め )を感じ、自分も、 法螺 ( ほら )をふき返してやろうと思った。 「越前宇坂之庄浄教寺村の、富田流の開祖、富田入道 勢源 ( せいげん )先生をごぞんじか」 「名だけは聞いておる」 「その道統をうけ、中条流の一流をひらかれた無慾無私の大隠、鐘巻自斎といわるる人は、私の恩師でござる」 男は、そう聞いても、かくべつ驚きもしないのだ。 杯を向けて、 「じゃあ、貴公は、剣術を」 「左様」 又八は、嘘がすらすら出るのが愉快だった。 大胆に嘘をいうと、よけいに酔いが顔に咲いて、酒のさかなになる気がするのである。 やはり鍛えた体はちがうとみえ、どこか出来ているな、……して、鐘巻自斎の御門下で、何と仰せられるか。 さしつかえなくば、ご姓名を」 「佐々木小次郎という者で、伊藤弥五郎一刀斎は、私の兄弟子です」 「えっ」 と、相手の男が驚いたらしい声を発したので、又八のほうこそびっくりしてしまった。 あわてて、 (それは 冗戯 ( じょうだん )) と、取消そうと思ったが、赤壁 八十馬 ( やそま )は、とたんに地へ膝をついて頭を下げているので、今さらもう冗戯ともいえなかった。 「お見それ申して」 と、八十馬は何度もあやまる。 「佐々木小次郎殿といえば、とくより耳にしておるその道の達人。 知らないというものは、他愛のないもので、先刻からの失礼は、 平 ( ひら )に」 又八は、ほっとした。 そう改まられては、私こそ、ご挨拶のしようがない」 「いや、先ほどから、広言のみ吐いてさぞお聞き苦しかったことで」 「なに、私こそ、まだ仕官もせず、世間も知らぬ若輩者で」 「でも、剣においては。 ……そうだ、やはり佐々木小次郎」 つぶやいて、八十馬は、酔うと目やにの出る 性 ( しょう )らしい眼を、どろんと据え、 「その上で、まだご仕官もなさらぬのか、惜しいものだ」 「ただ剣一方に、すべてを打ち込んで来たので、世間にはとんと何の知己もないために」 「や、なるほど。 いずれは、主人を持たねばならぬと考えていますが」 「ならば、造作もないこと。 もっとも実力があっても、黙っていては容易に見出されるはずはない。 こうお目にかかっても、それがしですら、尊名を聞いて初めて驚いたようなもので」 と、さかんに 焚 ( た )きつけて、 「お世話しよう」 と、いい出した。 「実はそれがしも、友人の 薄田兼相 ( すすきだかねすけ )に身の振り方を依頼してあるところ。 大坂城では、禄を問わず、抱え入れようとしている折だし、貴公のような人物を推挙すれば、薄田 氏 ( うじ )も、すぐ買おう。 おまかせ下さるまいか」 どうやら赤壁 八十馬 ( やそま )は乗り気になっているらしい。 又八は、その 就職 ( くち )へありつきたいことは山々だが、佐々木小次郎であると他人の名を借用してしまったことが、どうもまずい。 引っこみのつかない不出来だ。 かりに 美作 ( みまさか )の郷士本位田又八と名乗って実際の履歴を話したら、この男も乗り気にはなるまい。 鼻さきで軽蔑を与えられるぐらいなところが落ちである。 やはり佐々木小次郎の名がものをいったのだ。 何もそう心配したほどのものじゃないと思う。 なぜならば、佐々木小次郎なる者はもう死んでいる人間だ。 伏見城の工事場で打ち殺されてしまった人物ではないか。 死者の所持していた唯一の戸籍証明である「印可目録」は自分が彼の 臨終 ( いまわ )の一言によって預かって来ているので、後で、調べのつこうわけはない。 また一箇の乱暴人として、打殺した死者に対して、そんな面倒な調べをいつまでもやっているはずもない。 (分りっこはない!) 又八の頭に大胆な、 狡 ( ずる )い考えがそう閃めいた。 勃然 ( ぼつぜん )として、彼は、死んだ佐々木小次郎になり切ってやろうと 臍 ( ほぞ )を決めた。 「おやじ、勘定」 金入れから金を出して、そこを起ちかけると、赤壁八十馬はあわてて、 「今の話は?」 と、一緒に立った。 「ぜひ、ご尽力をねがいたいが、この路傍では、十分な話もできぬ。 どこか座敷のあるところへでも行って」 「ああそうか」 と、八十馬は満足そうにうなずいて、自分の飲んだ代まで、又八が払っているのを、当り前のような顔して眺めていた。 怪しげな 白粉 ( おしろい )の裏町である。 又八としては、もっと高等な酒楼へ案内するつもりだったが、赤壁八十馬が、 「そんなところへ揚がって、つまらぬ金を 費 ( つか )うよりは、もっとおもしろい土地がある」 といって、頻りに裏町遊びを謳歌するので、ともかく引っ張られて来てみると、まんざら又八の肌に合わない情調ではない。 比丘尼横丁 ( びくによこちょう )というのだそうである。 大袈裟 ( おおげさ )にいえば長屋千軒がみな売笑婦の家で、一夜に百石の油を燈心にともすともいえるほどな繁昌さである。 すぐ近くに、 汐 ( しお )のさす黒い堀が通っているので、出格子だの、紅燈の下だのには、よく見ると、船虫や 河蟹 ( かわがに )がぞろぞろ這っていて、それが 生命取 ( いのちと )りの さそりという妖虫のようにうすきみ悪いが、無数の白粉の女の中には 眉目美 ( みめよ )いのも稀にあって、中には、もう四十にちかい容貌に、 鉄漿 ( かね )を黒々つけ、 比丘尼頭巾 ( びくにずきん )にくるまって、夜寒を 喞 ( かこ )ち顔でいるなど、なかなかもののあわれも 蕩児 ( とうじ )の心をそそるのであった。 「いるな」 又八が、ため息つくと、 「いるだろう、へたな茶屋女や歌妓などより、遥かにましだ。 「室町将軍の奥につかえていたという 比丘尼 ( びくに )があるし、父は武田の臣だったの、松永久秀の縁類の者だのという女が、この中にはずいぶんある。 泊ったことはもちろんである。 昼間になっても、飽いたといわない八十馬だった、お甲の「よもぎの寮」では、いつも日蔭者でいた又八も、多年の鬱憤をここに晴らしたか、 「もう、もう。 酒はいやだ」 と遂にかぶとを脱いで、 「帰ろう」 いい出すと、 「晩までつきあい給え」 と、八十馬はうごかない。 「晩までつきあったらどうするんだ」 「今夜、 薄田兼相 ( すすきだかねすけ )のやしきへ行って兼相と会う約束がしてあるんだ。 今から出ても 時刻 ( とき )が半端だし……。 それに、そうだ、貴公の望みももっとよく聞いて置かなければ、先へ行って話もできない」 「 禄 ( ろく )など、初めからそう望んでも無理だろう」 「いかん、自分からそんな安目を売ってはいかん。 とにかく中条流の印可を持って、佐々木小次郎ともいわれる侍が、禄はいくらでもいいから、ただ仕官がしたいなどといったら、かえって先から 蔑 ( さげす )まれるぞ。 大坂城の巨大な影が夕空をおおっているからである。 「あれが、 薄田 ( すすきだ )の邸だぞ」 濠 ( ほり )の水に背を向けて、二人は寒そうに 佇 ( たたず )んだ。 昼間から 注 ( つ )ぎこんでいた酒も、この濠端に立つとひとたまりもなく吹き飛んで、鼻の先に 水洟 ( みずばな )が凍りつく。 「あの腕木門か」 「いや、その隣の角屋敷」 「ふム……宏壮なものだな」 「出世したものさ。 三十歳前後の頃には、まだ、薄田 兼相 ( かねすけ )などといっても、世間で知っている奴はなかった、それがいつのまにか……」 赤壁八十馬のことばを、又八はそら耳で聞いていた。 疑っているのではない、もう彼のことばの端など注意してみる必要を感じないほど信頼し切っていたのだった。 「そう、そう」 又八は 懐中 ( ふところ )から、 革巾着 ( かわぎんちゃく )を取り出した。 少しくらいは、と思いながらいつのまにかこの革巾着の金も三分の一になっていた。 その残りの底をはたいて、 「ざっと、これだけあるが、これくらいなおくりものでいいのか」 「いいとも、十分だ」 「何かに包んでゆかなければいけまいが」 「なあに、仕官の 取做 ( とりな )しを頼む時の、 御推挙料 ( ごすいきょりょう )だの、御献金だのというやつは、薄田ばかりじゃない、公然と誰でも取っていることだから、何も 憚 ( はばか )って差し出す必要はすこしもないのだ。 先で、渋った顔をしていたら、金をやらずに持って帰るだけのことじゃないか。 肩を振って、堂々と通ってゆく態度を見とどけて、 (あれなら、なるほど、薄田兼相とは、貧困時代からの旧友だろう) 又八は、安心に似た気もちを抱いて、その晩は、さまざまな夢に 耽 ( ふけ )り、あくる日を待ちかねて、定めの時刻に、人寄せ場の空地へ、霜解けをふんで行った。 きょうも師走の風が寒かったが、冬日の下にはたくさん集まっていた。 どうしたのか、赤壁八十馬は、その日、姿を見せなかった。 次の日。 「何かの都合だろう」 又八は、こう善意に解釈して、れいの野天の酒売りの 床几 ( しょうぎ )で、 「きょうは」 と、正直に空地の人混みを見廻していたが、その日も遂に八十馬の姿を見ずに暮れてしまった。 少し、 てれて、 「おやじ、また来たぞ」 三日目である。 わしから依頼して、薄田殿へわたす口入れ金を預けておいたのだが、その返辞がはやく知りたいので、毎日待っているわけだが」 「おやおや、おまえ様は」 おやじは、気の毒そうに、又八の顔をながめて、 「百年待っていても、あの男が来るはずはありませぬ」 「げっ。 よほど、気をつけてあげようかと思ったが、あとの 祟 ( たた )りが恐いし、おまえ様も、あの風態を見れば、気がつくだろうと思っていたのに、金を抜かれてしまうなんて……。 これやお話にならんわい」 気の毒を通り越して、又八の無智をむしろ 愍 ( あわ )れむような 口吻 ( くちぶり )なのである。 だが又八は、恥を掻いたとは思わない。 突然の損失と希望から抛り出された 傷手 ( いたで )に、身がふるえ、血が 憤 ( いきどお )って、茫然と、空地の人群れを見つめていた。 「むだとは思うが、念のため 幻術 ( めくらまし )の囲いへ行って訊いてみなさるがよい。 あそこではよく、ガチャ蠅が集まって、銭の 賭事 ( かけごと )をしておりますで、そういう金をつかめば、ことによると、 賭場 ( あそびば )へ顔を出しているかもわかりませぬ」 「そ、そうか」 又八は、あわてて床几を起ち、 「その 幻術 ( めくらまし )の人寄せというのは、どこの囲いか」 老爺 ( おやじ )の指さすほうを見ると、この空地のうちでは最も大きな矢来が一つ見える。 幻術者 ( げんじゅつしゃ )の群れが興行しているのだという。 見物は、木戸口に 蝟集 ( いしゅう )していた。 又八が近づいて行ってみると、 「ちょちょんがちょっ 平 ( ぺい )」 だとか、 「 変兵童子 ( へんぴょうどうじ )」 とか、 「 果心居士之 ( かしんこじの )一 弟子 ( でし )」 とかいう有名な幻術師の名が、木戸口の旗に記してあって、幕と 筵 ( むしろ )でかこんであるその広い矢来のうちでは、怪しげな音楽に 交 ( ま )じって、術者の掛声と、見物の拍手が湧いていた。 裏へ廻ると見物の出入りしないべつな口があった。 又八が、そこを覗くと、 「 賭場 ( とば )へゆくのか」 と、立番の男がいう。 うなずくと、よしというような顔をしたので、彼は入って行った。 幕の中では、青天井をいただいて、二十人ばかりの浮浪人が、車座になって、 博戯 ( ばくち )をしている。 又八が立つと、じろっと、すべての白い眼が彼を見上げた。 一人がだまって、彼の前に席を開けたので、あわてて、 「この中に、赤壁八十馬って男はいないか」 訊くと、 「赤馬か。 そういえば赤馬の奴、ちっとも出て来ねえが、どうしたんだろう」 「ここへ来ましょうか」 「そんなこと、わかるもんか。 まあ、入りねえ」 「いや、おれは 博戯事 ( あそびごと )に来たんじゃない。 その男を捜しに来たのだ」 「おい、ふざけるなよ、 博戯 ( ばくち )もせずに、賭場へ何しに来やがったんだ」 「すみません」 「向う 脛 ( ずね )を掻っ払うぞ」 「すみません」 ほうほうのていで出て来ると、追いかけて来たガチャ 蠅 ( ばえ )の一人が、 「野郎待て。 ここは、すみませんで済む場所たあ違う。 ふてえ奴だ。 博戯 ( ばくち )をしなけれやあ、場代をおいてゆけ」 「金などない」 「金もねえくせに、賭場のぞきをしやがって、さては、隙があったら、銭を 攫 ( さら )って行こうという量見だったにちげえねえ、この 盗 ( ぬす )っ 人 ( と )め」 「なんだと」 又八が、くわっとして刀の 柄 ( つか )を示すと、これは面白いと、相手は敢て喧嘩を買ってくる腰だった。 「べら棒め、そんな 脅 ( おど )しに、いちいちびくついていちゃ、この大坂表で、生きちゃあいられねえんだ。 さ、斬るなら斬ってみろ」 「き! 斬るぞ」 「斬れっ、何も、断るにゃ及ばねえや」 「おれを知らんか」 「知ってるもんか」 「越前宇坂之庄、浄教寺村の流祖、富田五郎左衛門が歿後の門人佐々木小次郎とはわしのことだ」 そういったら逃げるだろうと思いのほか、相手は、ふき出して、又八のほうへ尻を向け、矢来のうちのガチャ 蠅 ( ばえ )を呼び立てた。 「やい、みんな来い、こいつ何とか今、オツな名乗りをあげやがったぜ。 おれたちを相手に抜く気らしい。 ひとつお 腕 ( て )のうちを見物としようじゃねえか」 いい終ると、きゃッと、その男は尻を斬られて跳び上がった。 又八が、不意に抜き打ちをくれたのである。 「畜生っ」 という声。 それから、わっと大勢の声がうしろに聞えた。 又八は血刀をさげて人混みの中へまぎれ込んだ。 なるべく人間の多いところへと又八は姿をかくして歩いていたが、危険を感じるほど、どの人間の顔もガチャ蠅に見え、とてもうろついておられなくなった。 銭を 抛 ( ほう )って、又八は中へとびこんだ。 そして、いささかほっとしながらどこに虎がいるのかと見廻してみると、正面に戸板を二、三枚並べ、それへ洗濯物でも貼りつけてあるように、一枚の虎の皮が貼りつけてあった。 死んだ虎を見せられても、見物は、神妙に眺め入って、これは生きていないじゃないかと、腹を立てる者はなかった。 「これが虎かいな」 「大きなものやなあ」 感心して、入口から出口の木戸へ入れ代ってゆく。 又八は、なるべく 刻 ( とき )を過ごそうと考えていつまでも虎の皮の前に立っていた。 この虎は、死んでいるのじゃろうが」 と、婆のほうがいう。 爺侍 ( じじざむらい )は、竹の仕切り越しに手をのばして、虎の毛に触れながら、 「元より、皮じゃもの、死んでおるわさ」 「木戸で呼ばわっている男は、さも生きているようにいうたがの」 「これも、 幻術 ( めくらまし )の一つじゃろて」 爺侍は苦笑していたが、婆のほうは、 忌々 ( いまいま )しげに、 萎 ( しぼ )んでいる唇を振り向けて、 「やくたいもない、幻術なら幻術と看板にあげておいたがよい。 死んだ虎を見るくらいなら絵を見るわさ。 木戸へ 去 ( い )んで、銭をかやせというて来う」 「婆、婆。 権叔父と呼ばれた爺侍が、 「やっ、又八っ」 と、呶鳴った。 お杉隠居は、眼がわるいので、 「な、なんじゃ、権叔父」 「見えなんだかよ、婆のすぐうしろに、又八めが立っておったぞ」 「げっ、ほんまか」 「逃げたっ」 「どっちゃへ?」 二人は、木戸の外へ転び出した。 もう空地の 雑沓 ( ざっとう )は暮色につつまれていた。 又八は、幾たびも人にぶつかった。 そのたびに、くるくる 舞 ( まい )して、後も見ずに、町中のほうへ逃げてゆく。 「待て、待て、 伜 ( せがれ )っ」 振りかえってみると、母親のお杉は、まるで狂気のようになって追って来るのだった。 権叔父も、手をふりあげ、 「馬鹿ようっ、なんで逃げるぞい。 暖簾棒 ( のれんぼう )だの竹竿を持って、町の者は、先へゆく又八を 蝙蝠 ( こうもり )を打つようにたたき伏せた。 往来の者も、わいわいと取りかこんで、 「捕まえた」 「ふてえ奴だ」 「どやせ」 「たたっ殺してやれ」 足が出る、手が出る、 唾 ( つば )を吐きかける。 後から息を 喘 ( き )って、権叔父とともに追いついて来たお杉隠居はそのていを見ると、群衆を突きとばし、小脇差のつかに手をかけて歯を 剥 ( む )いた。 「ええ、むごいことを、おぬしら何しやるのじゃ、この者へ」 弥次馬は、理を 弁 ( わきま )えずに、 「婆どの。 こいつは、泥棒だよ」 「泥棒ではない、わしが子じゃわ」 「え、おまえの子か」 「おおさ、ようも足蹴にしやったな。 町人の分際で、侍の子を足蹴にしやったな。 婆が相手にしてくりょう、もいちど、今の無礼をしてみやい」 「 冗戯 ( じょうだん )じゃない。 じゃあ先刻泥棒泥棒と呶鳴ったのは誰だ」 「呶鳴ったのは、この婆じゃが、おぬしら風情に足蹴にしてくれと頼みはせぬ。 泥棒とよんだら伜めが、足を止めようかと思うていうた親心じゃわ。 それも知らいで、撲ったり蹴ったりは何事じゃ、このあわて者めが!」 町中の森である。 おぼろに常夜燈がまたたいていた。 「こう来やい」 お杉隠居は、又八の 襟 ( えり )がみを 抓 ( つま )んで、往来からそこの境内まで引きずって来た。 婆の 権 ( けん )まくに驚いたとみえ、弥次馬はもう 尾 ( つ )いて来ない。 殿 ( しんがり )として、鳥居の下で見張っていた権叔父も、やがて後から来て、 「婆、もう 折檻 ( せっかん )はせぬものだぞ。 又八とて、もう子どもではなし」 母子 ( おやこ )の手と襟がみを、もぎ離そうとすると、 「何をいうぞい」 隠居は、権叔父を、 肱 ( ひじ )で突き 退 ( の )けて、 「わしが子を、わしが折檻するに差し出口など、要らぬお世話、おぬしは黙っていやい。 老人になれば誰も単純で気短かになるという。 今の場合の複雑な感情は余りにも 枯渇 ( こかつ )した血には強烈すぎたのであろう。 泣いているのか、怒っているのか、狂喜の変態なあらわれか。 「親のすがたを見て、逃げ出すとはなんの芸じゃ。 汝 ( われ )は、木の股から生れくさったか、わしが子ではなかったかよ。 なんで 故郷 ( くに )へもどって来て、ご先祖様のまつりをせぬか、この母にちょっとでも、顔見せぬか。 かんべんしてくれ、かんべんしてくれ」 又八は、 嬰児 ( あかご )みたいに、母の手の下からさけんだ。 「悪いことは知っている。 知っていればこそ、帰れなかったんだ。 今日も、余り不意だったのでびっくりして、逃げる気もなく、おらあ駈け出してしまった。 ……面目ない、面目ない! おふくろにも叔父御にも、おらあただ面目ないんで」 と、両手で顔をおおった。 それを見ると、婆も目鼻に 皺 ( しわ )をあつめて、すすり泣いた。 しかし気丈な老婆は、自分が 脆 ( もろ )くなるのをすぐ自分の心で叱咤しながら、 「ご先祖の恥さらし、面目ないというからには、どうせ 碌 ( ろく )なことをしていくさったのではあるまいが」 権叔父は、見るに見かねて、 「もうよかろう、婆、そう打擲しては、かえって又八を 拗 ( ねじ )け者にするぞよ」 「また差し出口かよ、おぬしは男のくせに甘うていかぬ。 又八には 父親 ( てておや )がないゆえ、この婆は母であるとともに、厳しい父親でもなければならぬのじゃ。 それゆえわしは折檻をしまする。 ……まだまだこんなことで足ろうかいの。 又八ッそれへ直りゃい」 自分も大地へ 畏 ( かしこ )まって坐りこみ、子へも、大地を指さしていった。 「はい」 又八は、土にまみれた肩を起して、 悄然 ( しょうぜん )と坐り直した。 この母親は怖かった。 世間の母親なみ以上の甘さもあったが、すぐご先祖様を持ち出すので、又八は頭があがらないのであった。 「つつみ隠しをするときかぬぞよ。 関ヶ原の 戦 ( いくさ )へ出て、おぬし、あれ以来、何していやった。 婆の得心がまいるまで、つぶさに話しゃれ」 「……話します」 隠す気は起らない。 「ふウむ……」 と、権叔父が 呻 ( うめ )くと、 「あきれた子よの」 と、隠居も舌を鳴らし、 「そして今では、何していやるか。 そういう 生活 ( たつき )を過ごしながらも、剣術に精出していやったとは、さすがにわしが子。 ……のう叔父御よ。 やはり婆が子じゃの」 この辺で機嫌を直させてしまいたいものだと権叔父は、大きく何度もうなずいて、 「それやあ、ご先祖の血は、どこかにあろうわさ。 「どれ、どれ」 手を出したが、渡さずに、 「安心してござれ、おふくろ」 「なるほど」 隠居は、首を振って、 「見たか、権叔父、大したものじゃわ。 小さい頃から、あの 武蔵 ( たけぞう )などより、ぐんと賢く、腕も出来ていただけのことはある」 と、 涎 ( よだれ )を垂らさないばかりに満足をあらわしたが、ふと、それを巻きかけた又八の手がすべって、終りの一行が眼にうつると、 「これ待て、ここに佐々木小次郎とあるのはなんじゃ」 「あ……これですか……これは 仮名 ( かめい )です」 「仮名? 何で仮名などつかいなさる、本位田又八と、立派な名のあるものを」 「でも 省 ( かえり )みて、自分に恥のある 生活 ( くらし )をしていたので、先祖の名を汚すまいと」 「オオそうか。 その性根たのもしい。 じっと首を垂れたまま、又八は老母の烈々と吐くことばに打たれていた。 こうしている間は、彼も善良で神妙な息子だった。 けれど、隠居がいおうとする重点は、もっぱら家名の面目とか、侍の意気とかにあったが、この息子の感情を強く打った点は、そこになくて、 (お通がこころ変りした) と、いう初耳の話だった。 「おふくろ、それは 真実 ( まったく )か」 彼の顔いろを知ると、隠居は、自分の 鞭撻 ( べんたつ )が、彼を奮起させたものと思いこみ、 「嘘と思うなら、叔父御にもただしてみやれ、お通 阿女 ( あま )はおぬしを見かぎって、 武蔵 ( たけぞう )の後を追って 去 ( い )んだわさ。 のう権叔父」 「そうじゃ、七宝寺の千年杉へ、沢庵坊主のため、 縛 ( くく )りつけられたのを、あのお通の手をかりて逃げ失せた 男女 ( ふたり )のことゆえ、どうせ 碌 ( ろく )な仲じゃあるまいての」 こう聞いては又八も、鬼とならずにいられなかった。 この婆や権叔父が、 故郷 ( くに )を出て、こうして諸国をあるいている意気地が。 ……よく」 「おぬしにも、それではのめのめと、故郷の土は踏めまいが」 「帰りません、もう、帰りません」 「討ってたも、 怨敵 ( おんてき )を」 「ええ」 「気のない返辞をするものかな、おぬしには 武蔵 ( たけぞう )を討つ力がないと思うてか」 「そんなことはありません」 権叔父も、そばから、 「案じるな又八、わしもついているのじゃが」 「この婆とても」 「お通と武蔵、二つの首を、晴れて故郷への土産に引っさげて戻ろうぞ。 のう又八、そうしておぬしにはよい嫁女をさがし、あっぱれ本位田家の跡目をついで貰わにゃならん。 そうした上は、武士の面目も立つ、 近郷 ( きんごう )への評判もようなる、まず、 吉野郷 ( よしのごう )で 負 ( ひ )け 目 ( め )をとる 家統 ( いえすじ )は 他 ( ほか )にはあるまいてな」 「さあ、その気になってたも。 なるかよ又八」 「はい」 「よい子じゃ、叔父御、 賞 ( ほ )めておくりゃれ。 きっと武蔵とお通を討つと誓うた。 ……」 と隠居はやっと気がすんだらしく、先刻から 怺 ( こら )えていた氷のような大地から身を動かしかけたが、 「ア…… 痛々々 ( たたた )」 「婆、どうしやった」 「冷えてかいの、腰が急に吊ってこう下腹へさしこんで来ましたわい」 「これやいかぬ、また持病を起してか」 又八は、背を向けて、 「おふくろ、すがりなされ」 「何、わしを負うてくれる。 ……負うてくれるか」 と、子の肩に抱きついて、 「何年ぶりぞいの、叔父御よ、又八がわが身を負うてくれたわいな」 と、 欣 ( うれ )し泣きに泣くのであった。 ほかに禁制の煙草も船底にかくしているらしい。 元より秘密だが、においで知れる。 月に何度か、 阿波 ( あわ )の国から大坂へ通う便船で、そうした貨物とともに便乗している客には、この年の暮を、大坂へ商用に出るか、戻るかする 商人 ( あきんど )が八、九分で、 「どうです、 儲 ( もう )かるでしょう」 「儲かりませんよ、 堺 ( さかい )はひどく景気がいいというが」 「鉄砲 鍛冶 ( かじ )など、職人が足らなくて弱っているそうですな」 べつの商人が、また、 「てまえは、その 戦道具 ( いくさどうぐ )の、 旗差物 ( はたさしもの )とか、 具足 ( ぐそく )など納めていますが、昔ほど儲かりませんて」 「そうかなあ」 「お侍方がそろばんに明るくなって」 「ハハア」 「むかしは、野武士がかついで来る 掠 ( かす )め 物 ( もの )を、すぐ染めかえ、塗りかえして、御陣場へ納める。 するとまた、次の戦があって、野武士がそいつを集めてくる。 また 新物 ( あらもの )にするといったふうに、 盥廻 ( たらいまわ )しがきいたり、金銀のお支払いなどもおよそ目分量みたいなものでしたがね」 そういう話ばかりが多い。 中には、 「もう内地では、うまい儲けはありっこない。 呂宋 ( るそん )助左衛門とか、茶屋助次郎といった人のように、 乗 ( の )るか 反 ( そ )るかで海の外へ出かけなければ」 と、海洋をながめて、彼方の国の富を説いている者があるし、或る者はまた、 「それでも、何のかのといっても、わしら町人は、侍から見れば遥かに割がよく生きていますよ。 いったい侍衆なんて、食い物の味ひとつ分るじゃなし、大名の贅沢といったところが、町人から見ればお甘いもので、いざといえば、鉄と 革 ( かわ )を 鎧 ( よろ )って、死にに行かなければならないし、ふだんは面目とか武士道とかにしばられて、好きな真似はできないし、気の毒みたいなものでございますよ」 「すると、景気がわるいの何のといっても、やはり町人にかぎりますかな」 「かぎりますとも、気ままでね」 「頭さえ下げていればすみますからな。 舶載 ( はくさい )の 毛氈 ( もうせん )をひろく敷きこんで、一階級を示しているのだ。 のぞいてみると、なるほど、桃山の 豪奢 ( ごうしゃ )は今、太閤が亡き後は、武家になくて、町人の中へ移っているかと思われる。 酒器のぜいたくさ、旅具旅装の 絢爛 ( けんらん )なること、持物の 凝 ( こ )っていること、ケチな一商人でも、侍の千石取などは及びもない。 「ちと、飽きましたな」 「退屈しのぎに、始めましょうか」 「やりましょう。 そこの 幕 ( とばり )をひとつ懸け廻して」 と、小袖幕のうちにかくれると、彼らは、 妾 ( めかけ )や手代に酒をつがせて、南蛮船が近ごろ日本へ 齎 ( もたら )した「うんすん 骨牌 ( かるた )」というものを始める。 そこで儲けている一つかみの黄金があれば、一村の 飢餓 ( きが )が救われるであろうほどの物を、まるで、 冗戯 ( じょうだん )みたいに、遣り取りしていた。 こういう階級の中に、ほんの一割ほどだが、乗り合わしている山伏とか、牢人者とか、儒者とか、坊主とか、武芸者などという者は、彼らからいわせるといわゆる、 (いったいなんのために生きているんだ) と 借問 ( しゃくもん )される部類のほうで、みんな 荷梱 ( にごうり )の蔭に、ぽつねんと味気ない顔して、冬の海をながめているのだった。 それらのあじきない顔つきの組の中に、一人の少年が 交 ( ま )じっていた。 「これ、じっとしておれ」 荷梱に 倚 ( よ )り懸って、冬日の海に向いながら、膝の上に何やら丸っこい毛だらけな物を抱いている。 可愛い小猿を」 と、そばの者がさしのぞいて、 「よく馴れてござるの」 「は」 「永くお飼いになっているのであろうな」 「いえ、ついこのごろ、土佐から阿波へ越えてくる山の中で」 「捕まえられたのか」 「その代り、親猿の群れに追いかけられて、ひどい目にあいました」 話を交わしながらも、少年は、顔を上げない。 小猿を膝の間に挟んで、 蚤 ( のみ )を見つけているのだった。 前髪に紫の 紐 ( ひも )をかけ、派手やかな小袖へ、 緋 ( ひ )らしゃの胴羽織を 纒 ( まと )っているので、少年とは見えるものの、 年齢 ( とし )のほどは、少年という称呼に当てはまるかどうか、保証のかぎりでない。 煙管 ( きせる )にまで、 太閤張 ( たいこうばり )というのが出来て、一頃は 流行 ( はや )ったように、こういう派手派手しい風俗も、桃山全盛の遺風であって、 二十歳 ( はたち )をこえても元服をせず、二十五、六を過ぎても、まだ童子髪を 結 ( ゆ )って金糸をかけ、さながらまだ清童であるかのような見栄を持つ習いが、いまに至ってもかなり 遺 ( のこ )っているからである。 だからこの少年も、一概に身なりをもって、未成年者と見ることはできない。 体つきからしても、堂々たる巨漢であるし、色は小白くて、いわゆる 丹唇 ( たんしん )明眸であるが、眉毛が濃くて、 眉端 ( びたん )は眼じりから開いて上へ 刎 ( は )ねている。 なかなかきつい顔なのだ。 何もそう 年齢 ( とし )の 詮索 ( せんさく )ばかり気にやむこともないが、あれこれ綜合してその中庸をとって推定すれば、まず十九か、二十歳というところでなかろうかと思われる。 さてまた、この美少年の身分はというと、元より旅いでたちで、 革足袋 ( かわたび )にわらじ 穿 ( ば )きだし、どこといって抑えどころもないが、 歴乎 ( れっき )とした藩臣でなく、牢人の 境界 ( きょうがい )であることは、こういう船旅において、ほかの山伏だの 傀儡師 ( くぐつし )だの、乞食のようなボロ侍だの、 垢 ( あか )くさい庶民の中に交じって、気軽にごろごろしている 態 ( てい )をみても、およそ想像はつく。 だが、牢人にしては、ちょっと立派なものを一つ身に着けている。 それは、緋羽織の背なかへ、 革紐 ( かわひも )で斜めに負っている陣刀づくりの大太刀である。 反 ( そ )りがなくて、 竿 ( さお )のように長い。 ものが大きいし、 拵 ( こしら )えが見事なので、その少年のそばへ寄った者は、すぐ少年の肩ごしに 柄 ( つか )の 聳 ( そび )えているその刀に目がつくのだった。 「 京洛 ( みやこ )でもちょっと見ない」 と思う。 刀のすぐれた物を見ると、その持ち主から、遠くは、その以前の経歴までが考えられてゆく。 祇園藤次は、 機 ( おり )があったら、その美少年へ、話しかけてみたいと思っていた。 はたはたと、大きな百 反帆 ( たんぽ )は、生きもののように、船客たちの頭の上で潮鳴りを切って鳴っていた。 藤次は旅に 倦 ( う )んでいた。 祇園藤次は、その飽き飽きした旅を、もう十四日もつづけて来たあげくのこの船中であった。 さしも、室町将軍家の兵法所出仕として、名誉と財と、両方にめぐまれて来た吉岡家も、清十郎の代になって、 放縦 ( ほうじゅう )な生活をやりぬいたため、すっかり家産は傾いてきた。 四条の道場まで、抵当に入っているので、この 年暮 ( くれ )には、町人の手へ取られるかも知れないという内ふところ。 年暮に近づいて、あっちこっちから責め立ててくる負債をあわせると、いつのまにか、途方もない数字にのぼっていて、父拳法の遺産をそっくり渡して、編笠一かいで立ち 退 ( の )いても、なお、足らないくらいな実情に 堕 ( お )ち 入 ( い )っていた。 (どうしたものか) という清十郎の相談である。 そんな主旨の廻文を、清十郎に書かせ、これを 携 ( たずさ )えて、中国、九州、四国などに散在している吉岡拳法門下の出身者を、歴訪して来たのである。 もちろん振武閣建築の寄附金を 勧進 ( かんじん )するために。 先代の拳法が育てた弟子は随分各地の藩に奉公していて、みな相当な地位の侍になっている。 けれど、そういう 勧説 ( かんぜい )を持って行っても、藤次が予算していたように、おいそれと寄進帳へ筆をつけてくれるのはすくない。 (いずれ書面をもって) とか、 (いずれ、上洛の折に) とかいうのが多く、現に藤次が携えて帰る金は、予定していた額の何分の一にも当らない。 だが、自分の財政ではなし、まあ、どうかなろうと 多寡 ( たか )をくくって、 先刻 ( さっき )から、師の清十郎の顔より、久しく会わないお甲の顔のほうを、努めて、想像にのぼせていたが、それにも限度があるので、また、 生欠伸 ( なまあくび )に襲われて、退屈なからだを、船のうえに持てあましていた。 うらやましいのは、先刻から小猿の 蚤 ( のみ )をとっている美少年だった。 いい退屈しのぎを持っている。 藤次は、そばへ寄って、とうとう話しかけ出した。 「若衆。 「はあ、大坂へ行きます」 「ご家族は大坂にお住まいかの」 「いえ、べつに」 「では阿波のご住人か」 「そうでもありません」 膠 ( にべ )のない若衆である。 そういってまた他念なく、小猿の毛を指で掻き分けているのであった。 ちょっと話のつぎ穂がない。 藤次は、黙ったが、また、 「よいお刀だな」 と、こんどは彼の背にある大太刀を 賞 ( ほ )めた。 「大太刀を、かんぬきに横たえて、 りゅうとして歩くのは、見た眼は伊達でよいが、そういう人物にかぎって、逃げる時には、刀を肩へかつぐやつだ。 美少年は、ちらと、彼のそういう尊大な顔つきへ、瞳をひらめかせ、 「富田流を」 と、いった。 「富田流なら、小太刀のはずだが」 「小太刀です。 私は、人真似がきらいです。 そこで、師の逆を行って、大太刀を工夫したところ、師に怒られて破門されました」 「若いうちは、えて、そういう 叛骨 ( はんこつ )を誇りたがるものだ。 そして」 「それから、越前の浄教寺村をとび出し、やはり富田流から出て、中条流を 創 ( た )てた鐘巻自斎という先生を訪ねてゆきますと、それは気の毒だと、入門をゆるされ、四年ほど修行するうち、もうよかろうと師にもいわれるまでになりました」 「田舎師匠というものは、すぐ目録や免許を出すからの」 「ところが、自斎先生は容易にゆるしを出しません。 先生が印可をゆるしたのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎一刀斎ひとりだという話でした。 国許 ( くにもと )では、知られている刀で、 物干竿 ( ものほしざお )という名があるくらいです」 無口だと思いのほか、自分のすきな話題になると、美少年は問わないことまで語りだした。 そして口を開き出すとなると、相手の気色などは見ていない。 そういう点や、またさっき自分で話した経歴などから見ても、すがたに似あわない我のつよい性格らしく思われた。 祇園藤次は、この多感な美少年の述懐を聞いても、若い彼といっしょになって、感傷を共にする気には元よりなれない。 だが、退屈に苦しんでいるよりは、ましだと考えて、 「ふム、なるほど」 熱心に聞いている顔つきを装うと、美少年は、 鬱懐 ( うっかい )をもらすように、 「その時、すぐ行けばよかったのです。 けれど私は周防、師は上州の山間、何百里の道です。 冬雲に陽がかくれると、海は急に灰色を呈し、時々、 舷 ( ふなべり )に 飛沫 ( しぶき )が寒く立つ。 美少年はなお話をやめない。 多感な語気をもって語る。 「師の自斎には、何の身寄りもありません。 で、甥の天鬼には、遺産といってもわずかでしょうが、金を与え、遠く離れている私には、中条流の印可目録を 遺 ( のこ )してゆかれました。 天鬼は、私のそれを預かって、今諸国を修行にあるいていますが、来年の 彼岸 ( ひがん )の中日には、上州と周防とのちょうど中ほどの 道程 ( みちのり )にあたる三河の 鳳来寺山 ( ほうらいじさん )へ、双方からのぼって、対面しようという約束を書面で交わしてあります。 そこで私は天鬼から師のおかたみを受けることになっているので、それまでは近畿のあたりを 悠々 ( ゆるゆる )と、修行がてら見物して歩こうと思っているのです」 ようやくいうだけのことをいい終ったように、美少年は改めて、話し相手の藤次にむかい、 「あなたは、大坂ですか」 「いや京都」 それきり黙って、しばらく、波音に耳をとられていたが、 「すると 其許 ( そこもと )はやはり、兵法をもって身を立てて行かれる気か」 藤次はさっきから少し軽蔑した顔つきであったが、今も うんざりしたようにいう。 この頃のように、こう小生意気な兵法青年がうようよ歩いて、すぐ印可の目録のといって誇っていることが、彼には、 小賢 ( こざか )しく聞えてならない。 そんなに天下に上手や達人が蚊みたいに 殖 ( ふ )えてたまるものか。 「京都には、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎という人がいるそうですが、今でもやっておりますか?」 よいほどに聞いてみれば、だんだん口の幅を広くしてくる。 気に食わない前髪めがと藤次は 小癪 ( こしゃく )に思う。 けれど考え直してみると、こいつはまだ自分が吉岡門の高弟祇園藤次なる者であることを知らないのだ。 知ったらさだめし前言に恥じて、びっくりする奴に違いない。 藤次は顔を 歪 ( ゆが )めた後から、軽蔑をみなぎらして、 「あそこへ行って、片輪にならずに、門を戻って来る自信が、あるかな?」 「なんの!」 美少年は突っ返すようにいった。 「大きな門戸を構えているので、世間が買いかぶっているので、初代の拳法は達人だったでしょうが、当主の清十郎も、その弟の伝七郎とやらも、たいした者じゃないらしい」 「だが、当ってみなければ、分るまいが」 「もっぱら諸国の武芸者のうわさです。 うわさですから、皆が皆、ほんとでもありますまいが、まず京流吉岡も、あれでおしまいだろうとは、よく聞くことですね」 大概にしろといいたい。 藤次は、ここらで名乗ってやろうかと思ったが、ここで けりを着けたのでは、 揶揄 ( からか )ったのでなく、揶揄われたに等しいものになる。 船が、大坂へ着くにはまだ大分間もあることだし、 「なるほど、このごろは、諸国にも天狗が多いそうだから、そういう評判もあろうな。 ところで、おん身は先ほど、師を離れて、郷里にあるうちは、毎日のように、錦帯橋の 畔 ( ほとり )へ出て、 飛燕 ( ひえん )を斬って大太刀のつかいようを工夫されたと仰っしゃったな」 「いいました」 「じゃあ、この船で、時々、ああして飛び来っては 掠 ( かす )めてゆく 海鳥 ( うみどり )を、その大太刀で、斬り落すことも容易であろうな」 「…………」 何か悪感情を包んでいる相手のことばを、美少年もようやくさとったらしく、瞬間、まじまじと藤次のそういう浅黒い唇を見つめていたが、やがて、 「出来たって、そんな 莫迦 ( ばか )な芸を私はやる気になれぬ。 あなたは、古岡の門人か、縁者か」 「何でもないが、京都の人間だから、京都の吉岡を悪くいわれれば、やはりおもしろくはない」 「ははは、うわさですよ、私がいったわけじゃない」 「若衆」 「なんです」 「 生兵法 ( なまびょうほう )という 諺 ( ことわざ )を知っているか。 将来のため忠言しておくが、世間をそう甘く見すぎると、出世はせんぜ。 やれ、中条流の印可目録を取っているの、飛燕を斬って、大太刀の工夫をしたのと、人をみな盲とするような 法螺 ( ほら )はよせ。 よいか、法螺をふくのも相手を見てふくのだぜ」 「私を、法螺ふきと、仰っしゃったな」 美少年が、こう念を押すように突っ込むと、 「いったがどうした」 藤次は、 反 ( そ )らした胸を、わざと相手へ寄せて、 「おまえの将来のためにいってやったのだ。 若い者の 衒 ( てら )いも、少しは愛嬌だが、あまり過ぎると見ぐるしい」 「…………」 「最前から何事もふむふむと聞いているので、人を 舐 ( な )めてつい 駄ぼらが出たのだろうが、実は 此方 ( このほう )こそ、吉岡清十郎の高弟、祇園藤次という者だ。 以後、京流吉岡の悪評をいいふらすと、ただはおかんぞ」 周 ( まわ )りの船客がじろじろ見るので、藤次はそれだけの権威と立場とを明らかにして、 「このごろの若い奴は、生意気でいかん」 つぶやきながら、独り、 艫 ( とも )のほうへ歩み去った。 (何かなくては済まないらしいぞ) と予感したので、船客たちは、遠方からではあるが、皆、二人のほうへ首を振向けた。 藤次は決して事を好んだわけではない。 大坂へ着けば、船着場にはお甲が待っているかもしれないのだ。 女と会う前に、年下の者と、喧嘩などをやっては、人目につくし、あとがうるさい。 そしらぬ顔して、彼は、 舷 ( ふなべり )の 欄 ( らん )へ 肱 ( ひじ )をかけ、 艫舵 ( ともかじ )の下にうず巻いている青ぐろい瀬を見ていた。 「もし」 美少年は、その背中を軽くたたいた。 相当に 拗 ( しつ )こい性質である。 だが、感情に激しているような語気ではない、極めて静かなのだ。 「もし……藤次先生」 知らないふうも 装 ( よそお )えないので、 「なんだ」 顔を向けると、 「あなたは、 人中 ( ひとなか )において、私を 法螺 ( ほら )ふきと申されたが、それでは私も面目が立たないから、最前、やって見ろとおおせられた芸を、やむなくここで演じてみようと存じます。 立ち会ってください」 「わしが、何を求めたか」 「お忘れのはずはない。 藤次は、その構えを白い眼で見すえながら、何用か、と 彼方 ( かなた )から答えた。 すると、美少年は、真面目くさって、 「おそれ入るが、海鳥を、私のまえへ呼び降ろしていただきたい。 何羽でも、斬って見せます」 一休 和尚 ( おしょう )の頓智ばなしをそのまま用いて、美少年は、藤次へ 酬 ( むく )いたものとみえる。 藤次はあきらかに 愚弄 ( ぐろう )されたのだ。 人を小馬鹿にするも程があるといっていい。 当然、烈火のように怒った。 「だまれ。 あのように空を 翔 ( か )けている海鳥を思いのままに、眼の前へ呼びよせられるものなら、誰でも斬るわ」 すると美少年は、 「海は千万里、 剣 ( つるぎ )は三尺、側へ来ないものは、私にも斬れません」 それ見たかといわないばかりに藤次は二、三歩出て、 「逃げ口上をいう奴だ。 出来ませんなら出来ませんと、素直に 謝 ( あやま )れ」 「いや、謝るほどなら、こんな身構えは 仕 ( つかまつ )りません。 海鳥のかわりに、べつな物を斬ってお目にかける」 「何を?」 「藤次先生、もう五歩こちらへ出て来ませんか」 「なんだ」 「あなたのお首を拝借したい。 私が 法螺 ( ほら )ふきか否かを試せといったそのお首だ。 罪もない海鳥を斬るよりは、そのお首のほうが恰好ですから」 「ばッ、ばかいえっ」 思わず藤次はその首をすくめた。 ばっと空気の斬れる音がした。 三尺の長剣が、針ほどな光にしか見えないくらい 迅 ( はや )かったのである。 首はたしかに着いているし、そのほかなんの異状も感じなかった。 「おわかりか」 美少年は、そういって、 荷梱 ( にごうり )のあいだへ立ち去った。 土気色になった自分の顔いろを、藤次はいかんともすることが出来なかった。 だが、その時はまだ自分の五体のうちの最も重要な部分が斬り落されていることなど気づかなかった。 美少年が去った後で、ふと、冬陽のうすくあたっている船板の上を見ると、変な物が落ちている。 それは、 刷毛 ( はけ )のような小さな毛の 束 ( たば )だ、アッと、初めて気づいて、自分の髪へ手をやってみると、 髷 ( まげ )がない。 「や、や? ……」 撫 ( な )でまわして驚き顔をしている間に、根の 元結 ( もとゆい )がほぐれて、 鬢 ( びん )の毛はばらりと顔にちらかった。 「やったな! 青二才」 棒のように胸へ突っ張ってくる憤怒であった。 美少年が自ら語っていたことのすべてが、嘘でも 法螺 ( ほら )でもないことが、とたんに分りすぎるほど彼には分った。 年に似合わない怖ろしい技だと思う。 若い仲間にも、ああいう若いのもいるのかと今さら思う。 だが、 頭脳 ( あたま )の驚嘆と、肚のそこの憤怒とは、べつ物である。 そこからのぞいて見ると、美少年は 先刻 ( さっき )の席へもどって、何か、失くし物でもしたように、自分の足もとを見廻している。 藤次は、絶好な隙をその体に見つけた。 身をかがめて、美少年のうしろへ迫り、こんどは、彼の 髷 ( まげ )を斬り払ってやろうとするのだった。 当然、顔にかかる、頭の鉢を横に割るだろう。 勿論、それでさしつかえない。 うむっ! 満身が赤く 膨 ( ふく )れあがって、彼の 唇 ( くち )と鼻腔が出る息を結んだ時であった。 三十尺もあろうかと思われる帆ばしらの 天 ( て )っ 辺 ( ぺん )に。 下では、ほかの船客までが、海上の旅に 倦 ( う )み 飽 ( あ )いていた折からなので、事こそあれと、みな顔を空へ上げ、 「やあ、何か 咥 ( くわ )えている」 「 骨牌 ( かるた )のふだですよ」 「ハハア、あそこで、金持ち連がやっていた骨牌を 攫 ( さら )って行ったんですか」 「ごらんなさい、小猿のやつも、帆ばしらの上で骨牌をめくる真似をしている」 ヒラヒラと、そういう顔の中へ一枚の札が落ちて来た。 「畜生」 堺の 商人 ( あきんど )のひとりが、あわててそれを拾いあげたが、 「まだ足らない。 どこからも、おれのだといって名乗り出る者がない。 しかし、その辺にいた客はみな知っている。 例の美少年のすがたへ期せずして一同の眼が注がれた。 船頭も知っていた筈だ。 そこで当然 業腹 ( ごうはら )が煮えてきたに違いない。 船頭声を一段と張りあげて、 「飼い主はねえのか。 飼い主がねえならねえように、おらが処分するが、あとで苦情はあんめえな」 いないのではない、美少年は荷物に 倚 ( よ )りかかって、黙然と、何か考え事でもしている様子なのだ。 「……なんて図々しい」 と、ささやく者がある。 船頭もぎょろりと美少年の頭を見ていた。 博戯 ( あそび )を 邪 ( さまた )げられた金持ち階級は、 遽 ( にわか )にざわめいて悪口を口走る。 だが美少年は、ちょっと膝を横に坐り直したきりだった。 どこへ吹く風かという姿である。 「海のうえにも、猿が住むとみえて、飼い主のねえ猿が舞いこんだ。 飼い主のねえ畜生なら、どうして始末してもかまうめい。 後で、耳が遠いの、聞かなかったのと、苦情のねえように、証人になってくらっせえ」 「いいとも、わしらが証人に立ってやる」 と例の旦那連中が、腹を立てて、呶鳴った。 船頭は、船底へゆく 段梯子 ( だんばしご )を下りて行った。 上がって来た時には、火のついた火縄と、 種子島銃 ( たねがしまじゅう )を持っていた。 のん気なのは、上の小猿だ。 潮風の空で、 骨牌 ( かるた )を見ている。 それがいかにも意思があって人間をからかっているように見えるのである。 「…………」 下では、船頭が、火縄を鼻の先にいぶして種子島の 銃先 ( つつさき )を空へ向け、じっと、小猿を狙いすましていた。 「しっ……」 と、堺の商人が 袂 ( たもと )をひいた。 それまで 唖 ( おし )のように 他所 ( よそ )を向いていた美少年がぐっと体を起し、 「船頭」 と、こちらへ声を投げたからである。 こんどは、船頭のほうで そら耳を装っていた。 火縄が、チラと 関金 ( せきがね )の 煙硝 ( えんしょう )へ口火を点じかけた。 「あっ」 ドカアンと弾音はたかく 反 ( そ )ッぽへ走った。 銃 ( つつ )は美少年の手に 引 ( ひ )っ 奪 ( た )くられているのだった。 船客たちは、耳を抑えて 俯 ( う )つ伏した。 「な! なにしやがる!」 これは船頭の当然な怒号だった。 おどり上がって美少年の胸ぐらにぶら下がったのである。 頑丈な 船乗 ( ふなのり )の体も、美少年のまえに正当に立つと、ぶら下がったという言葉がおかしくないほど、背も骨ぐみも、段ちがいに美少年のほうが 逞 ( たくま )しくて立派だったのである。 「おまえこそ、何するのだ、飛び道具で、無心の小猿を撃ち落そうとしたろう」 「そうだ」 「不届きではないか」 「なぜッ。 船頭風情の身をもって、客よりも高い場所に突っ立ち、頭の上からあのように 喚 ( わめ )いたとて、侍が、答えられるか」 「いい抜けを 吐 ( ほ )ざくな。 そのためにおらは何度も断ってある。 小猿が 骨牌 ( かるた )のふだを取って逃げたからとて、この身がいいつけたわけではなし、あの連中のする 悪戯 ( いたずら )を、猿が真似したまでのこと、わしから迷惑を詫び出るすじはない」 ことばの半ばから、美少年は、血の気の多いその顔を、 彼方 ( あなた )の一つどころにかたまっている堺や大坂の旦那連のほうへ向けて、極めて皮肉な笑い方をしていったのであった。 潮騒 ( しおさい )の夕闇に、木津川 湊 ( みなと )の灯は赤く 戦 ( そよ )いでいる。 どことなく魚臭いものが迫る。 陸 ( おか )が近づいたのだ。 船から呼ばわる声と、陸でわいわいという声が、徐々に、距離をちぢめていた。 どぼーんと、真っ白なしぶきが立つ。 錨 ( いかり )が 抛 ( ほう )りこまれたのである。 「かしわ屋でございますが」 「 住吉 ( すみよし )の 社家 ( しゃけ )の息子さまは、この船にござらっしゃらぬか」 「飛脚屋さんはいるかね」 「旦那様あ」 渡海場の 埠頭 ( ふとう )にかたまっていた迎えの 提燈 ( ちょうちん )は、灯の波を作って船の横へ迫ってゆく。 その中を、例の美少年が、 揉 ( も )まれて降りて行った。 肩に小猿を乗せている姿を見て、 旅籠 ( はたご )の客引きが二、三人、 「もしもし、 猿 ( えて )のお泊り賃は、 無料 ( ただ )にいたしておきますが、私どもへお越しくださいませぬか」 「てまえどもは住吉の門前で、ご参詣にもよし、座敷の見晴らしも至極よいお部屋がございますが」 それらの者には 一顧 ( いっこ )もせず、そうかといって迎えに来ている知人もないらしく、美少年は小猿をかついで、真っ先にこの 湊 ( みなと )から姿を消してしまった。 それを見送って、 「何んていう生意気なやつだろう。 すこしばかり兵法が出来ると思って」 「まったく、あの若造のために、船の中は半日、みんな面白くなく暮してしまった」 「こっちが町人でなければ、あのままただでこの船を降ろすのじゃないが」 「まあまあ、侍には、たんと威張らせておいてやるがいいさ。 肩で風を切っていれば、それで気が済むんだから他愛はない。 わしら町人は、花は人にくれても、 実 ( み )を喰おうという流儀だから、今日ぐらいな 忌々 ( いまいま )しさは、仕方があるまいて」 こんなことをいいながら、荷物沢山な旅すがたを揃えて、ぞろぞろ降りて行ったのは例の堺や大坂の 商人連 ( あきんどれん )であり、そこへは無数の出迎えが、 提燈 ( ちょうちん )や乗物をあつめ、一人一人に、幾人かの女の顔も取り巻いていた。 祇園 ( ぎおん )藤次は、誰よりも後から、こっそりと 陸 ( おか )へ上がっていた。 形容のできない顔つきである。 不愉快といって、きょうほど不愉快な日はなかったに違いない。 髷 ( まげ )をちょん切られた頭には、頭巾をかぶせているが、眉にも 唇 ( くち )にも、暗澹とただよっている。 渡海場に立って吹き 曝 ( さら )されていた顔が、寒さに 硬 ( こわ )ばって、年をかくしている 皺 ( しわ )が、 白粉 ( おしろい )の上に出ていた。 「お、お甲か。 とにかく、住吉へでも行って、よい宿を見つけよう」 「え、あちらに、駕も連れて来ましたから」 「そいつは有難う、じゃあ宿も先に取っておいてくれたか」 「みな様も、待ちかねているでしょう」 「え?」 意外な顔して、藤次は、 「オイお甲、ちょっと待ってくれ。 おまえとここで落ちあったのは、二人ぎりでどこか静かな家で二、三日 悠 ( ゆ )っくりしようという考えじゃないか。 ……それを、皆様とは一体、誰と誰のことをいうのだ」 「乗らない。 わしは乗らない」 祇園藤次は、迎えの駕を 拒 ( こば )んでぷんぷん怒りながら、お甲の先へ歩いていた。 お甲が何かいうと、 「ばかっ」 と、ものをいわせない。 彼をして、こう立腹させた原因は、お甲が告げた新しい事情にも 因 ( もと )づくが、すでに船の中からもやもやしていた鬱憤が、あわせて今、爆発したことは 否 ( いな )めない。 「おれは、一人で泊るっ。 駕なんか追ッ返せ。 なんだ。 人の気も知らないで、ばかっ、ばかっ!」 と、 袂 ( たもと )を払う。 河の前の 雑魚 ( ざこ )市場は、みな戸が閉まって、魚の 鱗 ( うろこ )が、貝をちらしたように、暗い長屋の戸に光っていた。 そこまで来ると、人影も少なくなったので、お甲は、藤次に抱きついた。 「およしなさい、見ッともない」 「離せっ」 「一人で泊ったら、あっちが変なものになりますよ」 「どうにでもなれっ」 「そんなこといわないで」 白粉 ( おしろい )と髪の香の、冷たい頬が、藤次の頬へ貼りついた。 藤次はやや旅の孤独から 甦 ( よみがえ )った。 「……ネ、頼みますから」 「がっかりした」 「そうでしょう、だけど、二人にはまたいい 機 ( おり )があるでしょう」 「おれは、せめて大坂で二、三日は二人ぎりと、楽しみにして着いたのだ」 「分ってますよ」 「わかっているなら、なぜ 他 ( ほか )の者を引ッ張って来たのだ。 俺が思っているほど、おまえは俺を思っていないからだろう」 藤次が責めると、 「また、あんな……」 と、お甲はうらめしげな眼をこらして、泣きたいような顔をして見せる。 彼女のいい訳は、こうだった。 藤次から飛脚を受け取ると、彼女は勿論、自分だけで大坂へ来るつもりだった。 ところが折わるく、吉岡清十郎がその日もまた、六、七名の門人を連れて「よもぎの寮」へ飲みに来て、いつのまにか、 朱実 ( あけみ )の口から、そのことを聞いてしまい、 (藤次が大坂へ着くなら、わしらも迎えに行ってやろうじゃないか) といい出した。 それに調子をあわせる取り巻き連も多く、 (朱実も行け) と、いう騒ぎになってしまい、いやともいえずお甲は一行十人ほどの中に 交 ( ま )じって住吉の旅館に落着き、一同の遊んでいる間に、自分だけ一人で駕を持ってここへ迎えに来たのだという。 今日という日に迷信がわき起るほど、何か、後にも先にも、不愉快ばかりが考えられた。 第一、 陸 ( おか )を踏むとすぐ、清十郎だの同輩だのに、旅先の首尾を聞かれることが辛い。 いやもっと嫌なことは、この頭巾を脱ぐことである。 (何といおう) 彼は、 髷 ( まげ )のない頭を苦に病んだ、彼にも侍というものの面目はある。 人に知られない恥なら掻いてもよいが、人にわかる恥を重大に思う。 「……じゃあ仕方がない、住吉へ行くから駕を連れて来い」 「乗ってくれますか」 お甲はまた、渡海場のほうへ、駈け戻った。 この夕方、船で着く藤次を迎えに行くといって出たお甲は、まだ帰って来ない。 その間に、同勢は風呂にはいり、 旅舎 ( やど )の どてらに 着膨 ( きぶく )れて、 「やがて、藤次もお甲も見えるだろう、その間、こうしていてもつまらんじゃないか」 飲んで待っていようということになったのは、この同勢として、当然な納まりであった。 藤次の顔が見えるまでのつなぎとして飲んでいたうちはいいが、いつの間にか膝がくずれ、杯がみだれ出すと、もうそんな者はどうでもよくなってしまい、 「この住吉には、 唄 ( うた )い 女 ( め )はいないのか」 「きれいなのを三、四人呼ぼうじゃないか。 どうだ 諸卿 ( しょけい )」 と、病気が始まる。 (よせ、つまらない)などという顔は、この中には一つもいない。 ただ師の吉岡清十郎の顔いろを多少 憚 ( はばか )るのであったが、 「若先生には、朱実が側についているから、別間のほうへ、お移り願おうじゃないか」 横着な奴らかなと清十郎はにが笑いする。 けれど、それは自分に取っても好ましい。 炬燵 ( こたつ )のある部屋に入って、朱実とふたりで差し向うほうが、この同勢と飲んでいるより、どれほどいい人生かわからない。 「さあ、これからだ」 とは門人どもが、門人だけになってからの発声だった。 やがて程なく 十三間川 ( とさまがわ )の名物という怪しげな 唄 ( うた )い 女 ( め )が笛、三味線などの ひねこびた楽器を持って庭にあらわれ、 「いったい、あんたはん達は、喧嘩するのかいな、酒あがるのかいな」 と訊ねる。 すでによほど大トラになっている一人が、 「ばかっ、金を 費 ( つか )って喧嘩する奴があるか。 おまえたちを呼ぶからには、大いに飲んで遊ぶのだ」 「じゃあ、まちっと、静かにあがりやはったらどうかいな」 手際 ( てぎわ )よく扱われて、 「然らば、歌おう」 抛 ( ほう )り出していた 毛脛 ( けずね )をひっ込めたり、横にしていた体を起して、 絃歌 ( げんか )ようやく盛んならんとする頃おい、小女が来て、 「あの、お客様が、船からお着きなさいまして、ただ今、お連れ様といっしょに、ここへきやはりまする」 と、告げて行った。 「なんだ、何が来たと」 「藤次といった」 「 冬至 ( とうじ )冬至、 魚 ( とっと )の目か」 お甲と祇園藤次は、あきれ顔して部屋の口に立っていた。 誰も彼を待ったらしい者は一名もないのだった。 藤次は、一体何のために、この年末この同勢が、住吉へなど来ているのかと疑った。 お甲にいわせれば自分を迎えに来たのだというが、どこに自分を迎えに来たらしい人間が一人でもいるか、むっとして、 「おい、 下婢 ( おんな )」 「はい」 「若先生は、どこにいらっしゃるか、若先生のいる部屋へ行こう」 廊下をもどりかけると、 「よう、先輩、ただ今お帰りか。 たまらない臭気を放つ。 逃げようとしたので、トラは強引に座敷へ引きずり込んだ、そして、膳を踏みつけたから形のごとく 杯盤狼藉 ( はいばんろうぜき )を作って、共倒れに仆れた。 「……あっ、頭巾を」 藤次は、あわてて自分のそれへ手をやったが遅かった。 辷 ( すべ )った拍子に、トラは彼の頭巾をつかんで後ろへ腰をついていた。 その晩は、酒の興で済んだが、次の日になるとこの同勢が、ゆうべとは打って変って、 旅舎 ( やど )のすぐ裏の浜辺に出て、天下の大事でも議すように、 「怪しからん沙汰だ」 と、肩を 昂 ( あ )げ、 唾 ( つば )をとばし、 肱 ( ひじ )を突っ張って、小松の生えている砂地に 円 ( まる )く坐っていた。 いやしくも天下の兵法所をもって任じる吉岡道場の名折れだ、断じて、これを捨ておくことはできないぞ」 「しからば、どうするのだ」 「これからでも遅くあるまい。 その小猿を連れて歩いている前髪の武者修行を 捜 ( さが )し出す! どんなことをしても捜し出す! そして、 彼奴 ( きゃつ )の 髷 ( まげ )をちょん切って、祇園藤次 ずれの恥辱じゃない、吉岡道場の存在を 厳 ( おごそ )かにする。 その動機をたずねると、こうなのである。 彼らの憤激はそれから始まったものである。 怪 ( け )しからぬ先輩と、祇園藤次をつかまえて詰問に及ぼうとすると、藤次は今朝早く、吉岡清十郎と何か話していたが、朝飯をたべるとすぐ、お甲とふたりで、先へ京都へ 発 ( た )ってしまったという。 いよいよもって、うわさは事実にちがいない。 そういう腰抜けの先輩を追いかけるのは愚かである、追うならばどこの何者かわからないが、自分たちの手で、小猿を携えた前髪を捕まえ、存分に、吉岡道場の汚名をそそいでやろうじゃないか。 住吉の浦は、眼のおよぶ限り、 白薔薇 ( しろばら )をつないだような波である。 冬とも思えない磯の香が陽に煙っている。 朱実 ( あけみ )は、白い 脛 ( はぎ )を見せて、波に戯れながら何か拾って見ては捨てていた。 何事か起ったように、吉岡の門人たちが思い思いな方角へ向い、刀のこじりを 刎 ( は )ね上げて分れて行くのを眺めて、 「オヤ、何だろう」 朱実はまるい眼をしながら、波打ち際に立って見送っていた。 ほかの者もみな手分けして、捜しに行ったんだ」 「何を捜しに行ったんです」 「小猿を携えている前髪の若い侍さ」 「その人がどうかしたのですか」 「 抛 ( ほう )っておいては、清十郎先生のお名まえにもかかわるのだ」 祇園藤次の飛んでもない置土産の一件を話して聞かすと、朱実は興もない 口吻 ( くちぶり )で、 「皆さんは、始終喧嘩ばかり捜しているんですね」 と、たしなめ顔にいう。 貝殻など何も捜さなくっても、 天 ( そら )の星ほど、こんなに落ちている」 「わたしの捜しているのは、そんなくだらない貝殻じゃありません。 わすれ貝です」 「わすれ貝、そんな貝があるものか」 「ほかの浜にはないが、この住吉の浦にだけはあるんですって」 「ないよ」 「あるんですよ」……いい争って、朱実は、 「嘘だと思うならば証拠を見せてあげますからこっちへ来てごらんなさい」 と、ほど遠からぬ所の松並木の下へ、無理やりにその門人を引っぱって来て一つの 碑 ( いしぶみ )を指した。 いとまあらば ひろひに行かむ住吉の きしに寄るてふ 恋わすれ貝 新勅撰集のうちにある古歌の一首がそれには刻んである。 朱実は誇って、 「どうです、これでもないといえますか」 「伝説だよ、取るにも足らん歌よみの嘘だ」 「住吉にはまだ、わすれ水、わすれ草などという物もあるんです」 「じゃ、あるとしておくさ。 ……だから捜しているの。 あんたも一緒になって捜してくださいよ」 「それどころじゃない」 思い出したように、その門人は足の向きを変えて、どこかへ駈けていってしまった。 苦しくなると、そう思うほどだったが、また、 「忘れたくない」 朱実は、胸を抱いて、矛盾の 境 ( さかい )に立った。 もしほんとにわすれ貝という物があるならば、それはあの清十郎の袂へこそ、そっと入れてやりたい。 そしてこの自分という者を彼から忘れてもらいたいと、ため息ついて思う。 「 執 ( しつ )こい人……」 思うだけでも、朱実は心がふさいだ。 自分の青春をのろうために、あの清十郎は生活しているような気もちにさえ襲われる。 清十郎のねばり濃い求愛に、心が暗くなる時は、必ずその心のすみで、彼女は 武蔵 ( むさし )のことを考えた。 なぜならば、遮二無二に今の境遇を切り 解 ( ほど )いて現在の身から夢の中へ、駈け出してしまいたくなるからだった。 「……だけど?」 彼女は、しかし幾たびもためらった。 自分はそこまでつき詰めているが、武蔵の気もちはわからなかった。 「……アアいっそのこと忘れてしまいたい」 青い海が、ふと誘惑でさえあった。 朱実は、海を見つめていると、自分が怖くなった。 何のためらいもなく、真っ直にそこへ向って駈けて行かれる気がするのである。 そのくせ自分がこんなつき詰めた考えを抱いているなどということは、およそ彼女の 養母 ( はは )のお甲も知らない。 清十郎も思わない。 誰でも朱実と一つに暮した者は皆、この娘は至って快活で、お 転婆 ( てんば )で、そしてまだ、男性の恋愛が受け取れないほど開花の 晩 ( おそ )い 質 ( たち )だと思いこんでいるらしいのである。 朱実はそんな男たちやまた 養母 ( はは )を、心のうちであかの他人に思っていた。 どんな 冗戯 ( じょうだん )でもいえるのである。 そしていつも鈴のついた 袂 ( たもと )を振って、駄々っ子みたいに振舞っているのだったが、独りになると、春の草いきれのように熱いため息をついていた。 さっきから先生がお呼びでごさいますよ。 どこへ行ったのかと、えらいご心配になって」 旅舎 ( やど )の男だった。 彼女のすがたを 碑 ( いしぶみ )のそばに見つけて、こういいながら走って来た。 朱実がもどって行って見ると、清十郎はただひとりで、松かぜの音を静かに 閉 ( た )てこめた冬座敷で、 緋 ( ひ )の 蒲団 ( ふとん )をかけた 炬燵 ( こたつ )に手を入れてぽつねんとしていた。 彼女のすがたを見ると、 「どこへ行っていたのだ、この寒いのに」 「オオ嫌だ、ちっとも寒くなんかありやしない。 浜はいっぱいに陽があたっていますもの」 「何していた」 「貝をひろっていたの」 「子どもみたいだな」 「子どもですもの」 「正月が来たら 幾歳 ( いくつ )になると思う」 「幾歳になっても子どもでいたい……いいでしょう」 「よかあない。 すこしは、おふくろの案じているのも考えてやれよ」 「おっ母さんなんか、何も私のことなんか考えているものですか。 自分がまだ若い気ですもの」 「ま、 炬燵 ( こたつ )へお入り」 「炬燵なんか、 逆上 ( のぼせ )るから大っ嫌い。 ……私はまだ年寄りじゃありませんからね」 「朱実」……手くびをつかんで、清十郎は膝へ引き寄せた。 「きょうは誰もいないらしい。 おまえの 養母 ( おふくろ )も、粋をきかして先へ京都へ帰ったし……」 ふと清十郎の燃えている眼を見て、朱実はからだが 硬 ( こわ )ばってしまった。 「…………」 無意識に身を 退 ( ひ )きかけたが、彼の手は、彼女の手くびを離さない。 痛いほど握りしめ、 「なぜ逃げる?」 とがめるように 額 ( ひたい )に青すじを立てる。 「逃げやしません」 「きょうは皆、留守なのだ、こういう折はまたとない。 そうだろう朱実」 「なにがです」 「そう 棘々 ( とげとげ )しくいうな。 もうおまえと 馴染 ( なじ )んでから小一年、おれの気持もわかったはず、お甲はとうに承知なのだ。 おまえがおれに従わないのは、おれに腕がないからだとあの 養母 ( おふくろ )はいっている。 それでも清十郎は離さないのである。 こういう場合に京八流の兵法が応用されては、いかに彼女が争っても無駄であろう。 それにまた、きょうの清十郎はいつもとやや違っていた。 いつも 自暴 ( やけ )に酒を 仰飲 ( あお )って執こくからむのだが、きょうは酒気はないし、青白い顔をしているのだった。 離さないと、みんなを呼ぶからいい」 「呼んでみい! ……。 この棟は 母屋 ( おもや )から離れているし、誰も来るなと断ってあるのだ」 「わたし帰ります」 「帰さん!」 「あなたの体じゃありません」 「ば、ばかっ。 ……おまえの 養母 ( おふくろ )に聞け、おまえの体には、おれの手から身代金ほどの金が、お甲へやってあるのだ」 「おっかさんが私を売り物にしても、私は売った覚えはない。 死んだって、嫌な男なぞに」 「なにっ」 緋 ( ひ )の 炬燵 ( こたつ )ぶとんが、朱実の顔を押しかぶせた。 朱実は心臓のつぶれるような声をあげた。 ……呼べど、呼べど、誰も来なかった。 ひんやりと薄陽のあたっている障子には、何事もなげに、松のかげが遠い潮鳴りのように揺れているに過ぎない。 外は、あくまで静かな冬の日であった。 チチ、チチ、とどこかで、人間の無残な振舞いとはおよそ遠い小鳥の声がしていた。 ……ほど 経 ( た )って。 そこの障子のうちで、わっと号泣する朱実の声がもれた。 しいんとして、ややしばらくのあいだ、人の声も気はいもしないでいると思うと、清十郎が青じろい顔を持って、ついと、障子の外へすがたを現わした。 「あっ! ……」 清十郎は身伸びをして、 手拭 ( てぬぐい )で巻いた手を抑えながら、見送ってしまった。 まるで、発狂したような 迅 ( はや )さと取乱した彼女の姿であった。 「…………」 ちょっと、不安そうな眼をしたが、清十郎は、追って行かなかった。 「これよ、 権叔父 ( ごんおじ )」 「おい、なんじゃあ」 「おぬし、くたびれぬかよ」 「いささか 気懶 ( けだる )うなっておる」 「そうじゃろが、この婆もちと、きょうは 歩行 ( ひろ )い飽いた。 したが、さすがに住吉の 社 ( やしろ )、見事な結構ではある。 ……ホホ、これが若宮八幡の秘木とかいう橘の樹かいの」 「そうとみえる」 「 神功 ( じんぐう )皇后さまが、 三韓 ( さんかん )へご渡海なされた折に、八十 艘 ( そう )の 貢 ( みつ )ぎ 物 ( もの )のうちの第一のみつぎ物がこれじゃといういい伝えじゃが」 「婆よ、あの 神馬 ( しんめ )小屋にいる馬は、よい馬ぞよ。 加茂の 競 ( くら )べ 馬 ( うま )に出したら、あれこそ第一でがなあろうに」 「ムム、月毛じゃの」 「何やら立て札があるわ」 「この 飼料 ( かいば )のおん豆を 煎 ( せん )じて飲ますれば、夜泣き、歯ぎしりが止むとある。 権叔父、おぬし飲むがええ」 「ばかをいわしゃれ」 笑いながら見廻して、 「おや、又八は」 「ほんに、又八はどこへ行ったぞいな」 「ヤア、ヤア、あれなる 神楽 ( かぐら )の 殿 ( でん )の下に足をやすめているわ」 「又よう。 又八は、のそりのそり歩いて来た。 この 婆 ( ばば )とこの 爺 ( じじ )を連れにして、毎日こう歩いてばかりいるのは、彼としてかなりの我慢らしく見える。 それが五日や十日の見物というならまだしも、宮本武蔵という敵と巡り会って討ち果すまでの長い旅かと思うと、なんとしても、憂鬱にならざるを得ない。 元日か二日が過ぎたらすぐ別れようと思う。 だが、婆も爺も、先の短いせいか、 仏性 ( ほとけしょう )があるというのか、神社仏閣というといちいちお 賽銭 ( さいせん )を奉ったり、長々と祈願をこめたりばかりしていて、今日も、この住吉だけで、ほとんど一日暮れてしまいそうだ。 「はよう来ぬか」 鈍々 ( どんどん )たる足つきで、顔をふくらませて来る又八をながめて、お杉隠居は、若い者のように 焦 ( じ )れた。 「勝手なことをいってら」 又八は、口返答して、少しも足を早めないのだ。 「人を待たせる時は、いくらでも待たせておいて」 「何をいうぞ、この息子は。 神さまの霊域へ来たら、神さまをおがむのは人間のあたりまえなことじゃ。 おぬし、神にも仏にも手を合せたのを見たことがないが、そういう量見では、行く末が思いやらるる」 又八は、横を向いて、 「うるせえな」 それを聞き咎めてまた婆が、 「何がうるさいのじゃ」 初めの二、三日こそ、 母子 ( おやこ )の愛情は蜜より濃やかであったが、馴れるにつれ又八が、事ごとに たてを突いたり老母を小馬鹿にしたりするので、 旅籠 ( はたご )に帰るとお杉隠居は、この息子を前に坐らせ、毎夜のようにお談義ばかりであった。 それが今、ここで始まりそうな気色なので権叔父は、こんなところで開き直られては閉口と、 「まアまア、まアまア」 と、 母子 ( ふたり )をなだめて歩み出した。 困った 母子 ( おやこ )だと権叔父は思う。 何とか、隠居のきげんを直し、又八のふくれ 面 ( つら )もなだめたいものだと、双方に気をつかって歩いている。 「ホ、よいにおいがすると思ったら、あれなる磯茶屋で、焼き 蛤 ( はまぐり )をひさいでおる。 婆よ 一酌 ( ひとしゃく )やろうではないか」 高燈籠の近くにある海辺の 葭簀 ( よしず )茶屋であった。 気のすすまない顔つきの二人を誘って、 「酒あるか」 権叔父は先へ入って行く。 そして、 「さ、又八もきげん直せ。 婆もちとやかまし過ぎるぞよ」 杯を出すと、 「飲みとうない」 お杉隠居は、横を向く。 引っ込みを失って、権叔父はその杯を、 「じゃあ又八」 と、彼へ 酌 ( さ )した。 むッつりむッつり又八はたちまち二、三本ほど飲みほしてしまう。 それが老母の気に喰わないことは勿論である。 「おい、もう一本」 権叔父をさし 措 ( お )いて、又八が四本目を求めると、 「いい加減にしやれ!」 と、婆は叱った。 「 遊山 ( ゆさん )や酒のむためのこの旅かよ。 権叔父も、ほどにしたがよい。

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斎藤茂吉 万葉秀歌

夕べ 眠れ ず に 泣い てい たん だ ろう 歌詞

伏見桃山の城地を 繞 ( めぐ )っている淀川の水は、そのまま長流数里、 浪華江 ( なにわえ )の大坂城の石垣へも寄せていた。 「どうなるんだ?」 と、人々はすぐそういう話題に興味を持つ。 「どうって、何が?」 「世の中がよ」 「変るだろう。 こいつあ、はっきりしたことだ。 変らない世の中なんて、そもそも、藤原道長以来、一日だってあった 例 ( ためし )はねえ。 河の水は沸いている。 もう秋は立っているのだが、暑さはこの夏の土用にも 勝 ( まさ )って 酷 ( きび )しい。 淀の京橋口の柳はだらりと白っぽく 萎 ( な )えている。 気の狂ったような 油蝉 ( あぶらぜみ )が一匹、川を横ぎって町屋の中へ突き当ってゆく。 その町も晩の灯の色はどこへか失って、灰を浴びたような板屋根が乾き上がっているのだった。 橋の 上下 ( かみしも )には、無数の石船がつながれていて、河の中も石、 陸 ( おか )も石、どこを見まわしても石だらけなのである。 その石も皆、畳二枚以上の 巨 ( おお )きなものが多かった。 焼けきった石の上に、 石曳 ( いしひ )きの労働者たちは、無感覚に寝そべったり腰かけたり仰向けに転がったりしている。 ちょうど今が、昼飯 刻 ( どき )でその後の半刻休みを楽しんでいるのであろう。 そこらに材木をおろしている牛車の牛も 涎 ( よだれ )をたらして、満身に 蠅 ( はえ )を集めてじっとしている。 伏見城の修築だった。 いつのまにか、世の人々に「大御所」と呼ばしめている家康がここに滞在しているからではない。 城普請 ( しろぶしん )は、徳川の戦後政策の一つだった。 譜代大名 ( ふだいだいみょう )の心を 弛緩 ( しかん )させないために。 もう一つの理由は、一般民に、とにかく徳川政策を 謳歌 ( おうか )させるためには、土木の工を各地に起して、下層民へ金をこぼしてやるに限る。 今、城普請は全国的に着手されていた。 この伏見城の土木へ 日稼 ( ひかせ )ぎに来る労働者の数だけでも、千人に近かった。 その多くは、 新曲輪 ( しんぐるわ )の石垣工事にかかっているのである。 伏見町はそのせいで、急に、 売女 ( ばいた )と 馬蠅 ( うまばえ )と物売りが 殖 ( ふ )え、 「大御所様景気や」 と、徳川政策を謳歌した。 その上、 「もし戦争になれば」 と、町人たちは、機と利を察して、思惑に熱していた。 社会事象のことごとくを、そろばん珠にのせて、 「 儲 ( もう )けるのはここだ」 無言のうちに、商品は活溌にうごいた。 その大部分が、軍需品であることはいうまでもない。 もう庶民の頭には、太閤時代の文化をなつかしむよりも、大御所政策の目さきのいい方へ心酔しかけていた。 司権者は誰でもいいのである。 自分たちの小さな慾望のうちで、生活の満足ができればそれで苦情がないのだ。 家康は、そういう愚民心理を、裏切らなかった。 子どもへ菓子を 撒 ( ま )いてやるより 易々 ( いい )たる問題であったろう。 それも徳川家の金でするのではない。 栄養過多な外様大名に課役させて、程よく、彼らの力をも減殺させながら効果を挙げてゆく。 そうした都市政策の一方、大御所政治は、農村に対しても、従来の放漫な切り取り徴発や、 国持 ( くにもち )まかせを許さなかった。 徳川式の封建政策をぽつぽつ 布 ( し )きはじめていた。 それには、 (民をして政治を知らしむなかれ、政治にたよらせよ) という主義から、 (百姓は、飢えぬほどにして、気ままもさせぬが、百姓への慈悲なり) と、施政の方策をさずけて、徳川中心の永遠の計にかかっていた。 それはやがて、大名にも、町人にも、同じようにかかって来て、孫子の代まで、身うごきのならない手かせ足かせとなる封建統制の前提であったが、そういう百年先のことまでは、誰も考えなかった。 いや、 城普請 ( しろぶしん )の石揚げや石曳きに稼ぎに来ている労働者などは、 明日 ( あした )のことさえ、思っていないのである。 昼飯をたべれば、 「はやく晩になれ」 と祈るのが、いっぱいな慾念だった。 それでも時節がら、 「戦争になるか」 「なれば 何日 ( いつ )頃?」 などと、時局談は、いっぱし 熾 ( さか )んだったが、その心理には、 「戦争になったって、こちとらは、これ以上、悪くなりようがねえ」 という気持があるからで、ほんとにこの時局を 憂 ( うれ )いたり、平和の岐点をじっと案じて、どの方へ曲がるのが国と民のためだろうなどと考えているのでは決してないのである。 石の蔭で、 銭 ( ぜに )の裏表を伏せて、 博戯 ( ばくち )をしていた人足の群れで、二つ売れた。 「こちらの衆は、西瓜どうや。 西瓜買うてくれなはらんか」 と、群れから群れへ唄ってくると、 「べら棒め、銭がねえや」 「ただなら食ってやる」 そんな声ばかりだった。 すると、たった一人ぽち、青白い顔をして、石と石のあいだに 倚 ( よ )りかかって膝を抱えていた石曳きの若い労働者が、 「西瓜か」 と、力のない眼をあげた。 又八は、土のついた青銭を、掌のうえでかぞえた。 西瓜売りにわたして一個の西瓜と交換した。 それを抱え込むと、またしばらく、石に倚りかかったまま、ぐんなり 俯向 ( うつむ )いているのである。 「げ……げ……」 突然、片手をつくと、草の中へ牛みたいに 唾液 ( だえき )を吐いた。 西瓜は膝から転がり出している。 それを取ろうとする気力もないし、食べようという気で買ったわけでもないらしいのだ。 「…………」 にぶい眼で、西瓜をながめていた。 眼は虚無の玉みたいに何の意力も希望もたたえていない。 呼吸 ( いき )をすると肩ばかりうごいた。 「……畜生」 呪う者ばかりが 頭脳 ( あたま )へ映ってくる。 お 甲 ( こう )の白い顔であり、 武蔵 ( たけぞう )のすがたであった。 今の逆境へ落ちて来た過去を 振顧 ( ふりかえ )ると、武蔵がなかったらと思い、お甲に会わなかったらと彼はつい思う。 過 ( あやま )ちの一歩は、関ヶ原の 戦 ( いくさ )の時だ。 次に、お甲の誘惑だ。 あの二つのことさえなかったら、自分は今も、 故郷 ( ふるさと )にいたろう。 そして本位田家の当主になって、美しい嫁をもち、村の人々から、 羨望 ( せんぼう )される身でいられたに違いない。 「お 通 ( つう )は、怨んでいるだろうなあ……。 どうしているか」 彼の今の生活は、彼女を空想することだけが慰めだった。 お甲という女の性質がよくわかってからは、お甲と同棲しているうちから、心はお通へもどっていたのだった。 やがてあの「よもぎの寮」と呼ぶお甲の家を、ていよく突き出されたような形で出てしまってからは、よけいにお通を思うことが多かった。 その後また、よく 洛内 ( らくない )の侍たちの間で噂にのぼる宮本武蔵なる新進の剣士が、むかし友達の「 武蔵 ( たけぞう )」であることを知ると、又八はじっとしていられなかった。 (よしっ、俺だって) 彼は酒をやめた。 遊惰な悪習を蹴とばした。 そして次の生活へかかりかけた。 (お甲のやつにも、見返してやるぞ。 五年も世間を見ずに、年上の女に養われて来た不覚のほどが、はっきり身に沁みて分ったが、遅かった。 (いや、遅かあない。 まだ二十二だ。 どんなことをしたって……) と、これは誰にでも起せる程度の興奮だったが、又八としては、眼をつぶって運命の断層をとび越えるような悲壮をもって、この伏見城の土木へ働きに出たのだった。 そしてこの夏から秋までの炎天下で、自分でもよく続いたと思うほど労働をつづけていた。 (おれも、一かどの男になってみせる。 武蔵のやる芸ぐらい、俺に出来ない法はない。 いや、今にあいつを尻目にかけて、出世してみせてやる。 その時には、お甲にも黙って復讐できるのだ。 武蔵や自分よりも、彼女は一ツ年下だ。 すると今から十年経つうちには、もう三十を一つこえてしまう。 (それまで、お通が、独り身で待っているかしら?) 故郷のその後の消息は何も知らない又八だった。 そう考えると、十年では遠すぎる、少なくもここ五、六年のうちだ。 なんとしても身を立てて、故郷へ行き、お通に詫びて、お通を迎え取らなければならない。 「そうだ……五年か、六年のうちに」 西瓜を見ている眼に、やや光が出てきた。 すると、 巨 ( おお )きな石の向う側から、仲間の一人が、 肱 ( ひじ )を乗せていった。 「おい又八、何をひとりでぶつぶついってるんだ。 ……オヤ、ばかに青い 面 ( つら )して、げんなりしているじゃねえか。 どうしたんだ、腐った西瓜でも喰らって、腹でも 下痢 ( くだ )したのか」 つけ元気に、又八はうすく笑った。 だがすぐ、不快な眼まいがこみあげて来るらしく、 生唾 ( なまつば )を吐いて顔を振った。 「な、なあに、大したことはないが、少し暑さ 中 ( あた )りしたらしいんだ。 ……すまないが、 午 ( ひる )から一 刻 ( とき )ほど、休ましてくれ」 「意気地のねえ野郎だな」 逞しい石曳き仲間は、 愍 ( あわ )れむように 嘲 ( あざけ )った。 「なんだい、その西瓜は。 喰えもしねえのに買ったのか」 「仲間にすまないから、みんなに喰べてもらおうと思って」 「そいつあ如才のねえこった。 おい、又八の 奢 ( おご )りだとよ、食ってやれ」 西瓜を持って、その男は、石の角へたたきつけた。 忽ち、そこらの仲間が 蟻 ( あり )のように寄って来て、赤いしずくの 滴 ( したた )る甘肉の破片を 貪 ( むさぼ )り合った。 「やあい、仕事だぞうっ」 石曳きの 小頭 ( こがしら )が、石のうえに上がって呶鳴った。 監督の侍が、 鞭 ( むち )を持って 陽除 ( ひよ )け小屋から出て来る。 遽 ( にわ )かに汗のにおいが大地にうごき、 馬蠅 ( うまばえ )までわんわん立つ。 「テコ」や「コロ」に乗せられた巨大な石が、一握りもある太い綱に曳かれて徐々に前へ出てゆくのだった、雲の峰がうごくように。 築城時代の現出は、それにつれて全国に、石曳き歌というものの流行を 興 ( おこ )した。 今、ここの人足たちが唄い出したのもそれである。 これにてなくば、うき世なるまじく見え 候 ( そろ )) 労働歌が絃歌になり、蜂須賀侯のような大名までが、 夜興 ( やきょう )の 口誦 ( くちずさ )みに 戯 ( たわむ )れたものとみえる。 街に歌がさかんになりだしたのは、何といっても太閤の世盛りからだった。 室町将軍の頃には、歌があっても 廃頽的 ( はいたいてき )な室内のものだけだった。 その頃は、児童がうたう歌まで、ひがみッぽい暗い歌が多かったが、太閤の世になってからは、歌も明るくなり大きくなり希望的になって、民衆はそれを汗をかきながら太陽の下でうたうことを甚だ好んだ。 関ヶ原の役の後、社会文化に家康色がだんだん濃くなってくると、歌もすこし変って来て、豪放さはうすくなった。 太閤様のころには、民衆からひとりでに歌が湧いてきたが、大御所の世間になってからは、徳川 家付 ( いえつき )の作者が作ったような歌が民衆へ提供されて来た。 「……ああ、苦しい」 又八は、頭をかかえた。 頭は火みたいに熱かった。 仲間のわめいている石曳き歌が、 虻 ( あぶ )に取り巻かれているように耳にうるさかった。 「……五年、五年。 アア五年働いていたらどうなるんだ。 一日稼いでは、一日分食ってしまい、一日休めば、一日食わずにいなけれやならない」 生唾 ( なまつば )も出しきって、青ざめた顔を 俯向 ( うつむ )けていた。 何思ったか、武者修行はそこへ坐りこんだ。 面積一坪ほどな 平石 ( ひらいし )の前にである。 坐ってみるとちょうど机の高さぐらいに 肱 ( ひじ )がつけるのだ。 「ふッ……ふッ……」 焦 ( や )けていた石の砂を息で吹く、砂とともに 蟻 ( あり )の列もふき飛んでゆく。 ふたつの肱をつくと、編笠はしばらく頬杖に乗っている。 陽ざかりで、石はみな照り返すし、草いきれは逆さに顔を撫でるし、さぞ暑いだろうに、身うごきもしない。 城の工事に眺め入っているのである。 少し離れた所に、又八がいることなどは、意に介さない様子であった。 又八もそこへ来てそういう 態 ( てい )をしている武者修行があろうとあるまいと、もとより自分に何の交渉があるわけではないし、頭や胸も依然として不快なので、時折、胃から 生唾 ( なまつば )を吐きながら、背を向けて休んでいた。 その苦しげな息を耳にとめたのだろう。 編笠がうごいて、 「石曳き」 と、声をかけ、 「どういたした?」 「へい……暑さ 中 ( あた )りで」 「苦しいのか」 「少し落ちつきましたが……まだこう吐きそうなんで」 「薬をやろう」 印籠を割って、黒い粒を 掌 ( てのひら )へうつし、起って来て又八の口へ入れてくれた。 「すぐ 癒 ( なお )る」 「ありがとう存じます」 「にがいか」 「そんなでもございません」 「まだ、貴様はそこで、仕事を休んでおるのか」 「へ……」 「誰か参ったら、ちょっとおれの方へ声をかけてくれ、小石で合図をしてくれてもいい、頼むぞ」 武者修行は、そういって、前の位置に坐りこむと、今度はすぐ矢立から筆を取り出し、半紙 綴 ( とじ )の 懐中 ( ふところ )手帖を石の上にひろげて、ものを書くことに没頭しはじめた。 笠のつば越しに、彼の眼のやりばが、間断なく城へ向ったり、城の外のほうへ行ったり、また城のうしろの山の線や、河川の位置や、天守などへ、転々とうごいてゆくところを見ると、その筆の先は、伏見城の地理と廓外廓内の眼づもりを、絵図に 写 ( と )っているにちがいなかった。 関ヶ原の 戦 ( いくさ )の直前に、この城は西軍の浮田勢と島津勢に攻められて、その 増田廓 ( ますだぐるわ )や 大蔵廓 ( おおくらぐるわ )や、また諸所の 塁濠 ( るいごう )などもかなり破壊されたものだったが、今では、太閤時代の旧観にさらに鉄壁の威厳を加えて、一衣帯水の大坂城を 睥睨 ( へいげい )していた。 「……あっ」 又八が、そういった時には、写図に一心になっている編笠のうしろへ、工事課役の大名の臣か、伏見の 直臣 ( じきしん )かわからないが、 草鞋 ( わらじ )ばきで、太刀を 革紐 ( かわひも )で背なかに負うた半具足の侍が、武者修行の気のつくまで、黙って立っていたのだった。 又八は正直にすまないと思った。 けれどもう遅い。 石を投げてやっても声をかけてやっても、もう遅い。 工事目付の侍は、その眼をじっと 睨 ( ね )め返して、石の上の見取図へだまって具足の手を伸ばした。 この炎天下の我慢と、 粒々 ( りゅうりゅう )の辛苦をして、やっと写した城の見取図が、ものもいわず、いきなり肩越しに出て来た手のために、 皺 ( しわ ) くちゃに 掴 ( つか )み 奪 ( と )られようとするのを見ると、武者修行は、火薬の塊りが火を呼んだように、 「何するかッ」 満身で呶鳴った。 手頸 ( てくび )をつかまえて立つと、工事目付は 奪 ( と )り上げた彼の写図帖を、奪り返されまいとして、宙へその手をさしあげつつ、 「見せろ」 「無礼なッ」 「役目だ」 「なんであろうが」 「見ては悪いものか」 「悪いっ。 貴様などが見たってわかるもんじゃない」 「とにかく預る」 「いかん!」 帖の写図は、双方の手に裂かれて、半図ずつ握りしめた。 「曳ッ立てるぞ、素直にせぬと」 「どこへ」 「奉行所へ」 「貴様、役人か」 「然り」 「何番の。 誰の」 「左様なこと、汝らが、訊かんでもいい。 ……とにかくこれは返せん、其方も一応取りただすによって、あっちまで来い」 「あっちとは」 「工事奉行のお 白洲 ( しらす )」 「おれを罪人扱いするのか」 「だまって参るのだ」 「役人、こらっ。 見廻りは、青すじを立てた。 掴んでいた写図の破れを、地へすてて踏みにじり、二尺余りの長い十手を腰から抜いた。 武者修行の手が刀へかかったら、すかさず、その 肱 ( ひじ )へ十手の打撃を入れてやろうとするもののように、腰を 退 ( ひ )いて身構えたが、その様子もないので、もう一度、 「歩かんと、縄を打つぞ」 ことばの終らないうちに、武者修行のほうから一歩出て来た。 何か大きな声を発したと思うと、見廻りは首の根をつかみ寄せられていた。 武者修行の片手はまた、彼の 鎧帯 ( よろいおび )の腰をつかんで、 「この、虫けら」 巨石 ( おおいし )の角へ向って 抛 ( ほう )り投げた。 見廻りの 侍頭 ( さむらいがしら )は、 先刻 ( さっき )そこで石曳きの男がたたき割った西瓜のようになって、形を失ってしまった。 「……アッ」 又八は、顔を抑えた。 真っ赤な味噌みたいなものが彼のいる辺りまで 刎 ( は )ねて来たからである。 平然たるものは、 彼方 ( あなた )の武者修行であった。 よほどこんな殺人に馴れているのか、また一気に憤りを爆発させて後の涼しさに落着いているのか、とにかく、あわてて逃げ出す様子もなく、見廻りの足で踏みにじられた写図の断片と、そこらに散らばっている 反古 ( ほご )をひろい集め、次に、相手を投げる途端に 紐 ( ひも )が切れて飛んで行った編笠を、静かな目で捜している。 「…………」 又八は、凄惨な気に打たれていた。 恐ろしい力量を見て自分の毛穴までよだっている。 陽焦 ( ひや )けのした骨太の顔に薄 あばたがあり、耳の下から顎にかけて四半分ほど顔がない。 ないというのはおかしいが、太刀で斬られた 痕 ( きずあと )の肉が変に縮んでしまったのかも知れない。 その耳の裏にも黒い 刀痕 ( とうこん )があり、左の手の甲にも刀傷がある。 笠を拾って、怪異なその顔へかむると、武者修行はさっと足を速めた。 風のように彼方へ向って逃げ出したのである。 勿論、そこまでの行動は極めて短い間だった。 それは丸太組の 櫓 ( やぐら )のうえにいる 棟梁衆 ( とうりょうしゅう )や作事与力の上役だった。 そこから突然、大きな声が放たれたと思うと、櫓の下の湯呑み所の板がこいの中で、大釜の火にいぶされながら働いていた足軽たちが、 「なんだ?」 「何だ」 「また、喧嘩か」 と、外へ飛び出した。 もうその時は、作業場と町屋の境に出来ている 竹矢来 ( たけやらい )の木戸で、真っ黒にかたまった人間の怒号が黄いろい 埃 ( ほこり )につつまれていた。 「 間者 ( かんじゃ )だな! 大坂の」 「 性懲 ( しょうこ )りもなく」 「ぶっ殺せ」 口々にいって、 石工 ( いしく )や土工や工事奉行の配下は、みな自分の敵でもいるように駈け集まって行く。 半分 顎 ( あご )のない武者修行が捕まったのだ。 竹矢来の外へ出て行く牛車の蔭にかくれて、すばやく木戸の口をすり抜けようとしたが、そこの番衆たちに挙動を怪しまれて、釘の植わっている 刺叉 ( さすまた )という 柄 ( え )の長い道具で、いきなり足を 搦 ( から )み取られたのであった。 そこへ、 櫓 ( やぐら )の上からも、 「その編笠を引ッ捕えろっ」 と、呼ばわる声が同時にあったので、理由などは問わず、遮二無二、組み伏せにかかると、武者修行は形相をあらためて、野獣のように死にもの狂いとなった。 刺叉を引っ 奪 ( た )くられた男が、真っ先にその得物の先で髪を引っかけられた。 四、五人叩き伏せておいて、虚空へさっと 閃 ( ひらめ )かしたのは彼の腰に横たえていた 胴田貫 ( どうたぬき )らしい大太刀である。 平常 ( ふだん )の 差刀 ( さしもの )には頑丈すぎるが、陣太刀にすれば手ごろである。 すると、危険を避けて人間はわっと散らかったが、途端に八方から小石が降って来たのである。 「 殺 ( や )っちまえ」 「たたっ殺してしまえっ」 肝腎 ( かんじん )な侍たちが臆して近よらないので、平常、武者修行というものに対して、彼らは少しばかりの知識や学問を鼻にかけ、世の中をただ威張って横に歩くのを見栄にしている無産の 僻 ( ひが )み者か、一種の逸民と認めて、それに反感を抱いている石工だの土工だのという労働者たちが、 「 殺 ( や )っちまえ」 「のしちまえ」 と叫んで、四方から 抛 ( ほう )りつける、それは無数の石つぶてであった。 「この 凡下 ( ぼんげ )どもめ!」 駈け入れば、わッと散るのだ。 武者修行の眼はもう自分の生きる路を見つけるよりも、その石の来るほうの人間へ向って、理智や利害を越えている。 怪我人 ( けがにん )も多く出たし、死者も幾人かあったのに、それから一瞬の後は、めいめい職場にかえって、けろりとした工事場の広さであった。 何事もなかったように、石曳きは石を曳き、土工は土をかつぎ、 石工 ( いしく )は 鑿 ( のみ )で石を割っている。 鑿 ( のみ )が火花を出す暑い音、 霍乱 ( かくらん )をおこして暴れくるう馬のいななき、残暑の空は、午後に入って、じいんと 鼓膜 ( こまく )が馬鹿になるような熱さだった。 伏見城から淀のほうへ背のびをしている雲の峰は、しばらくうごきもしなかった。 「もう九分九厘まで、くたばっているが、御奉行が来るまでこうして置くから、 汝 ( てめえ )そこにいて、こいつの番をしておれ。 「……人間なんて、つまんねえものだな。 たった今そこで、城の見取図を写していた男が」 又八のにぶい 眸 ( ひとみ )は自分から十歩ほど先の地上にある一個の物体を見つめたまま、最前からぽんやりと虚無的な考えに囚われている。 「……もう死んでるらしい。 まだ三十前だろうに」 と彼は思い 遣 ( や )った。 顎の半分ない武者修行は、太い麻縄で縛られて、血に土のまぶされた黒い顔を、無念そうにしかめたまま、その顔を横伏せにして倒れている。 縄尻はそばの 巨 ( おお )きな石に巻きつけてあるのだった。 もう「ウ」も「ス」もいい得ない死人の体をそう 大仰 ( おおぎょう )に 縛 ( くく )っておかないでもよさそうなものと又八はながめていたことだった。 何で撲られたのか、破れた 袴 ( はかま )から変な恰好して露出している脚の 脛 ( すね )は、肉が 弾 ( はじ )けて折れた白骨の先が飛び出していた。 髪は 粘 ( ねば )って血を噴いているし、その血へは 虻 ( あぶ )がたかり、手や脚にはもう 蟻 ( あり )の群れが這っている。 「武者修行に出たからには、のぞみを抱いていたろうに。 親はあるのかないのか」 そんなことを 思 ( おも )い 遣 ( や )ると、又八はいやな気持に襲われて、武者修行の一生を考えているのか、自分の身の果てを考えているのか、分らなくなってきた。 「望みをもつにも、もっと悧巧に出世する道がありそうなものだ」 と、つぶやいた。 時代は若い者の野望を 煽 ( あお )って、「若者よ夢を持て」「若者よ起て」と未完成から完成への過渡期にあった。 又八ですらその社会の空気を感じるほど、今は、裸から一国一城の 主 ( あるじ )を望める時である。 その多くが武者修行の道をとるのだ。 武者修行をして歩けば今の社会では到るところで衣食に事を欠くことはない。 田夫野人でも武術には関心をもっているからだ。 寺院へ頼っても渡れるし、あわよくば地方の豪族の客となり、なお、幸運にぶつかれば、一朝事のある場合のために、大名の経済から「捨て 扶持 ( ぶち )」「蔭扶持」などというものを 貢 ( みつ )がれることもある。 だが数多い武者修行の中で、そういう幸運にあう者がどれほどあろうかといえば、これは極めて少数にちがいない。 功成り名を遂げ、一人前の 禄 ( ろく )取りになるほどの者は一万人中で二人か三人を出ないであろう。 (馬鹿馬鹿しい……) 又八は、同郷の友の宮本武蔵が行った道を 憐 ( あわれ )んだ。 おれは将来、奴を見返してやるにしても、そんな愚かな道はとらないぞと思う。 ここに死んでいる顎のない武者修行のすがたを見てもそう思う。 「……おやっ?」 又八は飛び 退 ( の )いて大きな眼をすえた。 なぜならば、死んだものときめていた蟻だらけの武者修行の手がびくっと動き出して、縄目の間から 鼈 ( すっぽん )のような手首だけを出して大地へつき、やがてむくりと、腹を上げ、顔を上げ、次に前のほうへ一尺ばかり、ずるりと這い出して来たからであった。 ぐ……と 生唾 ( なまつば )をのんで又八はなおも後へ 摺 ( ず )り 退 ( さ )がった。 腹の底から驚きを感じると声も出ないものだ。 ただ眼のみ大きくみひらいて、目前の事実に茫失した。 「……ひゅっ……ひゅっ……」 彼は、何かいおうとするらしい。 彼とは顎の半分ない武者修行である。 完全に死んでいると思っていたこの男は、まだ生きていたのだ。 ……ヒュッ、ヒュッと 断 ( き )れ 断 ( ぎ )れに彼の呼吸が 喉 ( のど )で鳴るのである。 唇は黒く 渇 ( かわ )いてしまって、そこから言葉を吐くのはもう不可能な 業 ( わざ )であった。 それを必死に一言でもいおうとするので、呼吸が割れた笛の鳴るような音を出すのだった。 又八が驚いたのは、この男が生きていたからではない。 胸の下に縛りつけられている両手で這って来たからだ。 それだけでも、驚くに足る人間の死力であるのに、その縄尻の巻きつけてある何十貫もあろう 巨石 ( おおいし )が、この瀕死の 傷負 ( ておい )が引っ張る力で、ズル、ズル……と一、二尺ずつ前へ動いて来たからである。 まるで、化け物のような怪力だ。 この工事場の労働者のうちにも、ずいぶん力自慢があって、十人力とか二十人力とか自称している天狗もあるが、こんな化け物は一人もいない。 しかも、この武者修行は、今や死なんとしている体なのだ。 「……しょっ……しょっ……お、お、おねがい」 また何か、変った 語音 ( ごいん )を出していう。 意味はまったく分らない。 「……たっ……た……たのむ……」 がくっと首を前へ折った。 こんどはほんとに息が絶えたのだろう、見ているうちに 襟 ( えり )首の皮膚の色が青黒く沈んで行った。 草むらの蟻がもう白っぽい髪の毛にたかっている。 血のかたまった鼻の穴を一匹はのぞきこんでいた。 「? ……」 何を頼まれたのか、又八は 茫 ( ぼう )としているだけだった。 けれどこの怪力の武者修行が 臨終 ( いまわ )の一念は、自分へ 憑 ( つ )き物のようについていて 違 ( たが )えることのできない約束の負担を負わされたような気持がしてならない。 お城は 暮靄 ( ぼあい )にかすんで来た。 いつのまにかもう 黄昏 ( たそが )れかけて、伏見の町には早い 灯 ( あか )りがポツポツ 戦 ( そよ )ぎだしている。 「そうだ……何かこの中に」 又八は、死者の腰に結びつけている武者修行風呂敷をそっと触ってみた。 (故郷の土へ、 遺物 ( かたみ )を届けてくれというのだろう) そう彼は判断した。 包みと印籠を、死者の体から取って、自分の 懐中 ( ふところ )へ入れた。 石の蔭から見ると、奉行配下の侍たちだ。 又八は、死骸から無断で取った品物が自分の 懐中 ( ふところ )にあると思うと、自分の危険を感じて、そこにいたたまらなくなった。 夕ぐれの風はもう秋だった。 糸瓜 ( へちま )は大きくなっている。 その下で、 盥 ( たらい )の湯に 浴 ( つ )かっている駄菓子屋の女房が、家の中の物音に、戸板の蔭から白い肌を出していった。 「誰だえ。 又八さんかい?」 又八はこの家の同居人だった。 今、あたふたと帰って来ると、戸棚を掻廻して、一枚の 単衣 ( ひとえ )と 一腰 ( ひとこし )の刀を出し、姿をかえると、手拭で 頬冠 ( ほおかむ )りして、またすぐ草履を 穿 ( は )こうとしていた。 「暗かろ、又八さん」 「なに、べつに」 「今すぐ 灯 ( あか )りをつけるで」 「それには及ばないよ、出かけるから」 「行水は」 「いらん」 「体でも拭いて行ったら」 「いらん」 急いで裏口から飛び出して行った。 といっても、垣も戸もない草原つづきである。 彼が長屋から出て来ると入れちがいに、数名の人影が、 萱 ( かや )の 彼方 ( かなた )を通って、駄菓子屋の裏表へ入ってゆくのが見えた。 工事場の侍が 交 ( ま )じっていた。 又八は、 「あぶない所だった」 と 呟 ( つぶや )いた。 顎の半分ない武者修行の死体から、包みや 印籠 ( いんろう )を取った者のあることは、その後ですぐ発見された筈である。 当然、その側にいた自分に盗人の嫌疑がかかったに相違ない。 「だが……俺は盗みをしたのじゃない。 死んだ武者修行の頼みにやむなく持物を預かって来たのだ」 又八は 疚 ( やま )しくなかった。 その品は 懐中 ( ふところ )に持っている。 これは預かった物だと意識しながら持っている。 「もう石曳きに行かれない」 彼は、 明日 ( あした )からの放浪に、なんの あてもなかった。 しかし、こういう転機でもなければ、何年でも石を曳いているかも知れないと思うと、かえって先が明るく考えられる。 萱 ( かや )の葉が肩までかかる。 夕露がいっぱいだ。 遠くから姿を発見される 惧 ( おそ )れがなくて逃げるには気楽だ。 さてこれからどっちへゆくか? どっちへ行こうと体一つである。 何かいい運だの悪い運だのがいろいろな方角で自分を待っているらしく思う。 今の足の向き方ひとつで生涯に大きな違いが生じるのだ。 必然、こうなるものだと決定された人生などがあろうとは考えられない。 偶然にまかせて歩くよりほか仕方がない。 賽 ころに必然がないように、又八にも必然がないのだった。 何かここに起ってくる偶然があれば、それに引かれて行こうと思う。 だが、伏見の里の萱原には、歩けど歩けど何の偶然もなかった。 虫の音と露とが深くなるばかりだった。 単衣 ( ひとえ )のすそはびっしょり濡れて足に巻きつき、草の実がたかって、 脛 ( すね )がむず 痒 ( がゆ )い。 又八は、昼の病苦をわすれた代りに、すっかり 飢 ( ひも )じくなっていた。 胃液まで空っぽなのだ。 追手の心配がなくなってからは、急に歩くことが苦痛になっていた。 「……何処かで寝たいものだ」 その慾望が彼を無意識にここへ運んで来たのである。 それは野末に見えた一軒の 屋 ( や )の 棟 ( むね )だった。 近づいてみると垣も門も暴風の時に傾いたまま誰も起してやり手がない。 おそらく屋根も満足なものではあるまい。 しかし一度は貴人の別荘とされて、都あたりから、糸毛の 輦 ( くるま )に ( ろう )たけた麗人が、萩を分けて通ったこともありそうな 家造 ( やづく )りなのである。 又八はその無門の門を通って中へ入り、秋草の中に埋まっている 離亭 ( はなれ )や 母屋 ( おもや )をながめて、ふと玉葉集の中にある西行の、 ちょうどよい 塒 ( ねぐら )とここに一夜を明かしている虚無僧らしいのである。 炉 ( ろ )の火が赤く立つと、大きな人影が 婆娑 ( ばさ )として壁に映る。 独り尺八を吹いているのだ。 それはまた 他人 ( ひと )に聞かそうためでもなく自ら誇って陶酔している 音 ( ね )でもない。 秋の夜の孤寂の 遣 ( や )る瀬なさを、無我と 三昧 ( さんまい )に過ごしているだけのことなのだ。 ……考えれば 慚愧 ( ざんき )にたえない。 死んだ妻にも生きている子にも会わせる顔がない。 ……このおれなどの例を見ると、四十不惑などというのは聖人のことで、凡夫の四十だいほど危ないものはない。 油断のならない山坂だ。 まして女に関しては」 胡坐 ( あぐら )の前に、尺八を 縦 ( たて )に突き、その歌口へ両手をかさねて、 「二十だい、三十だいの年でも、由来おれは、やたらに女のことで失敗をやって来たが、そのころにはどんな醜聞をさらしても、人も許してくれたし、生涯の 怪我 ( けが )にもならなかった。 ……ところが、四十だいとなると、女に対してすることが 厚顔 ( あつか )ましくもなるし、それがお 通 ( つう )の場合のような事件になると、今度は世間がゆるさない。 そして、致命的な外聞になってしまった。 禄も家もわが子にも離れるような失敗になってしまった。 ……そして、この失敗も、二十だい三十だいなら取り返せるが、四十だいの失敗は二度と芽を出すことがむずかしい」 盲人のように 俯向 ( うつむ )いたまま、声を出してそういっているのである。 「アア……それを……おれは……」 虚無僧は、天井を仰向いた。 骸骨 ( がいこつ )のように鼻の穴が大きく又八のほうから見える。 凡 ( ただ )の浪人の 垢 ( あか )じみた着物を着て、その胸に、 普化禅師 ( ふけぜんじ )の末弟という 証 ( しるし )ばかりに黒い 袈裟 ( けさ )をつけているに過ぎないのである。 敷いている一枚の 筵 ( むしろ )は、常に巻いて手に持って歩く彼の唯一の 衾 ( ふすま )であり雨露の家だった。 …… 慚愧 ( ざんき )のいたりだ」 誰かに向って謝っているように、虚無僧は頭を下げて、さらにまた下げて、 「おれはいい、おれは、それでも、いいとしよう。 おれのした結果は、おれに 酬 ( むく )うより、あの城太郎のほうへより多く 祟 ( たた )っている。 とにかく、姫路の池田侯に藩臣としてこのおれが 歴乎 ( れっき )としていれば、あの子だって、千石侍の一人息子だ。 それが今では、 故郷 ( くに )を離れ、父を離れ……。 イヤそれよりも、あの城太郎が成人して、この父が、四十だいになってから、女のことで藩地から放逐されたなどと知る日が来たら、おれはどうしよう。 ……おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。 そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」 尺八を持って、彼は外へ出て行った。 妙な虚無僧である。 よろよろ立ってゆく時、物蔭から又八が見ていると、その痩せこけた 鼻下 ( びか )にはうすい どじょう 髭 ( ひげ )が生えていたように思う。 そう年を 老 ( と )っているほどでもないのに、ひどくよぼよぼした足元だった。 ぷいと出て行ったきり、なかなか戻って来ないのだ。 少し精神に異常があるのだろうと、又八は不気味に思う半面にあわれな気もした。 それはいいが、物騒なのは、炉に残っている火であった。 ぱちぱちと夜風がそれを 煽 ( あお )っている。 燃え折れた柴の火は、床を 焦 ( こ )がしているではないか。 「あぶねえ、あぶねえ」 又八はそこへ行って、 土瓶 ( どびん )の水をじゅっとかけた。 これが野中の破れ 邸 ( やしき )だからいいようなものの 飛鳥朝 ( あすかちょう )や鎌倉時代の二度と地上に建てることのできない寺院などであったらどうだろうと考えて、 「あんなのがいるから、奈良や高野にも火事があるんだ」 と彼は、虚無僧の去ったあとに自分が坐って、がらにもない公徳心を呼び起していた。 家産や妻子もない代りに、社会への公徳心も絶無な浮浪者には、火が怖いものという観念も全くないらしい。 だから彼らは、 金堂 ( こんどう )の壁画の中ですら平然と火を燃やす。 世の中に無用に生きているに過ぎない一個の 空骸 ( むくろ )を暖めるために火を燃やす。 「だが……浮浪人だけが悪いともいえねえな」 又八は自分も浮浪人であることを思って考えた。 今の世の中ほど浮浪人が多い社会はない。 それは何が生んだかといえば、 戦 ( いくさ )だった。 戦によってぐんぐん地位を占めてゆく者も多い代りに、 芥 ( あくた )のように捨てられてゆく人間の数も実に 夥 ( おびただ )しい。 これが次の文化の 手枷 ( てかせ )、足枷となるのもやむを得ない自然の因果といえよう。 そういう浮浪の徒が、国宝の塔を 焚火 ( たきび )で焼く数よりは、戦が、意識しつつ、高野や 叡山 ( えいざん )や皇都の物を焼いたほうが、遥かに大きな地域であった。 「……ほ。 洒落 ( しゃれ )たものがあるぞ」 又八はふと横を見てつぶやいた。 ここの炉も床の間も、改めて見直せば、元は茶屋にでも使っていたらしい 閑雅 ( かんが )な造りなのである。 そこの 小床 ( ことこ )の棚に、彼の眼をひいた物がある。 高価な 花瓶 ( はないけ )や香炉などではない。 口の欠けた徳利と、黒い 鍋 ( なべ )だった。 鍋には食べ残した 雑炊 ( ぞうすい )がまだ半分残っているし、徳利は振ってみると、ごぼっと音がして、欠けた口から酒がにおう。 「ありがたい」 こういう場合、人間の胃は、他の所有権を考えている 遑 ( いとま )はない。 徳利の濁り酒をのみ、鍋を 空 ( から )にして、又八は、 「ああ、腹が 満 ( は )った」 ごろんと手枕になる。 トロトロと炉の火もとに眠りかける。 雨のように野は虫の音に 更 ( ふ )けてゆく。 戸外ばかりでなく、壁も啼く、天井も啼く、破れ畳も啼きすだく。 「そうだ」 何か思い出したとみえる。 むくりと彼は起き直った。 そう急に思いついたらしい。 解いてみた。 中から出て来たのは、洗いざらした 襦袢 ( じゅばん )だの普通の旅行者の持つ用具などであったが、その 着 ( き )がえをひろげてみると、いかにも大事そうに、油紙でくるんである巻紙大の物と路銀の金入れであろう、どさっと重い音が膝の前に落ちた。 むらさき 革 ( がわ )の 巾着 ( きんちゃく )であった。 その金入れの中には、金銀 取交 ( とりま )ぜてだいぶの額が入っていた、又八は数えるだけでも自分の心が怖くなって、思わず、 「これは 他人 ( ひと )の 金 ( かね )だ」 と、殊さらにつぶやいた。 もう一つの油紙に包んであるものを開いてみると、これは一軸の巻物である。 軸には 花梨 ( かりん )の木が用いてあり、表装には 金襴 ( きんらん )の 古裂 ( ふるぎ )れが使ってあって、何となく秘品の紐を解く気持を 抱 ( いだ )かせられる。 「何だろ?」 全く見当のつかない品物だった。 もっとも、その又八にでも、伊藤弥五郎景久といえばすぐ、 (アアあの一刀流を創始して、一刀斎と号している達人か) と合点がゆくであろうが、その伊藤一刀斎の師が、鐘巻自斎という人で、またの名を 外他通家 ( とだみちいえ )といい、まったく社会からは忘れられている、富田入道 勢源 ( せいげん )の正しい道統をうけついで、その晩節をどこか 辺鄙 ( へんぴ )な田舎に送っている高純な士であるなどということはなおさら知らない。 この目録をみても分るが、中条流の印可をうけているのだもの。 惜しい死に方をしたものだな。 ……さだめしこの世に心残りなことだったろう。 あの最期の顔は、いかにも死ぬのが残念だという顔つきだった。 これを郷里の 知 ( し )る 辺 ( べ )へでも届けてくれといいたかったに違いない」 又八は、死んだ佐々木小次郎のために、口のうちで、念仏をとなえた。 そしてこの二品は、きっと死者の望むところへ届けてやろうと思った。 肌寒いので寝ながら炉の中へ柴を投げこんで、その炎にあやされながらウトウト眠りかけた。 ここを出て行った奇異な虚無僧が吹いているのであろう、遠い 野面 ( のづら )から尺八の音が聞えて来る。 何を求め、何を呼ぶのか。 彼が出て行く折につぶやいたように、愚痴と煩悩を捨て切ろうとする必死がこもっているせいかも知れない。 野は灰色に曇っている。 今朝 ( けさ )の涼しさは「立つ秋」を思わせ、眼に見るものすべてに露がある。 戸の吹き仆されている 厨 ( くりや )に、狐の足痕がまざまざ残っていた。 夜が明けても、 栗鼠 ( りす )はそこらにうろついている。 「アア、寒い」 虚無僧は、眼をさまして、広い台所の板敷へかしこまった。 夜明け頃、ヘトヘトになって戻って来ると、尺八を持ったまま、ここへ横になって眠ってしまった彼である。 うす汚い 袷 ( あわせ )も 袈裟 ( けさ )も、夜もすがら野を歩いていたために、狐に 魅 ( ば )かされた男のように草の実や露でよごれていた。 きのうの残暑とは比較にならない陽気なので、 風邪 ( かぜ )をひき込んだのであろう、鼻のうえに 皺 ( しわ )をよせ、鼻腔と眉を一緒にして、大きな 嚔 ( くさめ )を一つ放つ。 ありやなしやの薄い どじょう 髭 ( ひげ )の先に、鼻汁がかかった。 恬 ( てん )として、虚無僧はそれを拭こうともしないのである。 「……そうじゃ、ゆうべの濁り酒がまだあったはず」 つぶやいて 起 ( た )ち上がり、そこも狐狸妖怪の 足痕 ( あしあと )だらけな廊下をとおって、奥の炉のある部屋をさがしてゆく。 捜さなければ分らないほど、この空屋敷は昼になってみるとよけいに広いのである。 あるべきところに酒の壺がないのだ。 しかしそれはすぐ炉のそばに横たわっているのを発見したが、同時に、その 空 ( から )の 容器 ( いれもの )とともに、 肱枕 ( ひじまくら )をして、 涎 ( よだれ )をながして眠っている見つけない人間をも見出し、 「誰だろ?」 及び腰に覗き込んだ。 よく眠っている男だった。 撲りつけても眼を 醒 ( さ )ましそうもない 大鼾声 ( おおいびき )をかいているのである。 まだ事件があった。 今朝の朝飯として食べのこしておいた 鍋 ( なべ )の飯が、見れば底をあらわして一粒だにないではないか。 虚無僧は顔いろを変えた。 死活の問題であった。 「やいっ」 蹴とばすと、 「ウ……ウむ……」 又八は、 肱 ( ひじ )を 外 ( はず )してむっくと首をあげかけた。 「やいっ」 つづいて、もう一ツ、眼ざましに 足蹴 ( あしげ )を食らわすと、 「何しやがる」 寝起きの顔に、青すじを立てて、又八はぬっくと起ち上がった。 「おれを、足蹴にしたな、おれを」 「したくらいでは、腹が癒えんわい。 おのれ、誰に断って、ここにある 雑炊飯 ( ぞうすいめし )のあまりと酒を食らったか」 「おぬしのか」 「わしのじゃ!」 「それやあ済まなかった」 「済まなかったで済もうか」 「 謝 ( あやま )る」 「謝るとだけでことは納まらん」 「じゃあ、どうしたらいいんだ」 「かやせ」 「 返 ( かえ )せたって、もう腹の中に入って、おれの今日の 生命 ( いのち )のつなぎになっているものをどうしようもねえ」 「わしとて、生きて行かねばならん者だ。 一日尺八をふいて、人の 門辺 ( かどべ )に立っても、ようよう貰うところは、 一炊 ( ひとかし )ぎの米と 濁酒 ( どぶろく )の一合の 代 ( しろ )が関の山じゃ。 ……そ、それを無断であかの他人のおのれらに食われて 堪 ( たま )ろうか。 かやせ! かやせ!」 餓鬼の声である。 どじょう 髭 ( ひげ )の虚無僧は、飢えている顔に青すじを立て 威猛高 ( いたけだか )に 喚 ( わめ )いた。 飢えた野良猫にひとしい虚無僧の細っこい骨ぐみだった。 叩きつけて、一振りに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、襟がみをつかまれながら、又八の喉輪へつかみかかって来た虚無僧の力には、案外な 粘 ( ねば )りがある。 「こいつ」 と、 力 ( りき )み直したが、相手の足もとは、どうして、 確 ( しっ )かりとしたものだ。 かえって又八が顎をあげて、 「うッ……」 妙な声をしぼりながら、どたどたっと次の部屋まで押し出され、それを食い止めようとする力を利用されて、手際よく、壁へ向って投げ捨てられた。 根太も柱も 腐蝕 ( くさ )っている屋敷である。 一堪りもなく壁土が崩れて、又八は全身に泥をかぶった。 「ペッ……ペッ……」 猛然と 唾 ( つば )して立つと、ものをいわない代りに、凄い血相が刃物を抜いて、跳びかかってきた。 虚無僧も心得たりという応対で、尺八をもって渡りあう。 しかし情けないことにはすぐ 息喘 ( いきぎ )れが出て来て、尖った肩でせいせいいうのだ。 それに反して又八の肉体はなんといっても若かった。 「ざまを見ろッ」 圧倒的に又八は、斬りかけ斬りかけして、彼に息をつく間を与えない。 虚無僧は化けて出そうな顔つきになった。 体の飛躍を欠いてともすると蹴つまずきそうになる。 そのたびに何ともいえない死に際のさけびを放った。 そのくせ八方に逃げ廻って、容易には太刀を浴びないのである。 しかし結果は、その誇りが又八の敗因となった。 虚無僧が猫のように庭へ跳んだので、それを追うつもりで廊下を踏んだ途端に、雨に朽ちていた縁板がみりっと割れた。 片足を床下へ突っこんで、又八が尻もちをついたのを見ると、得たりと 刎 ( は )ね返して来た虚無僧が、 「うぬ、うぬ、うぬっ」 胸ぐらを取って、顔といわず 鬢 ( びん )たといわず、 撲 ( なぐ )りつけた。 脚がきかないので又八はどうにもならなかった。 自分の顔が見るまに四斗樽のように 腫 ( は )れたかと思う。 撲られるたびに 美 ( い )い 音 ( ね )がして、貨幣はそこらに散らかった。 又八もやっと彼の手をのがれて 跳 ( と )び 退 ( の )いた。 自分の 拳 ( こぶし )が痛くなるほど、憤怒を出しきった虚無僧は、肩で息をしながら、あたりにこぼれた金銀に眼を奪われていた。 「やいっ、畜生め」 腫 ( は )れ上がった横顔を抑えながら又八は、声をふるわせてこういった。 「な、なんだっ、鍋底のあまり飯くらいが! 一合ばかしの 濁酒 ( どぶろく )が! こう見えても、金などは腐るほど持っているんだ。 餓鬼め、ガツガツするな。 それほどほしけれやあ、くれてやるから持ってゆけっ。 その代り、今てめえが俺を撲っただけ、こんどは俺が撲るからそう思えっ。 アア、あさましい。 どうしておれはこう馬鹿なのか」 もう又八へ対していっているのではない、ひとりで 悶 ( もだ )え悲しんでいるのだ。 その自省心の烈しいことも、常人とは変っていて、 「この馬鹿、貴さまは一体、 幾歳 ( いくつ )になるのか。 こんなにまで、世の中から落伍して、 落魄 ( おちぶ )れ果てた目をみながら、まだ 醒 ( さ )めないのか、 性 ( しょう )なしめ」 そばの黒い柱へ向って、自分の頭をごつんごつん 打 ( ぶ )つけては泣き、打つけては泣き、 「何のために、 汝 ( おのれ )は尺八をふいているか。 愚痴、邪慾、迷妄、我執、煩悩のすべてを六孔から吐き捨てるためではないか。 しかも息子のような年下の若者と」 ふしぎな男だ。 そういって口惜しげにベソを掻くかと思うと、また、自分の頭を、柱に向って叩きつけ、その頭が二つに割れてしまわないうちは 止 ( や )めそうもないのである。 その自責からする 折檻 ( せっかん )は、又八を撲った数よりも遥かに多い。 又八は 呆 ( あ )っけにとられていたが、青ぶくれになった虚無僧の額から血がにじみ出て来たので、止めずにいられなくなった。 「ま、ま、 止 ( よ )したらどうだ、そんな無茶な真似」 「 措 ( お )いて下され」 「どうしたんだい」 「どうもせぬ」 「病気か」 「病気じゃござらぬ」 「じゃあなんだ」 「この身が 忌々 ( いまいま )しいだけじゃ。 かような肉体は、自分で打ち殺して、 鴉 ( からす )に喰わせてやったほうがましじゃが、この愚鈍のままで殺すのも忌々しい。 せめて人なみに 性 ( しょう )を得てから、野末に捨ててやろうと思うが、自分で自分がどうにもならぬので 焦 ( じ )れるのじゃ。 ……病気といわれれば病気かのう」 又八は、何か急に気の毒になって来て、そこらに落ちている金を拾いあつめて、幾らかを彼の手に握らせながら、 「おれも悪かった、これをやろう。 これで勘弁してくれ」 「いらん」手を引っこめて、 「金など、いらん、いらん」 鍋の残り飯でさえ、あんなに怒った虚無僧が、けがらわしい物でも見るように、強く首を振って、膝まで後へ 退 ( さ )がってゆく。 「変な人だな、おめえは」 「さほどでもござらぬ」 「いや、どうしても、少しおかしいところがあるぜ」 「どうなとしておかれい」 「虚無僧、おぬしには、時々、中国 訛 ( なま )りが 交 ( ま )じるな」 「姫路じゃもの」 「ほ……。 ……吉野郷とはなつかしいぞ。 わしは、日名倉の番所に、目付役をして詰めていたことがあるで、あの辺のことは相当に知っておるが」 「じゃあ、おぬしは、元姫路藩のお侍か」 「そうじゃ、これでも以前は、武家の 端 ( はし )くれ、青木……」 名乗りかけたが、今の自分を 省 ( かえり )みて、人前に身を置いているに耐えなくなったか、 「嘘だ、今のは、嘘じゃよ。 どれ……町へながしに行こうか」 ぷいと立って、野へ歩み去った。 費 ( つか )ってならない金だと思うにつけて気になるのだ。 たんとは悪いが、少しぐらいは、この中から借りて費ったところで罪悪にはなるまいと遂には思う。 「死者の頼みで、その 遺物 ( かたみ )を、郷里へ届けてやるにしても、路銀というものが 要 ( い )る。 当然、その費用は、この内から 費 ( つか )ったとて 関 ( かま )うまい」 又八はそう考えてから、幾分気が軽くなった。 だが、金のほかに死者から預かっている「中条流印可目録」の巻物のうちにある佐々木小次郎とは、一体どこが 生国 ( しょうごく )だろうか。 唯一の頼りは、佐々木小次郎に対して、印可目録を授けている 鐘巻自斎 ( かねまきじさい )という剣術の師匠だ。 その自斎がわかれば、小次郎の素姓もすぐ知れよう。 それについて、又八も伏見から大坂へ下って来る道々、茶店、飯屋、 旅籠 ( はたご )と折のあるごとに、 「鐘巻自斎という剣術のすぐれた人がいるかね」 訊 ( たず )ねてみたが、 「聞いたこともないお人ですなあ」 と、誰もいう。 「富田 勢源 ( せいげん )の流儀をひいている中条流の大家だが」 と、いってみても、 「はてね?」 まったく知る者がないのである。 たしか、関東に出て、晩年は上州のどこか山里にかくれたきり、世間へ出なかったように聞いておる。 富田主水正とは何かと訊くと、秀頼公の兵法師範役のうちの一人で、たしか、越前 宇坂之庄 ( うさかのしょう )の浄教寺村から出た富田入道勢源の一族の者だったと思うがという話。 すこし、あいまいな気もしたが、とにかく大坂へ出るつもりだし、又八は、市街へ入るとすぐ、目抜きの町の 旅籠 ( はたご )へ泊って、そんな侍が御城内にいるか否かを訊いてみると、 「はい、富田勢源様のお孫とかで、秀頼公のお師範ではありませんが、御城内の衆に兵法を教えていたお方はございましたが、それはもう古い話で、数年前に越前の国へお帰りになっております」 これは、宿の者のいうところだった。 町人とはいえ、城内の用勤めもしている家の者のいうことであるから、前の侍のことばよりはよほど真実味のある話だった。 あの方もたしか、中条流の鐘巻自斎という人のところで修行なされて、後に、一刀流という独自な流儀をお 創 ( はじ )めになったのですから」 それも一理ある忠告であった。 だが、その弥五郎一刀斎の居所をさがしてみると、これも近年まで洛外の白河に、一庵をむすんでいたが、近頃はまた、修行に出たのか、 杳 ( よう )としてその影を京大坂の附近では見かけたことがないと誰もいう。 「ええ、面倒くせえ」 又八は、 匙 ( さじ )を投げた。 眠っていた野心的な若さを、又八は、大坂へ来てからたたき起された。 ここではさかんに、人物を需要しているのだった。 伏見城では、新政策や武家制度を組んでいるが、この大坂城では、人材を 糾合 ( きゅうごう )して、牢人軍を組織しているらしかった。 もとよりそれは、公然とではないが。 長曾我部盛親などは、町端れのつまらない小路に借家して、若いのに頭をまるめ、一夢斎と名をかえて、 (浮世のことなど、わしゃ知らんよ) といった顔つきして、風雅と遊里の両方に身をやつして暮しているが、その手から、いざという場合には、猛然と起って、 (太閤御恩顧のため) という旗じるしの 下 ( もと )に集まろうという牢人が、七百や八百は飼ってあって、その生活費も、秀頼のお手元金から出ているのだということも聞いた。 又八は、 二月 ( ふたつき )ほど、大坂を見聞しているうちに、 (ここだ。 出世のつるをつかむ土地は) と、まず興奮を抱いた。 空脛 ( からすね )に、槍一本かつぎ出して、宮本村の 武蔵 ( たけぞう )と、関ヶ原の空をのぞんで飛び出した時のような壮志が、久しぶりに、近頃、健康になった彼の体にも、 甦 ( よみがえ )って来たらしいのである。 ふところの金は、ぼつぼつ減ってゆくが、何かしら、 (おれにも運が向いてきた) という自覚がして来て、毎日が明るくて、愉快だった。 石に蹴つまずいても、そんな 足下 ( あしもと )から、不意にいい運の芽が見つかりそうな気がするのである。 (まず、 身装 ( みなり )だ) 彼はいい大小を買って差した。 もう寒さにかかる晩秋なので、それにうつりのよい小袖と羽織も買った。 旅籠 ( はたご )は、不経済と考えて、順慶堀に近い馬具師の家の離れを借り、食事は外でし、見たいものを見、家へは帰ったり帰らなかったり、好みどおりな生活をしている間に、よい知己を得、手づるを見つけ、 扶持 ( ふち )の口にありつこうと心がけていた。 この程度に、生活を 持 ( じ )していることは、彼としては、かなり自戒を保って、生れ変ったほど、身を修めているつもりなのである。 (あれへ大槍を立たせ、乗換え馬を 牽 ( ひ )かせ、供の侍を、二十人も連れて通りなさる。 「旦那がたあ、お若いし、腕もおできなさるじゃろうし、御城内の衆へ頼んでおけば、すぐお抱えの口はありましょうで」 ありそうな 口吻 ( くちぶり )で、そこの馬具師も安うけあいしたが、 就職 ( くち )はなかなかかかって来ない。 繁華な町なかの空地の草にも、朝々霜が真っ白におりる。 その霜が消えて、道のぬかるむ頃から、 銅鑼 ( どら )だの、太鼓だのが、そこでは鳴り出す。 師走 ( しわす )の 忙 ( せわ )しない人々が、案外のん気な顔して、冬日の下にいっぱいに群れていた。 いとも粗雑な矢来を囲って、外からは見えないようにそれへ 筵 ( むしろ )を張り廻してある人寄せの見世物が、六、七ヵ所に紙旗や毛槍を立て、その 閑人 ( ひまじん )の群れへ呼びかけて、客を奪い合う様はなかなか真剣な生活戦だった。 安醤油のにおいが人混みのあいだを這う。 串 ( くし )にさした煮物をくわえて、馬みたいにいなないている 毛脛 ( けずね )の男たちがあるし、夜は、白粉を塗りこくって袖をひく女たちが、解放された牝羊みたいに、ぼりぼり豆を食べながら繋がって歩いてゆく。 野天へ腰かけを出して、酒を汲んで売っている所では、今、一組の撲りあいがあって、どっちが勝ったのか負けたのか、後へ血をこぼしたまま、その喧嘩のつむじ風は、わらわらと町の方へ駈け去ってしまった。 「ありがとうございました。 だんな様が、ここにござったで、 器物 ( うつわ )は壊されずにすみましただ」 酒売りは、何度も、又八の前へきて、礼をくり返した。 その礼ごころが、 「こんどのお 燗 ( かん )は、あんばいよくついたつもりで」 頼まない 肴物 ( さかなもの )まで添えてくる。 又八は悪い気持でなかった。 町人どうしの喧嘩なので、もしこの貧しい露店の物売りに損害をかけたら取ッちめてやろうと睨みつけていたが、何の事もなくすんで、露店のおやじのためにも、自分のためにも、同慶であったと思う。 「おやじ、よく人が出るな」 「師走なので、人は出ても、人足は止まりませぬでなあ」 「天気がつづくからいい」 鳶 ( とび )が一羽、人混みの中から、何か 咥 ( くわ )えて高く上がってゆく。 そして自ら、 (まあいい、人間、酒ぐらい飲まねえでは) と、慰めたり、理由づけたりして、 「おやじ、もう一杯」 と、うしろへいった。 それと一緒に、ずっとそばの 床几 ( しょうぎ )へ来て、腰かけた男がある。 牢人だなとすぐ見てとれる恰好だった。 大小だけは人をして避けしめるほど威嚇的な 長刀 ( ながもの )であるが、 襟垢 ( えりあか )のついた 袷 ( あわせ )に上へ 一重 ( ひとえ )の胴無しも羽織っていない。 「オイオイ亭主、おれにも早いところ一合、熱くだぞ」 腰かけへ、片あぐらを乗せて、じろりと又八のほうを見た。 足もとから見上げて、顔のところまで眼がくると、 「やあ」 と、何の事もなく笑う。 又八も、 「やあ」 と、同じことをいって、 「 燗 ( かん )のつく間、どうですか一 献 ( こん )。 磊落 ( らいらく )で、豪傑肌らしいと、又八はその飲み振りを見ていた。 よく飲む。 又八がそれから一合もやるうちに、この男はもう五合を越えて、まだ 慥 ( しっ )かりしたものだった。 「どのくらい?」 と訊くと、 「ちょっと一升、落ちついてなら、まあ、量がいえぬ」 と、いう。 時局を談じると、この男は、肩の肉をもりあげた。 「家康がなんだ。 秀頼公をさしおいて、大御所などと、ばからしい。 あのおやじから本多 正純 ( まさずみ )や、 帷幕 ( いばく )の旧臣をひいたら、何が残る。 石田三成には勝たせたかったが、惜しいかな、あの男、諸侯を操縦すべく、あまりに潔癖で、また身分が足らなかった」 そんなことをいうかと思うと、 「貴公、たとえば、今にも関東、上方の手切れとなった場合は、どの手につく」 と、訊く。 又八が、ためらいなく、 「大坂方へ」 と答えると、 「ようっ」とばかり、杯を持って 床几 ( しょうぎ )から立ち上がり、 「わが党の士か、あらためて一 盞 ( さん ) 献 ( けん )じ申そう。 して、貴君はいずれの藩士」 といって、 「いや、ゆるされい。 まず自身から名乗る。 それがしは、 蒲生 ( がもう )浪人の 赤壁八十馬 ( あかかべやそま )、という者。 ごぞんじないか、 塙団右衛門 ( ばんだんえもん )、あれとは、 刎頸 ( ふんけい )の友で、共に他日を期している仲。 また今、大坂城での 錚々 ( そうそう )たる一方の将、 薄田隼人兼相 ( すすきだはやとかねすけ )とは、あの男が、漂泊時代に、共に、諸国をあるいたこともある。 大野 修理亮 ( しゅりのすけ )とも、三、四度会ったことがあるが、あれはすこし陰性でいかん。 兼相よりは、ずっと勢力はあるが」 喋りすぎたのを気がついたように、後へもどって、 「ところで、貴公は」 と、訊き直す。 又八は、この男の話を、全部がほんととは信じなかったが、それでも、何か圧倒されたような 怯 ( ひ )け 目 ( め )を感じ、自分も、 法螺 ( ほら )をふき返してやろうと思った。 「越前宇坂之庄浄教寺村の、富田流の開祖、富田入道 勢源 ( せいげん )先生をごぞんじか」 「名だけは聞いておる」 「その道統をうけ、中条流の一流をひらかれた無慾無私の大隠、鐘巻自斎といわるる人は、私の恩師でござる」 男は、そう聞いても、かくべつ驚きもしないのだ。 杯を向けて、 「じゃあ、貴公は、剣術を」 「左様」 又八は、嘘がすらすら出るのが愉快だった。 大胆に嘘をいうと、よけいに酔いが顔に咲いて、酒のさかなになる気がするのである。 やはり鍛えた体はちがうとみえ、どこか出来ているな、……して、鐘巻自斎の御門下で、何と仰せられるか。 さしつかえなくば、ご姓名を」 「佐々木小次郎という者で、伊藤弥五郎一刀斎は、私の兄弟子です」 「えっ」 と、相手の男が驚いたらしい声を発したので、又八のほうこそびっくりしてしまった。 あわてて、 (それは 冗戯 ( じょうだん )) と、取消そうと思ったが、赤壁 八十馬 ( やそま )は、とたんに地へ膝をついて頭を下げているので、今さらもう冗戯ともいえなかった。 「お見それ申して」 と、八十馬は何度もあやまる。 「佐々木小次郎殿といえば、とくより耳にしておるその道の達人。 知らないというものは、他愛のないもので、先刻からの失礼は、 平 ( ひら )に」 又八は、ほっとした。 そう改まられては、私こそ、ご挨拶のしようがない」 「いや、先ほどから、広言のみ吐いてさぞお聞き苦しかったことで」 「なに、私こそ、まだ仕官もせず、世間も知らぬ若輩者で」 「でも、剣においては。 ……そうだ、やはり佐々木小次郎」 つぶやいて、八十馬は、酔うと目やにの出る 性 ( しょう )らしい眼を、どろんと据え、 「その上で、まだご仕官もなさらぬのか、惜しいものだ」 「ただ剣一方に、すべてを打ち込んで来たので、世間にはとんと何の知己もないために」 「や、なるほど。 いずれは、主人を持たねばならぬと考えていますが」 「ならば、造作もないこと。 もっとも実力があっても、黙っていては容易に見出されるはずはない。 こうお目にかかっても、それがしですら、尊名を聞いて初めて驚いたようなもので」 と、さかんに 焚 ( た )きつけて、 「お世話しよう」 と、いい出した。 「実はそれがしも、友人の 薄田兼相 ( すすきだかねすけ )に身の振り方を依頼してあるところ。 大坂城では、禄を問わず、抱え入れようとしている折だし、貴公のような人物を推挙すれば、薄田 氏 ( うじ )も、すぐ買おう。 おまかせ下さるまいか」 どうやら赤壁 八十馬 ( やそま )は乗り気になっているらしい。 又八は、その 就職 ( くち )へありつきたいことは山々だが、佐々木小次郎であると他人の名を借用してしまったことが、どうもまずい。 引っこみのつかない不出来だ。 かりに 美作 ( みまさか )の郷士本位田又八と名乗って実際の履歴を話したら、この男も乗り気にはなるまい。 鼻さきで軽蔑を与えられるぐらいなところが落ちである。 やはり佐々木小次郎の名がものをいったのだ。 何もそう心配したほどのものじゃないと思う。 なぜならば、佐々木小次郎なる者はもう死んでいる人間だ。 伏見城の工事場で打ち殺されてしまった人物ではないか。 死者の所持していた唯一の戸籍証明である「印可目録」は自分が彼の 臨終 ( いまわ )の一言によって預かって来ているので、後で、調べのつこうわけはない。 また一箇の乱暴人として、打殺した死者に対して、そんな面倒な調べをいつまでもやっているはずもない。 (分りっこはない!) 又八の頭に大胆な、 狡 ( ずる )い考えがそう閃めいた。 勃然 ( ぼつぜん )として、彼は、死んだ佐々木小次郎になり切ってやろうと 臍 ( ほぞ )を決めた。 「おやじ、勘定」 金入れから金を出して、そこを起ちかけると、赤壁八十馬はあわてて、 「今の話は?」 と、一緒に立った。 「ぜひ、ご尽力をねがいたいが、この路傍では、十分な話もできぬ。 どこか座敷のあるところへでも行って」 「ああそうか」 と、八十馬は満足そうにうなずいて、自分の飲んだ代まで、又八が払っているのを、当り前のような顔して眺めていた。 怪しげな 白粉 ( おしろい )の裏町である。 又八としては、もっと高等な酒楼へ案内するつもりだったが、赤壁八十馬が、 「そんなところへ揚がって、つまらぬ金を 費 ( つか )うよりは、もっとおもしろい土地がある」 といって、頻りに裏町遊びを謳歌するので、ともかく引っ張られて来てみると、まんざら又八の肌に合わない情調ではない。 比丘尼横丁 ( びくによこちょう )というのだそうである。 大袈裟 ( おおげさ )にいえば長屋千軒がみな売笑婦の家で、一夜に百石の油を燈心にともすともいえるほどな繁昌さである。 すぐ近くに、 汐 ( しお )のさす黒い堀が通っているので、出格子だの、紅燈の下だのには、よく見ると、船虫や 河蟹 ( かわがに )がぞろぞろ這っていて、それが 生命取 ( いのちと )りの さそりという妖虫のようにうすきみ悪いが、無数の白粉の女の中には 眉目美 ( みめよ )いのも稀にあって、中には、もう四十にちかい容貌に、 鉄漿 ( かね )を黒々つけ、 比丘尼頭巾 ( びくにずきん )にくるまって、夜寒を 喞 ( かこ )ち顔でいるなど、なかなかもののあわれも 蕩児 ( とうじ )の心をそそるのであった。 「いるな」 又八が、ため息つくと、 「いるだろう、へたな茶屋女や歌妓などより、遥かにましだ。 「室町将軍の奥につかえていたという 比丘尼 ( びくに )があるし、父は武田の臣だったの、松永久秀の縁類の者だのという女が、この中にはずいぶんある。 泊ったことはもちろんである。 昼間になっても、飽いたといわない八十馬だった、お甲の「よもぎの寮」では、いつも日蔭者でいた又八も、多年の鬱憤をここに晴らしたか、 「もう、もう。 酒はいやだ」 と遂にかぶとを脱いで、 「帰ろう」 いい出すと、 「晩までつきあい給え」 と、八十馬はうごかない。 「晩までつきあったらどうするんだ」 「今夜、 薄田兼相 ( すすきだかねすけ )のやしきへ行って兼相と会う約束がしてあるんだ。 今から出ても 時刻 ( とき )が半端だし……。 それに、そうだ、貴公の望みももっとよく聞いて置かなければ、先へ行って話もできない」 「 禄 ( ろく )など、初めからそう望んでも無理だろう」 「いかん、自分からそんな安目を売ってはいかん。 とにかく中条流の印可を持って、佐々木小次郎ともいわれる侍が、禄はいくらでもいいから、ただ仕官がしたいなどといったら、かえって先から 蔑 ( さげす )まれるぞ。 大坂城の巨大な影が夕空をおおっているからである。 「あれが、 薄田 ( すすきだ )の邸だぞ」 濠 ( ほり )の水に背を向けて、二人は寒そうに 佇 ( たたず )んだ。 昼間から 注 ( つ )ぎこんでいた酒も、この濠端に立つとひとたまりもなく吹き飛んで、鼻の先に 水洟 ( みずばな )が凍りつく。 「あの腕木門か」 「いや、その隣の角屋敷」 「ふム……宏壮なものだな」 「出世したものさ。 三十歳前後の頃には、まだ、薄田 兼相 ( かねすけ )などといっても、世間で知っている奴はなかった、それがいつのまにか……」 赤壁八十馬のことばを、又八はそら耳で聞いていた。 疑っているのではない、もう彼のことばの端など注意してみる必要を感じないほど信頼し切っていたのだった。 「そう、そう」 又八は 懐中 ( ふところ )から、 革巾着 ( かわぎんちゃく )を取り出した。 少しくらいは、と思いながらいつのまにかこの革巾着の金も三分の一になっていた。 その残りの底をはたいて、 「ざっと、これだけあるが、これくらいなおくりものでいいのか」 「いいとも、十分だ」 「何かに包んでゆかなければいけまいが」 「なあに、仕官の 取做 ( とりな )しを頼む時の、 御推挙料 ( ごすいきょりょう )だの、御献金だのというやつは、薄田ばかりじゃない、公然と誰でも取っていることだから、何も 憚 ( はばか )って差し出す必要はすこしもないのだ。 先で、渋った顔をしていたら、金をやらずに持って帰るだけのことじゃないか。 肩を振って、堂々と通ってゆく態度を見とどけて、 (あれなら、なるほど、薄田兼相とは、貧困時代からの旧友だろう) 又八は、安心に似た気もちを抱いて、その晩は、さまざまな夢に 耽 ( ふけ )り、あくる日を待ちかねて、定めの時刻に、人寄せ場の空地へ、霜解けをふんで行った。 きょうも師走の風が寒かったが、冬日の下にはたくさん集まっていた。 どうしたのか、赤壁八十馬は、その日、姿を見せなかった。 次の日。 「何かの都合だろう」 又八は、こう善意に解釈して、れいの野天の酒売りの 床几 ( しょうぎ )で、 「きょうは」 と、正直に空地の人混みを見廻していたが、その日も遂に八十馬の姿を見ずに暮れてしまった。 少し、 てれて、 「おやじ、また来たぞ」 三日目である。 わしから依頼して、薄田殿へわたす口入れ金を預けておいたのだが、その返辞がはやく知りたいので、毎日待っているわけだが」 「おやおや、おまえ様は」 おやじは、気の毒そうに、又八の顔をながめて、 「百年待っていても、あの男が来るはずはありませぬ」 「げっ。 よほど、気をつけてあげようかと思ったが、あとの 祟 ( たた )りが恐いし、おまえ様も、あの風態を見れば、気がつくだろうと思っていたのに、金を抜かれてしまうなんて……。 これやお話にならんわい」 気の毒を通り越して、又八の無智をむしろ 愍 ( あわ )れむような 口吻 ( くちぶり )なのである。 だが又八は、恥を掻いたとは思わない。 突然の損失と希望から抛り出された 傷手 ( いたで )に、身がふるえ、血が 憤 ( いきどお )って、茫然と、空地の人群れを見つめていた。 「むだとは思うが、念のため 幻術 ( めくらまし )の囲いへ行って訊いてみなさるがよい。 あそこではよく、ガチャ蠅が集まって、銭の 賭事 ( かけごと )をしておりますで、そういう金をつかめば、ことによると、 賭場 ( あそびば )へ顔を出しているかもわかりませぬ」 「そ、そうか」 又八は、あわてて床几を起ち、 「その 幻術 ( めくらまし )の人寄せというのは、どこの囲いか」 老爺 ( おやじ )の指さすほうを見ると、この空地のうちでは最も大きな矢来が一つ見える。 幻術者 ( げんじゅつしゃ )の群れが興行しているのだという。 見物は、木戸口に 蝟集 ( いしゅう )していた。 又八が近づいて行ってみると、 「ちょちょんがちょっ 平 ( ぺい )」 だとか、 「 変兵童子 ( へんぴょうどうじ )」 とか、 「 果心居士之 ( かしんこじの )一 弟子 ( でし )」 とかいう有名な幻術師の名が、木戸口の旗に記してあって、幕と 筵 ( むしろ )でかこんであるその広い矢来のうちでは、怪しげな音楽に 交 ( ま )じって、術者の掛声と、見物の拍手が湧いていた。 裏へ廻ると見物の出入りしないべつな口があった。 又八が、そこを覗くと、 「 賭場 ( とば )へゆくのか」 と、立番の男がいう。 うなずくと、よしというような顔をしたので、彼は入って行った。 幕の中では、青天井をいただいて、二十人ばかりの浮浪人が、車座になって、 博戯 ( ばくち )をしている。 又八が立つと、じろっと、すべての白い眼が彼を見上げた。 一人がだまって、彼の前に席を開けたので、あわてて、 「この中に、赤壁八十馬って男はいないか」 訊くと、 「赤馬か。 そういえば赤馬の奴、ちっとも出て来ねえが、どうしたんだろう」 「ここへ来ましょうか」 「そんなこと、わかるもんか。 まあ、入りねえ」 「いや、おれは 博戯事 ( あそびごと )に来たんじゃない。 その男を捜しに来たのだ」 「おい、ふざけるなよ、 博戯 ( ばくち )もせずに、賭場へ何しに来やがったんだ」 「すみません」 「向う 脛 ( ずね )を掻っ払うぞ」 「すみません」 ほうほうのていで出て来ると、追いかけて来たガチャ 蠅 ( ばえ )の一人が、 「野郎待て。 ここは、すみませんで済む場所たあ違う。 ふてえ奴だ。 博戯 ( ばくち )をしなけれやあ、場代をおいてゆけ」 「金などない」 「金もねえくせに、賭場のぞきをしやがって、さては、隙があったら、銭を 攫 ( さら )って行こうという量見だったにちげえねえ、この 盗 ( ぬす )っ 人 ( と )め」 「なんだと」 又八が、くわっとして刀の 柄 ( つか )を示すと、これは面白いと、相手は敢て喧嘩を買ってくる腰だった。 「べら棒め、そんな 脅 ( おど )しに、いちいちびくついていちゃ、この大坂表で、生きちゃあいられねえんだ。 さ、斬るなら斬ってみろ」 「き! 斬るぞ」 「斬れっ、何も、断るにゃ及ばねえや」 「おれを知らんか」 「知ってるもんか」 「越前宇坂之庄、浄教寺村の流祖、富田五郎左衛門が歿後の門人佐々木小次郎とはわしのことだ」 そういったら逃げるだろうと思いのほか、相手は、ふき出して、又八のほうへ尻を向け、矢来のうちのガチャ 蠅 ( ばえ )を呼び立てた。 「やい、みんな来い、こいつ何とか今、オツな名乗りをあげやがったぜ。 おれたちを相手に抜く気らしい。 ひとつお 腕 ( て )のうちを見物としようじゃねえか」 いい終ると、きゃッと、その男は尻を斬られて跳び上がった。 又八が、不意に抜き打ちをくれたのである。 「畜生っ」 という声。 それから、わっと大勢の声がうしろに聞えた。 又八は血刀をさげて人混みの中へまぎれ込んだ。 なるべく人間の多いところへと又八は姿をかくして歩いていたが、危険を感じるほど、どの人間の顔もガチャ蠅に見え、とてもうろついておられなくなった。 銭を 抛 ( ほう )って、又八は中へとびこんだ。 そして、いささかほっとしながらどこに虎がいるのかと見廻してみると、正面に戸板を二、三枚並べ、それへ洗濯物でも貼りつけてあるように、一枚の虎の皮が貼りつけてあった。 死んだ虎を見せられても、見物は、神妙に眺め入って、これは生きていないじゃないかと、腹を立てる者はなかった。 「これが虎かいな」 「大きなものやなあ」 感心して、入口から出口の木戸へ入れ代ってゆく。 又八は、なるべく 刻 ( とき )を過ごそうと考えていつまでも虎の皮の前に立っていた。 この虎は、死んでいるのじゃろうが」 と、婆のほうがいう。 爺侍 ( じじざむらい )は、竹の仕切り越しに手をのばして、虎の毛に触れながら、 「元より、皮じゃもの、死んでおるわさ」 「木戸で呼ばわっている男は、さも生きているようにいうたがの」 「これも、 幻術 ( めくらまし )の一つじゃろて」 爺侍は苦笑していたが、婆のほうは、 忌々 ( いまいま )しげに、 萎 ( しぼ )んでいる唇を振り向けて、 「やくたいもない、幻術なら幻術と看板にあげておいたがよい。 死んだ虎を見るくらいなら絵を見るわさ。 木戸へ 去 ( い )んで、銭をかやせというて来う」 「婆、婆。 権叔父と呼ばれた爺侍が、 「やっ、又八っ」 と、呶鳴った。 お杉隠居は、眼がわるいので、 「な、なんじゃ、権叔父」 「見えなんだかよ、婆のすぐうしろに、又八めが立っておったぞ」 「げっ、ほんまか」 「逃げたっ」 「どっちゃへ?」 二人は、木戸の外へ転び出した。 もう空地の 雑沓 ( ざっとう )は暮色につつまれていた。 又八は、幾たびも人にぶつかった。 そのたびに、くるくる 舞 ( まい )して、後も見ずに、町中のほうへ逃げてゆく。 「待て、待て、 伜 ( せがれ )っ」 振りかえってみると、母親のお杉は、まるで狂気のようになって追って来るのだった。 権叔父も、手をふりあげ、 「馬鹿ようっ、なんで逃げるぞい。 暖簾棒 ( のれんぼう )だの竹竿を持って、町の者は、先へゆく又八を 蝙蝠 ( こうもり )を打つようにたたき伏せた。 往来の者も、わいわいと取りかこんで、 「捕まえた」 「ふてえ奴だ」 「どやせ」 「たたっ殺してやれ」 足が出る、手が出る、 唾 ( つば )を吐きかける。 後から息を 喘 ( き )って、権叔父とともに追いついて来たお杉隠居はそのていを見ると、群衆を突きとばし、小脇差のつかに手をかけて歯を 剥 ( む )いた。 「ええ、むごいことを、おぬしら何しやるのじゃ、この者へ」 弥次馬は、理を 弁 ( わきま )えずに、 「婆どの。 こいつは、泥棒だよ」 「泥棒ではない、わしが子じゃわ」 「え、おまえの子か」 「おおさ、ようも足蹴にしやったな。 町人の分際で、侍の子を足蹴にしやったな。 婆が相手にしてくりょう、もいちど、今の無礼をしてみやい」 「 冗戯 ( じょうだん )じゃない。 じゃあ先刻泥棒泥棒と呶鳴ったのは誰だ」 「呶鳴ったのは、この婆じゃが、おぬしら風情に足蹴にしてくれと頼みはせぬ。 泥棒とよんだら伜めが、足を止めようかと思うていうた親心じゃわ。 それも知らいで、撲ったり蹴ったりは何事じゃ、このあわて者めが!」 町中の森である。 おぼろに常夜燈がまたたいていた。 「こう来やい」 お杉隠居は、又八の 襟 ( えり )がみを 抓 ( つま )んで、往来からそこの境内まで引きずって来た。 婆の 権 ( けん )まくに驚いたとみえ、弥次馬はもう 尾 ( つ )いて来ない。 殿 ( しんがり )として、鳥居の下で見張っていた権叔父も、やがて後から来て、 「婆、もう 折檻 ( せっかん )はせぬものだぞ。 又八とて、もう子どもではなし」 母子 ( おやこ )の手と襟がみを、もぎ離そうとすると、 「何をいうぞい」 隠居は、権叔父を、 肱 ( ひじ )で突き 退 ( の )けて、 「わしが子を、わしが折檻するに差し出口など、要らぬお世話、おぬしは黙っていやい。 老人になれば誰も単純で気短かになるという。 今の場合の複雑な感情は余りにも 枯渇 ( こかつ )した血には強烈すぎたのであろう。 泣いているのか、怒っているのか、狂喜の変態なあらわれか。 「親のすがたを見て、逃げ出すとはなんの芸じゃ。 汝 ( われ )は、木の股から生れくさったか、わしが子ではなかったかよ。 なんで 故郷 ( くに )へもどって来て、ご先祖様のまつりをせぬか、この母にちょっとでも、顔見せぬか。 かんべんしてくれ、かんべんしてくれ」 又八は、 嬰児 ( あかご )みたいに、母の手の下からさけんだ。 「悪いことは知っている。 知っていればこそ、帰れなかったんだ。 今日も、余り不意だったのでびっくりして、逃げる気もなく、おらあ駈け出してしまった。 ……面目ない、面目ない! おふくろにも叔父御にも、おらあただ面目ないんで」 と、両手で顔をおおった。 それを見ると、婆も目鼻に 皺 ( しわ )をあつめて、すすり泣いた。 しかし気丈な老婆は、自分が 脆 ( もろ )くなるのをすぐ自分の心で叱咤しながら、 「ご先祖の恥さらし、面目ないというからには、どうせ 碌 ( ろく )なことをしていくさったのではあるまいが」 権叔父は、見るに見かねて、 「もうよかろう、婆、そう打擲しては、かえって又八を 拗 ( ねじ )け者にするぞよ」 「また差し出口かよ、おぬしは男のくせに甘うていかぬ。 又八には 父親 ( てておや )がないゆえ、この婆は母であるとともに、厳しい父親でもなければならぬのじゃ。 それゆえわしは折檻をしまする。 ……まだまだこんなことで足ろうかいの。 又八ッそれへ直りゃい」 自分も大地へ 畏 ( かしこ )まって坐りこみ、子へも、大地を指さしていった。 「はい」 又八は、土にまみれた肩を起して、 悄然 ( しょうぜん )と坐り直した。 この母親は怖かった。 世間の母親なみ以上の甘さもあったが、すぐご先祖様を持ち出すので、又八は頭があがらないのであった。 「つつみ隠しをするときかぬぞよ。 関ヶ原の 戦 ( いくさ )へ出て、おぬし、あれ以来、何していやった。 婆の得心がまいるまで、つぶさに話しゃれ」 「……話します」 隠す気は起らない。 「ふウむ……」 と、権叔父が 呻 ( うめ )くと、 「あきれた子よの」 と、隠居も舌を鳴らし、 「そして今では、何していやるか。 そういう 生活 ( たつき )を過ごしながらも、剣術に精出していやったとは、さすがにわしが子。 ……のう叔父御よ。 やはり婆が子じゃの」 この辺で機嫌を直させてしまいたいものだと権叔父は、大きく何度もうなずいて、 「それやあ、ご先祖の血は、どこかにあろうわさ。 「どれ、どれ」 手を出したが、渡さずに、 「安心してござれ、おふくろ」 「なるほど」 隠居は、首を振って、 「見たか、権叔父、大したものじゃわ。 小さい頃から、あの 武蔵 ( たけぞう )などより、ぐんと賢く、腕も出来ていただけのことはある」 と、 涎 ( よだれ )を垂らさないばかりに満足をあらわしたが、ふと、それを巻きかけた又八の手がすべって、終りの一行が眼にうつると、 「これ待て、ここに佐々木小次郎とあるのはなんじゃ」 「あ……これですか……これは 仮名 ( かめい )です」 「仮名? 何で仮名などつかいなさる、本位田又八と、立派な名のあるものを」 「でも 省 ( かえり )みて、自分に恥のある 生活 ( くらし )をしていたので、先祖の名を汚すまいと」 「オオそうか。 その性根たのもしい。 じっと首を垂れたまま、又八は老母の烈々と吐くことばに打たれていた。 こうしている間は、彼も善良で神妙な息子だった。 けれど、隠居がいおうとする重点は、もっぱら家名の面目とか、侍の意気とかにあったが、この息子の感情を強く打った点は、そこになくて、 (お通がこころ変りした) と、いう初耳の話だった。 「おふくろ、それは 真実 ( まったく )か」 彼の顔いろを知ると、隠居は、自分の 鞭撻 ( べんたつ )が、彼を奮起させたものと思いこみ、 「嘘と思うなら、叔父御にもただしてみやれ、お通 阿女 ( あま )はおぬしを見かぎって、 武蔵 ( たけぞう )の後を追って 去 ( い )んだわさ。 のう権叔父」 「そうじゃ、七宝寺の千年杉へ、沢庵坊主のため、 縛 ( くく )りつけられたのを、あのお通の手をかりて逃げ失せた 男女 ( ふたり )のことゆえ、どうせ 碌 ( ろく )な仲じゃあるまいての」 こう聞いては又八も、鬼とならずにいられなかった。 この婆や権叔父が、 故郷 ( くに )を出て、こうして諸国をあるいている意気地が。 ……よく」 「おぬしにも、それではのめのめと、故郷の土は踏めまいが」 「帰りません、もう、帰りません」 「討ってたも、 怨敵 ( おんてき )を」 「ええ」 「気のない返辞をするものかな、おぬしには 武蔵 ( たけぞう )を討つ力がないと思うてか」 「そんなことはありません」 権叔父も、そばから、 「案じるな又八、わしもついているのじゃが」 「この婆とても」 「お通と武蔵、二つの首を、晴れて故郷への土産に引っさげて戻ろうぞ。 のう又八、そうしておぬしにはよい嫁女をさがし、あっぱれ本位田家の跡目をついで貰わにゃならん。 そうした上は、武士の面目も立つ、 近郷 ( きんごう )への評判もようなる、まず、 吉野郷 ( よしのごう )で 負 ( ひ )け 目 ( め )をとる 家統 ( いえすじ )は 他 ( ほか )にはあるまいてな」 「さあ、その気になってたも。 なるかよ又八」 「はい」 「よい子じゃ、叔父御、 賞 ( ほ )めておくりゃれ。 きっと武蔵とお通を討つと誓うた。 ……」 と隠居はやっと気がすんだらしく、先刻から 怺 ( こら )えていた氷のような大地から身を動かしかけたが、 「ア…… 痛々々 ( たたた )」 「婆、どうしやった」 「冷えてかいの、腰が急に吊ってこう下腹へさしこんで来ましたわい」 「これやいかぬ、また持病を起してか」 又八は、背を向けて、 「おふくろ、すがりなされ」 「何、わしを負うてくれる。 ……負うてくれるか」 と、子の肩に抱きついて、 「何年ぶりぞいの、叔父御よ、又八がわが身を負うてくれたわいな」 と、 欣 ( うれ )し泣きに泣くのであった。 ほかに禁制の煙草も船底にかくしているらしい。 元より秘密だが、においで知れる。 月に何度か、 阿波 ( あわ )の国から大坂へ通う便船で、そうした貨物とともに便乗している客には、この年の暮を、大坂へ商用に出るか、戻るかする 商人 ( あきんど )が八、九分で、 「どうです、 儲 ( もう )かるでしょう」 「儲かりませんよ、 堺 ( さかい )はひどく景気がいいというが」 「鉄砲 鍛冶 ( かじ )など、職人が足らなくて弱っているそうですな」 べつの商人が、また、 「てまえは、その 戦道具 ( いくさどうぐ )の、 旗差物 ( はたさしもの )とか、 具足 ( ぐそく )など納めていますが、昔ほど儲かりませんて」 「そうかなあ」 「お侍方がそろばんに明るくなって」 「ハハア」 「むかしは、野武士がかついで来る 掠 ( かす )め 物 ( もの )を、すぐ染めかえ、塗りかえして、御陣場へ納める。 するとまた、次の戦があって、野武士がそいつを集めてくる。 また 新物 ( あらもの )にするといったふうに、 盥廻 ( たらいまわ )しがきいたり、金銀のお支払いなどもおよそ目分量みたいなものでしたがね」 そういう話ばかりが多い。 中には、 「もう内地では、うまい儲けはありっこない。 呂宋 ( るそん )助左衛門とか、茶屋助次郎といった人のように、 乗 ( の )るか 反 ( そ )るかで海の外へ出かけなければ」 と、海洋をながめて、彼方の国の富を説いている者があるし、或る者はまた、 「それでも、何のかのといっても、わしら町人は、侍から見れば遥かに割がよく生きていますよ。 いったい侍衆なんて、食い物の味ひとつ分るじゃなし、大名の贅沢といったところが、町人から見ればお甘いもので、いざといえば、鉄と 革 ( かわ )を 鎧 ( よろ )って、死にに行かなければならないし、ふだんは面目とか武士道とかにしばられて、好きな真似はできないし、気の毒みたいなものでございますよ」 「すると、景気がわるいの何のといっても、やはり町人にかぎりますかな」 「かぎりますとも、気ままでね」 「頭さえ下げていればすみますからな。 舶載 ( はくさい )の 毛氈 ( もうせん )をひろく敷きこんで、一階級を示しているのだ。 のぞいてみると、なるほど、桃山の 豪奢 ( ごうしゃ )は今、太閤が亡き後は、武家になくて、町人の中へ移っているかと思われる。 酒器のぜいたくさ、旅具旅装の 絢爛 ( けんらん )なること、持物の 凝 ( こ )っていること、ケチな一商人でも、侍の千石取などは及びもない。 「ちと、飽きましたな」 「退屈しのぎに、始めましょうか」 「やりましょう。 そこの 幕 ( とばり )をひとつ懸け廻して」 と、小袖幕のうちにかくれると、彼らは、 妾 ( めかけ )や手代に酒をつがせて、南蛮船が近ごろ日本へ 齎 ( もたら )した「うんすん 骨牌 ( かるた )」というものを始める。 そこで儲けている一つかみの黄金があれば、一村の 飢餓 ( きが )が救われるであろうほどの物を、まるで、 冗戯 ( じょうだん )みたいに、遣り取りしていた。 こういう階級の中に、ほんの一割ほどだが、乗り合わしている山伏とか、牢人者とか、儒者とか、坊主とか、武芸者などという者は、彼らからいわせるといわゆる、 (いったいなんのために生きているんだ) と 借問 ( しゃくもん )される部類のほうで、みんな 荷梱 ( にごうり )の蔭に、ぽつねんと味気ない顔して、冬の海をながめているのだった。 それらのあじきない顔つきの組の中に、一人の少年が 交 ( ま )じっていた。 「これ、じっとしておれ」 荷梱に 倚 ( よ )り懸って、冬日の海に向いながら、膝の上に何やら丸っこい毛だらけな物を抱いている。 可愛い小猿を」 と、そばの者がさしのぞいて、 「よく馴れてござるの」 「は」 「永くお飼いになっているのであろうな」 「いえ、ついこのごろ、土佐から阿波へ越えてくる山の中で」 「捕まえられたのか」 「その代り、親猿の群れに追いかけられて、ひどい目にあいました」 話を交わしながらも、少年は、顔を上げない。 小猿を膝の間に挟んで、 蚤 ( のみ )を見つけているのだった。 前髪に紫の 紐 ( ひも )をかけ、派手やかな小袖へ、 緋 ( ひ )らしゃの胴羽織を 纒 ( まと )っているので、少年とは見えるものの、 年齢 ( とし )のほどは、少年という称呼に当てはまるかどうか、保証のかぎりでない。 煙管 ( きせる )にまで、 太閤張 ( たいこうばり )というのが出来て、一頃は 流行 ( はや )ったように、こういう派手派手しい風俗も、桃山全盛の遺風であって、 二十歳 ( はたち )をこえても元服をせず、二十五、六を過ぎても、まだ童子髪を 結 ( ゆ )って金糸をかけ、さながらまだ清童であるかのような見栄を持つ習いが、いまに至ってもかなり 遺 ( のこ )っているからである。 だからこの少年も、一概に身なりをもって、未成年者と見ることはできない。 体つきからしても、堂々たる巨漢であるし、色は小白くて、いわゆる 丹唇 ( たんしん )明眸であるが、眉毛が濃くて、 眉端 ( びたん )は眼じりから開いて上へ 刎 ( は )ねている。 なかなかきつい顔なのだ。 何もそう 年齢 ( とし )の 詮索 ( せんさく )ばかり気にやむこともないが、あれこれ綜合してその中庸をとって推定すれば、まず十九か、二十歳というところでなかろうかと思われる。 さてまた、この美少年の身分はというと、元より旅いでたちで、 革足袋 ( かわたび )にわらじ 穿 ( ば )きだし、どこといって抑えどころもないが、 歴乎 ( れっき )とした藩臣でなく、牢人の 境界 ( きょうがい )であることは、こういう船旅において、ほかの山伏だの 傀儡師 ( くぐつし )だの、乞食のようなボロ侍だの、 垢 ( あか )くさい庶民の中に交じって、気軽にごろごろしている 態 ( てい )をみても、およそ想像はつく。 だが、牢人にしては、ちょっと立派なものを一つ身に着けている。 それは、緋羽織の背なかへ、 革紐 ( かわひも )で斜めに負っている陣刀づくりの大太刀である。 反 ( そ )りがなくて、 竿 ( さお )のように長い。 ものが大きいし、 拵 ( こしら )えが見事なので、その少年のそばへ寄った者は、すぐ少年の肩ごしに 柄 ( つか )の 聳 ( そび )えているその刀に目がつくのだった。 「 京洛 ( みやこ )でもちょっと見ない」 と思う。 刀のすぐれた物を見ると、その持ち主から、遠くは、その以前の経歴までが考えられてゆく。 祇園藤次は、 機 ( おり )があったら、その美少年へ、話しかけてみたいと思っていた。 はたはたと、大きな百 反帆 ( たんぽ )は、生きもののように、船客たちの頭の上で潮鳴りを切って鳴っていた。 藤次は旅に 倦 ( う )んでいた。 祇園藤次は、その飽き飽きした旅を、もう十四日もつづけて来たあげくのこの船中であった。 さしも、室町将軍家の兵法所出仕として、名誉と財と、両方にめぐまれて来た吉岡家も、清十郎の代になって、 放縦 ( ほうじゅう )な生活をやりぬいたため、すっかり家産は傾いてきた。 四条の道場まで、抵当に入っているので、この 年暮 ( くれ )には、町人の手へ取られるかも知れないという内ふところ。 年暮に近づいて、あっちこっちから責め立ててくる負債をあわせると、いつのまにか、途方もない数字にのぼっていて、父拳法の遺産をそっくり渡して、編笠一かいで立ち 退 ( の )いても、なお、足らないくらいな実情に 堕 ( お )ち 入 ( い )っていた。 (どうしたものか) という清十郎の相談である。 そんな主旨の廻文を、清十郎に書かせ、これを 携 ( たずさ )えて、中国、九州、四国などに散在している吉岡拳法門下の出身者を、歴訪して来たのである。 もちろん振武閣建築の寄附金を 勧進 ( かんじん )するために。 先代の拳法が育てた弟子は随分各地の藩に奉公していて、みな相当な地位の侍になっている。 けれど、そういう 勧説 ( かんぜい )を持って行っても、藤次が予算していたように、おいそれと寄進帳へ筆をつけてくれるのはすくない。 (いずれ書面をもって) とか、 (いずれ、上洛の折に) とかいうのが多く、現に藤次が携えて帰る金は、予定していた額の何分の一にも当らない。 だが、自分の財政ではなし、まあ、どうかなろうと 多寡 ( たか )をくくって、 先刻 ( さっき )から、師の清十郎の顔より、久しく会わないお甲の顔のほうを、努めて、想像にのぼせていたが、それにも限度があるので、また、 生欠伸 ( なまあくび )に襲われて、退屈なからだを、船のうえに持てあましていた。 うらやましいのは、先刻から小猿の 蚤 ( のみ )をとっている美少年だった。 いい退屈しのぎを持っている。 藤次は、そばへ寄って、とうとう話しかけ出した。 「若衆。 「はあ、大坂へ行きます」 「ご家族は大坂にお住まいかの」 「いえ、べつに」 「では阿波のご住人か」 「そうでもありません」 膠 ( にべ )のない若衆である。 そういってまた他念なく、小猿の毛を指で掻き分けているのであった。 ちょっと話のつぎ穂がない。 藤次は、黙ったが、また、 「よいお刀だな」 と、こんどは彼の背にある大太刀を 賞 ( ほ )めた。 「大太刀を、かんぬきに横たえて、 りゅうとして歩くのは、見た眼は伊達でよいが、そういう人物にかぎって、逃げる時には、刀を肩へかつぐやつだ。 美少年は、ちらと、彼のそういう尊大な顔つきへ、瞳をひらめかせ、 「富田流を」 と、いった。 「富田流なら、小太刀のはずだが」 「小太刀です。 私は、人真似がきらいです。 そこで、師の逆を行って、大太刀を工夫したところ、師に怒られて破門されました」 「若いうちは、えて、そういう 叛骨 ( はんこつ )を誇りたがるものだ。 そして」 「それから、越前の浄教寺村をとび出し、やはり富田流から出て、中条流を 創 ( た )てた鐘巻自斎という先生を訪ねてゆきますと、それは気の毒だと、入門をゆるされ、四年ほど修行するうち、もうよかろうと師にもいわれるまでになりました」 「田舎師匠というものは、すぐ目録や免許を出すからの」 「ところが、自斎先生は容易にゆるしを出しません。 先生が印可をゆるしたのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎一刀斎ひとりだという話でした。 国許 ( くにもと )では、知られている刀で、 物干竿 ( ものほしざお )という名があるくらいです」 無口だと思いのほか、自分のすきな話題になると、美少年は問わないことまで語りだした。 そして口を開き出すとなると、相手の気色などは見ていない。 そういう点や、またさっき自分で話した経歴などから見ても、すがたに似あわない我のつよい性格らしく思われた。 祇園藤次は、この多感な美少年の述懐を聞いても、若い彼といっしょになって、感傷を共にする気には元よりなれない。 だが、退屈に苦しんでいるよりは、ましだと考えて、 「ふム、なるほど」 熱心に聞いている顔つきを装うと、美少年は、 鬱懐 ( うっかい )をもらすように、 「その時、すぐ行けばよかったのです。 けれど私は周防、師は上州の山間、何百里の道です。 冬雲に陽がかくれると、海は急に灰色を呈し、時々、 舷 ( ふなべり )に 飛沫 ( しぶき )が寒く立つ。 美少年はなお話をやめない。 多感な語気をもって語る。 「師の自斎には、何の身寄りもありません。 で、甥の天鬼には、遺産といってもわずかでしょうが、金を与え、遠く離れている私には、中条流の印可目録を 遺 ( のこ )してゆかれました。 天鬼は、私のそれを預かって、今諸国を修行にあるいていますが、来年の 彼岸 ( ひがん )の中日には、上州と周防とのちょうど中ほどの 道程 ( みちのり )にあたる三河の 鳳来寺山 ( ほうらいじさん )へ、双方からのぼって、対面しようという約束を書面で交わしてあります。 そこで私は天鬼から師のおかたみを受けることになっているので、それまでは近畿のあたりを 悠々 ( ゆるゆる )と、修行がてら見物して歩こうと思っているのです」 ようやくいうだけのことをいい終ったように、美少年は改めて、話し相手の藤次にむかい、 「あなたは、大坂ですか」 「いや京都」 それきり黙って、しばらく、波音に耳をとられていたが、 「すると 其許 ( そこもと )はやはり、兵法をもって身を立てて行かれる気か」 藤次はさっきから少し軽蔑した顔つきであったが、今も うんざりしたようにいう。 この頃のように、こう小生意気な兵法青年がうようよ歩いて、すぐ印可の目録のといって誇っていることが、彼には、 小賢 ( こざか )しく聞えてならない。 そんなに天下に上手や達人が蚊みたいに 殖 ( ふ )えてたまるものか。 「京都には、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎という人がいるそうですが、今でもやっておりますか?」 よいほどに聞いてみれば、だんだん口の幅を広くしてくる。 気に食わない前髪めがと藤次は 小癪 ( こしゃく )に思う。 けれど考え直してみると、こいつはまだ自分が吉岡門の高弟祇園藤次なる者であることを知らないのだ。 知ったらさだめし前言に恥じて、びっくりする奴に違いない。 藤次は顔を 歪 ( ゆが )めた後から、軽蔑をみなぎらして、 「あそこへ行って、片輪にならずに、門を戻って来る自信が、あるかな?」 「なんの!」 美少年は突っ返すようにいった。 「大きな門戸を構えているので、世間が買いかぶっているので、初代の拳法は達人だったでしょうが、当主の清十郎も、その弟の伝七郎とやらも、たいした者じゃないらしい」 「だが、当ってみなければ、分るまいが」 「もっぱら諸国の武芸者のうわさです。 うわさですから、皆が皆、ほんとでもありますまいが、まず京流吉岡も、あれでおしまいだろうとは、よく聞くことですね」 大概にしろといいたい。 藤次は、ここらで名乗ってやろうかと思ったが、ここで けりを着けたのでは、 揶揄 ( からか )ったのでなく、揶揄われたに等しいものになる。 船が、大坂へ着くにはまだ大分間もあることだし、 「なるほど、このごろは、諸国にも天狗が多いそうだから、そういう評判もあろうな。 ところで、おん身は先ほど、師を離れて、郷里にあるうちは、毎日のように、錦帯橋の 畔 ( ほとり )へ出て、 飛燕 ( ひえん )を斬って大太刀のつかいようを工夫されたと仰っしゃったな」 「いいました」 「じゃあ、この船で、時々、ああして飛び来っては 掠 ( かす )めてゆく 海鳥 ( うみどり )を、その大太刀で、斬り落すことも容易であろうな」 「…………」 何か悪感情を包んでいる相手のことばを、美少年もようやくさとったらしく、瞬間、まじまじと藤次のそういう浅黒い唇を見つめていたが、やがて、 「出来たって、そんな 莫迦 ( ばか )な芸を私はやる気になれぬ。 あなたは、古岡の門人か、縁者か」 「何でもないが、京都の人間だから、京都の吉岡を悪くいわれれば、やはりおもしろくはない」 「ははは、うわさですよ、私がいったわけじゃない」 「若衆」 「なんです」 「 生兵法 ( なまびょうほう )という 諺 ( ことわざ )を知っているか。 将来のため忠言しておくが、世間をそう甘く見すぎると、出世はせんぜ。 やれ、中条流の印可目録を取っているの、飛燕を斬って、大太刀の工夫をしたのと、人をみな盲とするような 法螺 ( ほら )はよせ。 よいか、法螺をふくのも相手を見てふくのだぜ」 「私を、法螺ふきと、仰っしゃったな」 美少年が、こう念を押すように突っ込むと、 「いったがどうした」 藤次は、 反 ( そ )らした胸を、わざと相手へ寄せて、 「おまえの将来のためにいってやったのだ。 若い者の 衒 ( てら )いも、少しは愛嬌だが、あまり過ぎると見ぐるしい」 「…………」 「最前から何事もふむふむと聞いているので、人を 舐 ( な )めてつい 駄ぼらが出たのだろうが、実は 此方 ( このほう )こそ、吉岡清十郎の高弟、祇園藤次という者だ。 以後、京流吉岡の悪評をいいふらすと、ただはおかんぞ」 周 ( まわ )りの船客がじろじろ見るので、藤次はそれだけの権威と立場とを明らかにして、 「このごろの若い奴は、生意気でいかん」 つぶやきながら、独り、 艫 ( とも )のほうへ歩み去った。 (何かなくては済まないらしいぞ) と予感したので、船客たちは、遠方からではあるが、皆、二人のほうへ首を振向けた。 藤次は決して事を好んだわけではない。 大坂へ着けば、船着場にはお甲が待っているかもしれないのだ。 女と会う前に、年下の者と、喧嘩などをやっては、人目につくし、あとがうるさい。 そしらぬ顔して、彼は、 舷 ( ふなべり )の 欄 ( らん )へ 肱 ( ひじ )をかけ、 艫舵 ( ともかじ )の下にうず巻いている青ぐろい瀬を見ていた。 「もし」 美少年は、その背中を軽くたたいた。 相当に 拗 ( しつ )こい性質である。 だが、感情に激しているような語気ではない、極めて静かなのだ。 「もし……藤次先生」 知らないふうも 装 ( よそお )えないので、 「なんだ」 顔を向けると、 「あなたは、 人中 ( ひとなか )において、私を 法螺 ( ほら )ふきと申されたが、それでは私も面目が立たないから、最前、やって見ろとおおせられた芸を、やむなくここで演じてみようと存じます。 立ち会ってください」 「わしが、何を求めたか」 「お忘れのはずはない。 藤次は、その構えを白い眼で見すえながら、何用か、と 彼方 ( かなた )から答えた。 すると、美少年は、真面目くさって、 「おそれ入るが、海鳥を、私のまえへ呼び降ろしていただきたい。 何羽でも、斬って見せます」 一休 和尚 ( おしょう )の頓智ばなしをそのまま用いて、美少年は、藤次へ 酬 ( むく )いたものとみえる。 藤次はあきらかに 愚弄 ( ぐろう )されたのだ。 人を小馬鹿にするも程があるといっていい。 当然、烈火のように怒った。 「だまれ。 あのように空を 翔 ( か )けている海鳥を思いのままに、眼の前へ呼びよせられるものなら、誰でも斬るわ」 すると美少年は、 「海は千万里、 剣 ( つるぎ )は三尺、側へ来ないものは、私にも斬れません」 それ見たかといわないばかりに藤次は二、三歩出て、 「逃げ口上をいう奴だ。 出来ませんなら出来ませんと、素直に 謝 ( あやま )れ」 「いや、謝るほどなら、こんな身構えは 仕 ( つかまつ )りません。 海鳥のかわりに、べつな物を斬ってお目にかける」 「何を?」 「藤次先生、もう五歩こちらへ出て来ませんか」 「なんだ」 「あなたのお首を拝借したい。 私が 法螺 ( ほら )ふきか否かを試せといったそのお首だ。 罪もない海鳥を斬るよりは、そのお首のほうが恰好ですから」 「ばッ、ばかいえっ」 思わず藤次はその首をすくめた。 ばっと空気の斬れる音がした。 三尺の長剣が、針ほどな光にしか見えないくらい 迅 ( はや )かったのである。 首はたしかに着いているし、そのほかなんの異状も感じなかった。 「おわかりか」 美少年は、そういって、 荷梱 ( にごうり )のあいだへ立ち去った。 土気色になった自分の顔いろを、藤次はいかんともすることが出来なかった。 だが、その時はまだ自分の五体のうちの最も重要な部分が斬り落されていることなど気づかなかった。 美少年が去った後で、ふと、冬陽のうすくあたっている船板の上を見ると、変な物が落ちている。 それは、 刷毛 ( はけ )のような小さな毛の 束 ( たば )だ、アッと、初めて気づいて、自分の髪へ手をやってみると、 髷 ( まげ )がない。 「や、や? ……」 撫 ( な )でまわして驚き顔をしている間に、根の 元結 ( もとゆい )がほぐれて、 鬢 ( びん )の毛はばらりと顔にちらかった。 「やったな! 青二才」 棒のように胸へ突っ張ってくる憤怒であった。 美少年が自ら語っていたことのすべてが、嘘でも 法螺 ( ほら )でもないことが、とたんに分りすぎるほど彼には分った。 年に似合わない怖ろしい技だと思う。 若い仲間にも、ああいう若いのもいるのかと今さら思う。 だが、 頭脳 ( あたま )の驚嘆と、肚のそこの憤怒とは、べつ物である。 そこからのぞいて見ると、美少年は 先刻 ( さっき )の席へもどって、何か、失くし物でもしたように、自分の足もとを見廻している。 藤次は、絶好な隙をその体に見つけた。 身をかがめて、美少年のうしろへ迫り、こんどは、彼の 髷 ( まげ )を斬り払ってやろうとするのだった。 当然、顔にかかる、頭の鉢を横に割るだろう。 勿論、それでさしつかえない。 うむっ! 満身が赤く 膨 ( ふく )れあがって、彼の 唇 ( くち )と鼻腔が出る息を結んだ時であった。 三十尺もあろうかと思われる帆ばしらの 天 ( て )っ 辺 ( ぺん )に。 下では、ほかの船客までが、海上の旅に 倦 ( う )み 飽 ( あ )いていた折からなので、事こそあれと、みな顔を空へ上げ、 「やあ、何か 咥 ( くわ )えている」 「 骨牌 ( かるた )のふだですよ」 「ハハア、あそこで、金持ち連がやっていた骨牌を 攫 ( さら )って行ったんですか」 「ごらんなさい、小猿のやつも、帆ばしらの上で骨牌をめくる真似をしている」 ヒラヒラと、そういう顔の中へ一枚の札が落ちて来た。 「畜生」 堺の 商人 ( あきんど )のひとりが、あわててそれを拾いあげたが、 「まだ足らない。 どこからも、おれのだといって名乗り出る者がない。 しかし、その辺にいた客はみな知っている。 例の美少年のすがたへ期せずして一同の眼が注がれた。 船頭も知っていた筈だ。 そこで当然 業腹 ( ごうはら )が煮えてきたに違いない。 船頭声を一段と張りあげて、 「飼い主はねえのか。 飼い主がねえならねえように、おらが処分するが、あとで苦情はあんめえな」 いないのではない、美少年は荷物に 倚 ( よ )りかかって、黙然と、何か考え事でもしている様子なのだ。 「……なんて図々しい」 と、ささやく者がある。 船頭もぎょろりと美少年の頭を見ていた。 博戯 ( あそび )を 邪 ( さまた )げられた金持ち階級は、 遽 ( にわか )にざわめいて悪口を口走る。 だが美少年は、ちょっと膝を横に坐り直したきりだった。 どこへ吹く風かという姿である。 「海のうえにも、猿が住むとみえて、飼い主のねえ猿が舞いこんだ。 飼い主のねえ畜生なら、どうして始末してもかまうめい。 後で、耳が遠いの、聞かなかったのと、苦情のねえように、証人になってくらっせえ」 「いいとも、わしらが証人に立ってやる」 と例の旦那連中が、腹を立てて、呶鳴った。 船頭は、船底へゆく 段梯子 ( だんばしご )を下りて行った。 上がって来た時には、火のついた火縄と、 種子島銃 ( たねがしまじゅう )を持っていた。 のん気なのは、上の小猿だ。 潮風の空で、 骨牌 ( かるた )を見ている。 それがいかにも意思があって人間をからかっているように見えるのである。 「…………」 下では、船頭が、火縄を鼻の先にいぶして種子島の 銃先 ( つつさき )を空へ向け、じっと、小猿を狙いすましていた。 「しっ……」 と、堺の商人が 袂 ( たもと )をひいた。 それまで 唖 ( おし )のように 他所 ( よそ )を向いていた美少年がぐっと体を起し、 「船頭」 と、こちらへ声を投げたからである。 こんどは、船頭のほうで そら耳を装っていた。 火縄が、チラと 関金 ( せきがね )の 煙硝 ( えんしょう )へ口火を点じかけた。 「あっ」 ドカアンと弾音はたかく 反 ( そ )ッぽへ走った。 銃 ( つつ )は美少年の手に 引 ( ひ )っ 奪 ( た )くられているのだった。 船客たちは、耳を抑えて 俯 ( う )つ伏した。 「な! なにしやがる!」 これは船頭の当然な怒号だった。 おどり上がって美少年の胸ぐらにぶら下がったのである。 頑丈な 船乗 ( ふなのり )の体も、美少年のまえに正当に立つと、ぶら下がったという言葉がおかしくないほど、背も骨ぐみも、段ちがいに美少年のほうが 逞 ( たくま )しくて立派だったのである。 「おまえこそ、何するのだ、飛び道具で、無心の小猿を撃ち落そうとしたろう」 「そうだ」 「不届きではないか」 「なぜッ。 船頭風情の身をもって、客よりも高い場所に突っ立ち、頭の上からあのように 喚 ( わめ )いたとて、侍が、答えられるか」 「いい抜けを 吐 ( ほ )ざくな。 そのためにおらは何度も断ってある。 小猿が 骨牌 ( かるた )のふだを取って逃げたからとて、この身がいいつけたわけではなし、あの連中のする 悪戯 ( いたずら )を、猿が真似したまでのこと、わしから迷惑を詫び出るすじはない」 ことばの半ばから、美少年は、血の気の多いその顔を、 彼方 ( あなた )の一つどころにかたまっている堺や大坂の旦那連のほうへ向けて、極めて皮肉な笑い方をしていったのであった。 潮騒 ( しおさい )の夕闇に、木津川 湊 ( みなと )の灯は赤く 戦 ( そよ )いでいる。 どことなく魚臭いものが迫る。 陸 ( おか )が近づいたのだ。 船から呼ばわる声と、陸でわいわいという声が、徐々に、距離をちぢめていた。 どぼーんと、真っ白なしぶきが立つ。 錨 ( いかり )が 抛 ( ほう )りこまれたのである。 「かしわ屋でございますが」 「 住吉 ( すみよし )の 社家 ( しゃけ )の息子さまは、この船にござらっしゃらぬか」 「飛脚屋さんはいるかね」 「旦那様あ」 渡海場の 埠頭 ( ふとう )にかたまっていた迎えの 提燈 ( ちょうちん )は、灯の波を作って船の横へ迫ってゆく。 その中を、例の美少年が、 揉 ( も )まれて降りて行った。 肩に小猿を乗せている姿を見て、 旅籠 ( はたご )の客引きが二、三人、 「もしもし、 猿 ( えて )のお泊り賃は、 無料 ( ただ )にいたしておきますが、私どもへお越しくださいませぬか」 「てまえどもは住吉の門前で、ご参詣にもよし、座敷の見晴らしも至極よいお部屋がございますが」 それらの者には 一顧 ( いっこ )もせず、そうかといって迎えに来ている知人もないらしく、美少年は小猿をかついで、真っ先にこの 湊 ( みなと )から姿を消してしまった。 それを見送って、 「何んていう生意気なやつだろう。 すこしばかり兵法が出来ると思って」 「まったく、あの若造のために、船の中は半日、みんな面白くなく暮してしまった」 「こっちが町人でなければ、あのままただでこの船を降ろすのじゃないが」 「まあまあ、侍には、たんと威張らせておいてやるがいいさ。 肩で風を切っていれば、それで気が済むんだから他愛はない。 わしら町人は、花は人にくれても、 実 ( み )を喰おうという流儀だから、今日ぐらいな 忌々 ( いまいま )しさは、仕方があるまいて」 こんなことをいいながら、荷物沢山な旅すがたを揃えて、ぞろぞろ降りて行ったのは例の堺や大坂の 商人連 ( あきんどれん )であり、そこへは無数の出迎えが、 提燈 ( ちょうちん )や乗物をあつめ、一人一人に、幾人かの女の顔も取り巻いていた。 祇園 ( ぎおん )藤次は、誰よりも後から、こっそりと 陸 ( おか )へ上がっていた。 形容のできない顔つきである。 不愉快といって、きょうほど不愉快な日はなかったに違いない。 髷 ( まげ )をちょん切られた頭には、頭巾をかぶせているが、眉にも 唇 ( くち )にも、暗澹とただよっている。 渡海場に立って吹き 曝 ( さら )されていた顔が、寒さに 硬 ( こわ )ばって、年をかくしている 皺 ( しわ )が、 白粉 ( おしろい )の上に出ていた。 「お、お甲か。 とにかく、住吉へでも行って、よい宿を見つけよう」 「え、あちらに、駕も連れて来ましたから」 「そいつは有難う、じゃあ宿も先に取っておいてくれたか」 「みな様も、待ちかねているでしょう」 「え?」 意外な顔して、藤次は、 「オイお甲、ちょっと待ってくれ。 おまえとここで落ちあったのは、二人ぎりでどこか静かな家で二、三日 悠 ( ゆ )っくりしようという考えじゃないか。 ……それを、皆様とは一体、誰と誰のことをいうのだ」 「乗らない。 わしは乗らない」 祇園藤次は、迎えの駕を 拒 ( こば )んでぷんぷん怒りながら、お甲の先へ歩いていた。 お甲が何かいうと、 「ばかっ」 と、ものをいわせない。 彼をして、こう立腹させた原因は、お甲が告げた新しい事情にも 因 ( もと )づくが、すでに船の中からもやもやしていた鬱憤が、あわせて今、爆発したことは 否 ( いな )めない。 「おれは、一人で泊るっ。 駕なんか追ッ返せ。 なんだ。 人の気も知らないで、ばかっ、ばかっ!」 と、 袂 ( たもと )を払う。 河の前の 雑魚 ( ざこ )市場は、みな戸が閉まって、魚の 鱗 ( うろこ )が、貝をちらしたように、暗い長屋の戸に光っていた。 そこまで来ると、人影も少なくなったので、お甲は、藤次に抱きついた。 「およしなさい、見ッともない」 「離せっ」 「一人で泊ったら、あっちが変なものになりますよ」 「どうにでもなれっ」 「そんなこといわないで」 白粉 ( おしろい )と髪の香の、冷たい頬が、藤次の頬へ貼りついた。 藤次はやや旅の孤独から 甦 ( よみがえ )った。 「……ネ、頼みますから」 「がっかりした」 「そうでしょう、だけど、二人にはまたいい 機 ( おり )があるでしょう」 「おれは、せめて大坂で二、三日は二人ぎりと、楽しみにして着いたのだ」 「分ってますよ」 「わかっているなら、なぜ 他 ( ほか )の者を引ッ張って来たのだ。 俺が思っているほど、おまえは俺を思っていないからだろう」 藤次が責めると、 「また、あんな……」 と、お甲はうらめしげな眼をこらして、泣きたいような顔をして見せる。 彼女のいい訳は、こうだった。 藤次から飛脚を受け取ると、彼女は勿論、自分だけで大坂へ来るつもりだった。 ところが折わるく、吉岡清十郎がその日もまた、六、七名の門人を連れて「よもぎの寮」へ飲みに来て、いつのまにか、 朱実 ( あけみ )の口から、そのことを聞いてしまい、 (藤次が大坂へ着くなら、わしらも迎えに行ってやろうじゃないか) といい出した。 それに調子をあわせる取り巻き連も多く、 (朱実も行け) と、いう騒ぎになってしまい、いやともいえずお甲は一行十人ほどの中に 交 ( ま )じって住吉の旅館に落着き、一同の遊んでいる間に、自分だけ一人で駕を持ってここへ迎えに来たのだという。 今日という日に迷信がわき起るほど、何か、後にも先にも、不愉快ばかりが考えられた。 第一、 陸 ( おか )を踏むとすぐ、清十郎だの同輩だのに、旅先の首尾を聞かれることが辛い。 いやもっと嫌なことは、この頭巾を脱ぐことである。 (何といおう) 彼は、 髷 ( まげ )のない頭を苦に病んだ、彼にも侍というものの面目はある。 人に知られない恥なら掻いてもよいが、人にわかる恥を重大に思う。 「……じゃあ仕方がない、住吉へ行くから駕を連れて来い」 「乗ってくれますか」 お甲はまた、渡海場のほうへ、駈け戻った。 この夕方、船で着く藤次を迎えに行くといって出たお甲は、まだ帰って来ない。 その間に、同勢は風呂にはいり、 旅舎 ( やど )の どてらに 着膨 ( きぶく )れて、 「やがて、藤次もお甲も見えるだろう、その間、こうしていてもつまらんじゃないか」 飲んで待っていようということになったのは、この同勢として、当然な納まりであった。 藤次の顔が見えるまでのつなぎとして飲んでいたうちはいいが、いつの間にか膝がくずれ、杯がみだれ出すと、もうそんな者はどうでもよくなってしまい、 「この住吉には、 唄 ( うた )い 女 ( め )はいないのか」 「きれいなのを三、四人呼ぼうじゃないか。 どうだ 諸卿 ( しょけい )」 と、病気が始まる。 (よせ、つまらない)などという顔は、この中には一つもいない。 ただ師の吉岡清十郎の顔いろを多少 憚 ( はばか )るのであったが、 「若先生には、朱実が側についているから、別間のほうへ、お移り願おうじゃないか」 横着な奴らかなと清十郎はにが笑いする。 けれど、それは自分に取っても好ましい。 炬燵 ( こたつ )のある部屋に入って、朱実とふたりで差し向うほうが、この同勢と飲んでいるより、どれほどいい人生かわからない。 「さあ、これからだ」 とは門人どもが、門人だけになってからの発声だった。 やがて程なく 十三間川 ( とさまがわ )の名物という怪しげな 唄 ( うた )い 女 ( め )が笛、三味線などの ひねこびた楽器を持って庭にあらわれ、 「いったい、あんたはん達は、喧嘩するのかいな、酒あがるのかいな」 と訊ねる。 すでによほど大トラになっている一人が、 「ばかっ、金を 費 ( つか )って喧嘩する奴があるか。 おまえたちを呼ぶからには、大いに飲んで遊ぶのだ」 「じゃあ、まちっと、静かにあがりやはったらどうかいな」 手際 ( てぎわ )よく扱われて、 「然らば、歌おう」 抛 ( ほう )り出していた 毛脛 ( けずね )をひっ込めたり、横にしていた体を起して、 絃歌 ( げんか )ようやく盛んならんとする頃おい、小女が来て、 「あの、お客様が、船からお着きなさいまして、ただ今、お連れ様といっしょに、ここへきやはりまする」 と、告げて行った。 「なんだ、何が来たと」 「藤次といった」 「 冬至 ( とうじ )冬至、 魚 ( とっと )の目か」 お甲と祇園藤次は、あきれ顔して部屋の口に立っていた。 誰も彼を待ったらしい者は一名もないのだった。 藤次は、一体何のために、この年末この同勢が、住吉へなど来ているのかと疑った。 お甲にいわせれば自分を迎えに来たのだというが、どこに自分を迎えに来たらしい人間が一人でもいるか、むっとして、 「おい、 下婢 ( おんな )」 「はい」 「若先生は、どこにいらっしゃるか、若先生のいる部屋へ行こう」 廊下をもどりかけると、 「よう、先輩、ただ今お帰りか。 たまらない臭気を放つ。 逃げようとしたので、トラは強引に座敷へ引きずり込んだ、そして、膳を踏みつけたから形のごとく 杯盤狼藉 ( はいばんろうぜき )を作って、共倒れに仆れた。 「……あっ、頭巾を」 藤次は、あわてて自分のそれへ手をやったが遅かった。 辷 ( すべ )った拍子に、トラは彼の頭巾をつかんで後ろへ腰をついていた。 その晩は、酒の興で済んだが、次の日になるとこの同勢が、ゆうべとは打って変って、 旅舎 ( やど )のすぐ裏の浜辺に出て、天下の大事でも議すように、 「怪しからん沙汰だ」 と、肩を 昂 ( あ )げ、 唾 ( つば )をとばし、 肱 ( ひじ )を突っ張って、小松の生えている砂地に 円 ( まる )く坐っていた。 いやしくも天下の兵法所をもって任じる吉岡道場の名折れだ、断じて、これを捨ておくことはできないぞ」 「しからば、どうするのだ」 「これからでも遅くあるまい。 その小猿を連れて歩いている前髪の武者修行を 捜 ( さが )し出す! どんなことをしても捜し出す! そして、 彼奴 ( きゃつ )の 髷 ( まげ )をちょん切って、祇園藤次 ずれの恥辱じゃない、吉岡道場の存在を 厳 ( おごそ )かにする。 その動機をたずねると、こうなのである。 彼らの憤激はそれから始まったものである。 怪 ( け )しからぬ先輩と、祇園藤次をつかまえて詰問に及ぼうとすると、藤次は今朝早く、吉岡清十郎と何か話していたが、朝飯をたべるとすぐ、お甲とふたりで、先へ京都へ 発 ( た )ってしまったという。 いよいよもって、うわさは事実にちがいない。 そういう腰抜けの先輩を追いかけるのは愚かである、追うならばどこの何者かわからないが、自分たちの手で、小猿を携えた前髪を捕まえ、存分に、吉岡道場の汚名をそそいでやろうじゃないか。 住吉の浦は、眼のおよぶ限り、 白薔薇 ( しろばら )をつないだような波である。 冬とも思えない磯の香が陽に煙っている。 朱実 ( あけみ )は、白い 脛 ( はぎ )を見せて、波に戯れながら何か拾って見ては捨てていた。 何事か起ったように、吉岡の門人たちが思い思いな方角へ向い、刀のこじりを 刎 ( は )ね上げて分れて行くのを眺めて、 「オヤ、何だろう」 朱実はまるい眼をしながら、波打ち際に立って見送っていた。 ほかの者もみな手分けして、捜しに行ったんだ」 「何を捜しに行ったんです」 「小猿を携えている前髪の若い侍さ」 「その人がどうかしたのですか」 「 抛 ( ほう )っておいては、清十郎先生のお名まえにもかかわるのだ」 祇園藤次の飛んでもない置土産の一件を話して聞かすと、朱実は興もない 口吻 ( くちぶり )で、 「皆さんは、始終喧嘩ばかり捜しているんですね」 と、たしなめ顔にいう。 貝殻など何も捜さなくっても、 天 ( そら )の星ほど、こんなに落ちている」 「わたしの捜しているのは、そんなくだらない貝殻じゃありません。 わすれ貝です」 「わすれ貝、そんな貝があるものか」 「ほかの浜にはないが、この住吉の浦にだけはあるんですって」 「ないよ」 「あるんですよ」……いい争って、朱実は、 「嘘だと思うならば証拠を見せてあげますからこっちへ来てごらんなさい」 と、ほど遠からぬ所の松並木の下へ、無理やりにその門人を引っぱって来て一つの 碑 ( いしぶみ )を指した。 いとまあらば ひろひに行かむ住吉の きしに寄るてふ 恋わすれ貝 新勅撰集のうちにある古歌の一首がそれには刻んである。 朱実は誇って、 「どうです、これでもないといえますか」 「伝説だよ、取るにも足らん歌よみの嘘だ」 「住吉にはまだ、わすれ水、わすれ草などという物もあるんです」 「じゃ、あるとしておくさ。 ……だから捜しているの。 あんたも一緒になって捜してくださいよ」 「それどころじゃない」 思い出したように、その門人は足の向きを変えて、どこかへ駈けていってしまった。 苦しくなると、そう思うほどだったが、また、 「忘れたくない」 朱実は、胸を抱いて、矛盾の 境 ( さかい )に立った。 もしほんとにわすれ貝という物があるならば、それはあの清十郎の袂へこそ、そっと入れてやりたい。 そしてこの自分という者を彼から忘れてもらいたいと、ため息ついて思う。 「 執 ( しつ )こい人……」 思うだけでも、朱実は心がふさいだ。 自分の青春をのろうために、あの清十郎は生活しているような気もちにさえ襲われる。 清十郎のねばり濃い求愛に、心が暗くなる時は、必ずその心のすみで、彼女は 武蔵 ( むさし )のことを考えた。 なぜならば、遮二無二に今の境遇を切り 解 ( ほど )いて現在の身から夢の中へ、駈け出してしまいたくなるからだった。 「……だけど?」 彼女は、しかし幾たびもためらった。 自分はそこまでつき詰めているが、武蔵の気もちはわからなかった。 「……アアいっそのこと忘れてしまいたい」 青い海が、ふと誘惑でさえあった。 朱実は、海を見つめていると、自分が怖くなった。 何のためらいもなく、真っ直にそこへ向って駈けて行かれる気がするのである。 そのくせ自分がこんなつき詰めた考えを抱いているなどということは、およそ彼女の 養母 ( はは )のお甲も知らない。 清十郎も思わない。 誰でも朱実と一つに暮した者は皆、この娘は至って快活で、お 転婆 ( てんば )で、そしてまだ、男性の恋愛が受け取れないほど開花の 晩 ( おそ )い 質 ( たち )だと思いこんでいるらしいのである。 朱実はそんな男たちやまた 養母 ( はは )を、心のうちであかの他人に思っていた。 どんな 冗戯 ( じょうだん )でもいえるのである。 そしていつも鈴のついた 袂 ( たもと )を振って、駄々っ子みたいに振舞っているのだったが、独りになると、春の草いきれのように熱いため息をついていた。 さっきから先生がお呼びでごさいますよ。 どこへ行ったのかと、えらいご心配になって」 旅舎 ( やど )の男だった。 彼女のすがたを 碑 ( いしぶみ )のそばに見つけて、こういいながら走って来た。 朱実がもどって行って見ると、清十郎はただひとりで、松かぜの音を静かに 閉 ( た )てこめた冬座敷で、 緋 ( ひ )の 蒲団 ( ふとん )をかけた 炬燵 ( こたつ )に手を入れてぽつねんとしていた。 彼女のすがたを見ると、 「どこへ行っていたのだ、この寒いのに」 「オオ嫌だ、ちっとも寒くなんかありやしない。 浜はいっぱいに陽があたっていますもの」 「何していた」 「貝をひろっていたの」 「子どもみたいだな」 「子どもですもの」 「正月が来たら 幾歳 ( いくつ )になると思う」 「幾歳になっても子どもでいたい……いいでしょう」 「よかあない。 すこしは、おふくろの案じているのも考えてやれよ」 「おっ母さんなんか、何も私のことなんか考えているものですか。 自分がまだ若い気ですもの」 「ま、 炬燵 ( こたつ )へお入り」 「炬燵なんか、 逆上 ( のぼせ )るから大っ嫌い。 ……私はまだ年寄りじゃありませんからね」 「朱実」……手くびをつかんで、清十郎は膝へ引き寄せた。 「きょうは誰もいないらしい。 おまえの 養母 ( おふくろ )も、粋をきかして先へ京都へ帰ったし……」 ふと清十郎の燃えている眼を見て、朱実はからだが 硬 ( こわ )ばってしまった。 「…………」 無意識に身を 退 ( ひ )きかけたが、彼の手は、彼女の手くびを離さない。 痛いほど握りしめ、 「なぜ逃げる?」 とがめるように 額 ( ひたい )に青すじを立てる。 「逃げやしません」 「きょうは皆、留守なのだ、こういう折はまたとない。 そうだろう朱実」 「なにがです」 「そう 棘々 ( とげとげ )しくいうな。 もうおまえと 馴染 ( なじ )んでから小一年、おれの気持もわかったはず、お甲はとうに承知なのだ。 おまえがおれに従わないのは、おれに腕がないからだとあの 養母 ( おふくろ )はいっている。 それでも清十郎は離さないのである。 こういう場合に京八流の兵法が応用されては、いかに彼女が争っても無駄であろう。 それにまた、きょうの清十郎はいつもとやや違っていた。 いつも 自暴 ( やけ )に酒を 仰飲 ( あお )って執こくからむのだが、きょうは酒気はないし、青白い顔をしているのだった。 離さないと、みんなを呼ぶからいい」 「呼んでみい! ……。 この棟は 母屋 ( おもや )から離れているし、誰も来るなと断ってあるのだ」 「わたし帰ります」 「帰さん!」 「あなたの体じゃありません」 「ば、ばかっ。 ……おまえの 養母 ( おふくろ )に聞け、おまえの体には、おれの手から身代金ほどの金が、お甲へやってあるのだ」 「おっかさんが私を売り物にしても、私は売った覚えはない。 死んだって、嫌な男なぞに」 「なにっ」 緋 ( ひ )の 炬燵 ( こたつ )ぶとんが、朱実の顔を押しかぶせた。 朱実は心臓のつぶれるような声をあげた。 ……呼べど、呼べど、誰も来なかった。 ひんやりと薄陽のあたっている障子には、何事もなげに、松のかげが遠い潮鳴りのように揺れているに過ぎない。 外は、あくまで静かな冬の日であった。 チチ、チチ、とどこかで、人間の無残な振舞いとはおよそ遠い小鳥の声がしていた。 ……ほど 経 ( た )って。 そこの障子のうちで、わっと号泣する朱実の声がもれた。 しいんとして、ややしばらくのあいだ、人の声も気はいもしないでいると思うと、清十郎が青じろい顔を持って、ついと、障子の外へすがたを現わした。 「あっ! ……」 清十郎は身伸びをして、 手拭 ( てぬぐい )で巻いた手を抑えながら、見送ってしまった。 まるで、発狂したような 迅 ( はや )さと取乱した彼女の姿であった。 「…………」 ちょっと、不安そうな眼をしたが、清十郎は、追って行かなかった。 「これよ、 権叔父 ( ごんおじ )」 「おい、なんじゃあ」 「おぬし、くたびれぬかよ」 「いささか 気懶 ( けだる )うなっておる」 「そうじゃろが、この婆もちと、きょうは 歩行 ( ひろ )い飽いた。 したが、さすがに住吉の 社 ( やしろ )、見事な結構ではある。 ……ホホ、これが若宮八幡の秘木とかいう橘の樹かいの」 「そうとみえる」 「 神功 ( じんぐう )皇后さまが、 三韓 ( さんかん )へご渡海なされた折に、八十 艘 ( そう )の 貢 ( みつ )ぎ 物 ( もの )のうちの第一のみつぎ物がこれじゃといういい伝えじゃが」 「婆よ、あの 神馬 ( しんめ )小屋にいる馬は、よい馬ぞよ。 加茂の 競 ( くら )べ 馬 ( うま )に出したら、あれこそ第一でがなあろうに」 「ムム、月毛じゃの」 「何やら立て札があるわ」 「この 飼料 ( かいば )のおん豆を 煎 ( せん )じて飲ますれば、夜泣き、歯ぎしりが止むとある。 権叔父、おぬし飲むがええ」 「ばかをいわしゃれ」 笑いながら見廻して、 「おや、又八は」 「ほんに、又八はどこへ行ったぞいな」 「ヤア、ヤア、あれなる 神楽 ( かぐら )の 殿 ( でん )の下に足をやすめているわ」 「又よう。 又八は、のそりのそり歩いて来た。 この 婆 ( ばば )とこの 爺 ( じじ )を連れにして、毎日こう歩いてばかりいるのは、彼としてかなりの我慢らしく見える。 それが五日や十日の見物というならまだしも、宮本武蔵という敵と巡り会って討ち果すまでの長い旅かと思うと、なんとしても、憂鬱にならざるを得ない。 元日か二日が過ぎたらすぐ別れようと思う。 だが、婆も爺も、先の短いせいか、 仏性 ( ほとけしょう )があるというのか、神社仏閣というといちいちお 賽銭 ( さいせん )を奉ったり、長々と祈願をこめたりばかりしていて、今日も、この住吉だけで、ほとんど一日暮れてしまいそうだ。 「はよう来ぬか」 鈍々 ( どんどん )たる足つきで、顔をふくらませて来る又八をながめて、お杉隠居は、若い者のように 焦 ( じ )れた。 「勝手なことをいってら」 又八は、口返答して、少しも足を早めないのだ。 「人を待たせる時は、いくらでも待たせておいて」 「何をいうぞ、この息子は。 神さまの霊域へ来たら、神さまをおがむのは人間のあたりまえなことじゃ。 おぬし、神にも仏にも手を合せたのを見たことがないが、そういう量見では、行く末が思いやらるる」 又八は、横を向いて、 「うるせえな」 それを聞き咎めてまた婆が、 「何がうるさいのじゃ」 初めの二、三日こそ、 母子 ( おやこ )の愛情は蜜より濃やかであったが、馴れるにつれ又八が、事ごとに たてを突いたり老母を小馬鹿にしたりするので、 旅籠 ( はたご )に帰るとお杉隠居は、この息子を前に坐らせ、毎夜のようにお談義ばかりであった。 それが今、ここで始まりそうな気色なので権叔父は、こんなところで開き直られては閉口と、 「まアまア、まアまア」 と、 母子 ( ふたり )をなだめて歩み出した。 困った 母子 ( おやこ )だと権叔父は思う。 何とか、隠居のきげんを直し、又八のふくれ 面 ( つら )もなだめたいものだと、双方に気をつかって歩いている。 「ホ、よいにおいがすると思ったら、あれなる磯茶屋で、焼き 蛤 ( はまぐり )をひさいでおる。 婆よ 一酌 ( ひとしゃく )やろうではないか」 高燈籠の近くにある海辺の 葭簀 ( よしず )茶屋であった。 気のすすまない顔つきの二人を誘って、 「酒あるか」 権叔父は先へ入って行く。 そして、 「さ、又八もきげん直せ。 婆もちとやかまし過ぎるぞよ」 杯を出すと、 「飲みとうない」 お杉隠居は、横を向く。 引っ込みを失って、権叔父はその杯を、 「じゃあ又八」 と、彼へ 酌 ( さ )した。 むッつりむッつり又八はたちまち二、三本ほど飲みほしてしまう。 それが老母の気に喰わないことは勿論である。 「おい、もう一本」 権叔父をさし 措 ( お )いて、又八が四本目を求めると、 「いい加減にしやれ!」 と、婆は叱った。 「 遊山 ( ゆさん )や酒のむためのこの旅かよ。 権叔父も、ほどにしたがよい。

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