キャラック 船。 大航海時代の帆船を操作するために最低限必要な船員の人数は何...

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キャラック 船

海と船の歴史2(6章-10章) 海と船の歴史2(6章-10章) 6. 中国、極東地域の船? しかし大河や湖などの内陸水運は早くに発達し、たとえば黄河と揚子江 長江 を結ぶ世界屈指の大運河の原型は早くも500BC. には出来上がっていた。 古い絵から想像される船は手こぎの内水用平底舟らしい。 には中国の山東半島や日本への沿岸航海をしていたから、むしろ一歩先んじていたかも知れない。 1984年に韓国南西部の瓦度島 Wando island の海底から発掘された船 図35 は11世紀後半のものと推定され、丸木船を別にすれば東洋最古の発掘船である。 この船は中国とも日本とも別の、朝鮮半島独自の形式と見られ、当時既に数百年にわたって使われてきていたと言われている。 図35瓦宝島 Wando island 付近の海底で発見された船縄文の丸木舟で始まり、弥生から古墳時代には丸木舟を前後につないで長さを増し、舷側に板をつぎたして積載量と耐航性を改善した。 その後の改良や拡大はあったものの、ほとんど15世紀初までこの構造の基本は受け継がれ海外の影響を受けることは少なかったように見える。 極東 Far East,アジア大陸東縁の地域の総称。 中国、東南アジア、朝鮮半島、日本列島、沿海州 の船を語るにあたって今一つ取り上げるべき地域は現在のインドネシアを中心とする東南アジアの島々である。 この地域はその地勢からして古くから海上活動があったに違いないが、その船については多くを知られていない。 ただ、この地方の伝統的な船は丸木舟から発達した、アウトリガーで横安定を保つ帆船だったらしく、これは世界の大方の地域と際立った対照を示す。 アウトリガーは舷側から2本の腕木をつきだし、その先端に太い丸太などの浮力体を船体に平行に取りつけたもので、船の横安定 復原性 に大きい効果がある。 この形式の小舟は今もこの海域で広く見受けられるが、昔は商業貿易に使えるようなもっと大型の船もあったようで、それは8〜9世紀のものとみられる寺院の浮き彫り壁画に描かれている。 しかし、その後まもなく出来上がってくる「海のシルクロード」に参入した東南アジアの商業航海者達の船にはその特徴であったアウトリガーは影を潜め、次に述べるところのペルシャ、アラブや中国系の船になったように見える。 ところで極東に始めて本格的な海上活動をもたらしたのは、すでに述べたペルシャ、アラブ系の商業航海者たちだった。 彼らは7世紀後半には東南アジアを回って南中国に達し、8世紀に入るとその活動は本格的になった。 紀元前にさかのぼるインド洋北西部のペルシャ、アラブ系貿易船の航跡がついに極東まで達したのである。 このころ、西の世界ではローマ帝国の覇権は衰え、地中海はその分身の東ローマ帝国 ビザンツ とムスリム海上勢力 ペルシャ、アラブ の競合する時期になっており、また北欧ではヴァイキングの先祖たちがようやく力をつけてきていた。 中国では唐の大帝国が成立した時期で、その特産品である絹織物 きぬおりもの や陶磁器を西の世界へ運ぶことは大きい利益を生み、またコショウなどの香料や南方の産物を生活程度の高い文明国だった唐へ運ぶのもいい商売だった。 このころ中国へ来たアラブの船がどんな船だったか、まだよく分かっていない。 しかしその大規模で安定した往来から考えて、ローマの商船やハンザ同盟のコグなどに劣らない積載量や航海能力をもっていたはずである。 アラブの三角帆、いわゆるラテン帆が地中海へ入ったのがこの時期だったらしいことからすると、東洋へ来たアラブ商船も同じ帆をもっていた可能性が高い。 中国文献の調査が期待される。 唐帝国の側もこの貿易に積極的で、広州や泉州 どちらも南中国 にはアラブ商人の大きな居留地もあった。 中国人も海上貿易の利を知り外海へ出て行ける大型船を作るようになったらしい。 その船はしかしアラブの船の真似ではなくて中国独自の木造船だった。 昔からの内水用の船から外海用の中国型帆船への進化の過程はまだ謎に包まれている。 いずれにしても唐末期から宋時代にかけて出来上がった中国の航洋船は厚い外板とたくさんの横隔壁/肋板で船体を固めていたようである。 1970年代に南中国の泉州 Quanzhou で発掘された船 図 、ほぼ同時期に韓国南西部の新安 Shinan で発掘された船はいずれも13世紀後半から14世紀前半、宋から元にかかる時代の中国船で、航洋貿易帆船であろう。 船底勾配の大きいV型断面で「開き走り」に適する船型である。 なお同じ中国でも揚子江より北では沿岸一帯が浅水なので平底の船型が普通であり、開き走り向きではない 図37 38。 航洋船としては南中国系のV型が多かったが、平底船型にリーボードを装備して開き走りに備えたものもあった。 たとえば江戸時代に長崎へ来た中国船の中にはこのタイプが相当数含まれている。 図36広州出土の宋時代 960-1270 の船、残存した船底部を修復したもの 図37中国各地の船の船首、船尾の特徴 図38北方系の中国帆船 図39 宋 そう 時代 じだい 、船の中央断面図、大きい船底勾配のV型断面 帆は中国独特の縦帆で、竹を薄くそいだものを編んだ「網代 あじろ 帆」であった。 この中国式板帆は追手にも開き走りにも形が崩れず、風上航にもなかなかよい性能を示す。 船尾中央に固定された舵も注目に価する。 この形式の舵は中国では50AD. 頃の模型があり、一方100BC. 頃の副葬品の船模型は中心線舵でなく、操舵櫂が付いているから、おそらく西暦紀元前後に中国で中心線舵が発明されたのであろう。 西欧に先立つこと実に1000年以上となる。 後世の、西欧の影響を受けたものも含めて中国帆船の数例を図38、40、41、42に示す。 そのうちの海南島の帆船 図37 はアラブ商船のあとを追ってインド洋に進出した中国船の姿をかなりよく伝えていると言われている。 なおこの船が開き帆走用のセンターボード Drop Keel を昔から持っていたとの説は注目に価する。 図40 海南島の中国帆船20世紀初めすでにセンターボードを装備していた 図41 福建省の中国帆船、19-20世紀 図42 広東の中国帆船 ところで唐末期の880AD. ころ、アラブ商人の中国貿易は大きい打撃を受けた。 唐帝国の衰えとともに内乱が起こり、南中国のアラブ人居留地が暴徒に襲われて多数の犠牲者を出す事件があり、彼らはマレイ半島周辺に根拠地を後退させることになった。 そのあとを追うように、すでに生まれていた中国商船隊が海上貿易に乗り出して来た。 こうしてインド半島南端からマラッカ海峡あたりを境に、東は中国、西はアラブの区分けで中継ぎ貿易のシステムができあがった。 このころにはアラブの影響を十分に吸収した東南アジアの商業航海者たちもこの貿易に加わってきて、当時の地球の上で最も活発な海上貿易を行っていたのはこの航路だった。 西欧 せいおう の大航海時代に先立つこと数百年、「海のシルクロード」と呼ばれている。 南中国の居留地こそ撤収したがアラブ商船の東アジアでの活躍は続き、11世紀初には朝鮮に達し、また室町時代1408年に象や孔雀を積んで福井県小浜に来た「南蛮船」はアラブ船であろう。 一方、海上貿易の利を知った中国人の活動は大いに進み、独自の帆船を駆って日本、朝鮮、東南アジアからインド洋東部の海上貿易の主力となった。 この大船隊の中国帆船の大きさについては諸説があるが、世界史上空前の大型船であった可能性は高い。 船の大きさや航海距離からすると西欧よりもアラブ、中国の方が一歩進んでいたかも知れない。 大きい相違は西方世界の船はその後著しい発展を遂げたが、他の二つの文化圏ではそれほどの進歩がなかったことである。 そして西方の船については多くの研究があり、ずっと古くからの発展の跡をたどることができるが、他の二者については[失われた鎖の輪]が余りに多い嘆きがある。 それまでほぼ独自に発達してきた地中海の船と北欧の船の間に技術交流と混血が起こり、新しい型の航洋帆船が生まれ、ヨーロッパ人が世界の海を制する基礎が出来てくる。 9世紀に始まり、以後数百年にわたって地中海北部から東方貿易を独占するにいたったイタリアの海洋都市国家群、ヴェネチア、ジェノア、ナポリなどの船もみなラテン帆を使った。 船型は古代以来の「丸い船」の貿易帆船と多数のオールで漕ぐ「長い船」の軍船、すなわちガレー船がはっきり見分けられた。 舵は船尾両舷に流す形の操舵櫂で、北欧ではすでに一般化していた中心線舵ではない。 これらの船はイタリア都市国家の勢力拡大とともに大型化し、設計、構造の技術も発達した。 火器の進歩に伴って本来は貿易用だった「丸い船」の積載量にものをいわせて多数の銃や原始的な大砲まで積む、新しい型の軍船とか、また積載量は少し減らしても機動力に優れる、オールと帆を両用する「商業ガレー船」も生まれた。 フランスのマルセイユ、スペインのバルセロナなども海上活動に参入し、地中海におけるヨーロッパ人の勢力が復活した。 今やハンザ・コグに代表される北方系の航洋商船 図43 と地中海のラテン帆を張る沿岸帆船 図44 の間に技術交流が起こった。 地中海の船は横帆と船尾中心線に付く舵を北から取り入れた。 もっとも横帆は古代地中海の帆でもあったのだが、安定した順風の続く外洋航海や荒天時の操帆における横帆の長所が再認識されたのであろう。 一方、北の船は操船性にすぐれるラテン帆と平張り外板を南から学んだ。 これだけ大型化した船にはもはや「重ね張り」は適さない。 図43北ヨーロッパの船---コグのタイプ 図44ラテン帆の地中海沿岸帆船 キャラック Carrack と呼ばれた船はこうして生まれた新形式船の典型であった。 平張り外板の丸い船体、船尾中心線に固定する舵、船の中央あたりの大きいマストに横帆、船尾近くのもう一本のマストにラテン帆を張る。 この組み合わせは横帆とラテン帆の両方の長所をうまく生かすことができる。 まもなく3本目のマストを船首よりに立てて横帆を付け、さらに船首から斜め前方にボウスプリット 船首斜檣 をつきだしてその下にスプリット・セールと言う小さな横帆 船首を風下に回す操船に重宝 を張るのも普通になった。 図45北と南の混血で生まれた新しい形式---初期のキャラック、1450AD頃 図46 3本マストのキャラック,1470AD こうして15世紀末には3本マストにボウスプリットをもつ帆船の基本が完成し、これがその後ずっと西方世界の大型帆船の主流を占めることになる。 この生まれたての"Three Master"が、その後わずか30年ほどの間に成し遂げた偉業はほとんど信じがたいくらいである。 1492年のコロンブスの新大陸到着に続いて、1498年にはバスコ・ダ・ガマがアフリカ南端を回ってインドに達し、それに続くポルトガルの船隊が1515年に東南アジアに着く。 それだけに犠牲も大きく、たとえば5隻に280人が乗って出発したマゼランの船隊が、副将エルカノに率いられて帰国した時には船はただ1隻、生き残った隊員はわずか18人になっていたと言う。 縄文時代の丸木舟の出土例はすべて杉の一本丸太をくりぬいて作った小型のもので、櫂 Paddle で動かしていた。 出土地点からすると主に内水面で使ったようである。 弥生時代に入るともっと大型の舟が必要になり、また鉄器の使用で工作技術も進んだので、大木をくりぬいたものを前後につぎ合わせて大型の丸木舟 複材丸木舟 を作るようになる。 用材はもっぱら楠と見られているが、この構造は日本以外ではあまり例がない。 楠は当時日本列島に豊富にあり、また大木になるのは良いのだが、地面から10メートルも伸びると枝分かれしてしまうのでこのような構造が工夫されたのかも知れない。 に属する西都原の船型埴輪の船と同類であろう。 図47複材丸木舟とその接合部弥生〜〜平安時代 図48西都原(宮崎県)古墳の埴輪 はにわ の船丸木舟の上に舷側板を継ぎ足している。 このころには櫂 かい に代わって、舷側に支点をもつオールが普及している。 人力推進の手段として一段階進んだ形式で、大型船に適する。 簡単な横帆は使われた可能性が高いが確証はない。 いずれにしても推進の主力は人力である。 L/Bは7以上と推定され、Long Shipに属する。 丸木舟を基本とするかぎり、それは必然的な結果である。 このタイプの船で瀬戸内海から西日本一円、朝鮮半島までの沿岸航海は普通に行なうようになっていたと見られる。 6世紀から9世紀半ばまで続いた中国への朝貢貿易では日本と大陸の間の海上交通が少ない回数ではあるが確かに存在した。 特に第7次遣唐使 702年 以後は九州から東シナ海を横断する航路を取るようになったので、従来の丸木舟プラス舷側板のLong Shipでは無理がある。 当時の中国の造船技術は定かでないが、日本よりは進んだ構造のRound Shipをすでに持っていた可能性は高く、それが導入されたかも知れない。 たとえば留学僧圓仁の「入唐求法巡礼行記」には便乗した遣唐使船団 838年出帆 が櫓も使うけれども主には帆に依存している様子がうかがわれる。 これは丸木舟プラス舷側板の船の航海法とは考えがたい。 もっとも838年になれば中国人はアラブ商人の影響ですでに航洋船を持っていたはずだが、700年ではどの程度だったであろうか。 いずれにせよ、遣唐使船がどんな船だったか、それを確かめる資料はないに等しい。 若干の絵巻に見られる遣唐使船も、それが描かれた鎌倉時代に来航していた宋の商船をモデルにしたと推定されるので、時代が大分ずれる。 しかも宋代になると、唐代にアラブ商船に触発されて海上貿易に乗り出した中国商船の技術革新が安定期に入っており、言い換えれば唐から宋にかけて中国船の設計構造には大きい変化があった可能性が高い。 それを考えると絵巻の遣唐使船の信頼性はなおのこと揺らいでしまう。 ひとつ確かなことは、その後の日本の船に遣唐使船の影響は見出しがたく、それは従来の複材丸木舟プラス舷側板の構造を改良、拡大する方向に発展して行ったことである。 ただ、櫓の導入が遣唐使の時代に対応していることは注目される。 この人力推進具は中国人の優れた発明で、圓仁の「巡礼行記」に遣唐使船が使っている記録がある。 そして鎌倉時代以後の絵になると日本の船は大小を問わず櫓を使うようになっている。 平安末期から鎌倉、室町と時代が進んでも日本の船の基本構造は変わらなかったが、図49に示すように舷側につぎたす棚板の数が増え、丸木舟の要素は船首尾と船底部に残存するに過ぎないものも作られたようである。 もっとも当時の図面があるわけではないから、数々の絵巻 えまき 、だと 図49 丸木舟プラス舷側板 棚板 の「準構造船」から全面板構造の和船へ 図50鎌倉期(1200AD)荷船石井謙治:図説和船史話より 図51遣明船復元図石井謙治:図説和船史話より 思えば「蒙古襲来絵詞」 1293年 や当時の文章の端々から推論するほかない。 この分野でも石井謙治氏の業績は光っている。 同氏による鎌倉時代の荷船の復元図を図50に示す。 室町時代、15世紀に入るころには日本の経済構造が徐々に変化し、それまでの米作中心、農業一本の体制の中に手工業や初歩的な商業が生まれて来る。 それは国内物流を促進し、もっと大きな荷船が必要になった。 またすでに鎌倉時代に宋の商船隊によって先鞭を付けられていた日中貿易の利益は日本人にとっても魅力のあるものになっていた。 一方、造船技術はようやく長年の丸木舟プラス棚板の形式を脱して、全面大板構造の船を生み出す段階に達していた。 丸木舟を卒業することは船幅の制約がなくなることを意味し、日本で初めてのRound Shipに道を開いた。 耐航性と積載能力にすぐれるこの新形式の船が時代の要求に合致していたことは論をまたない。 こうして生まれたのが遣明船に代表されるような大板構造の「和船」、前期大和型船だった。 ほぼ垂直の船側外板 上棚 、船底勾配30度前後の船底外板 中棚 、そして水平の平板竜骨と両舷合計5枚の大板を構造の基本とし、横方向の固めとしては数個の船梁がある。 近代木造船のような肋骨はない。 船首尾とも一種の端板 Transom でまとめられ、船首は波切りを良くするように船尾よりも細身に作られていた。 重要なことはL/B:4程度になった点で明瞭にLong Shipからの脱却が見られる。 順風以外では人力推進に頼る習慣は残っていたが、船の大型化に伴って帆の重要性は増したはずである。 室町時代になって日本史上初めての商工業の萌芽とそれに伴う国内物流の需要が造船技術にも大きなインパクトを与えたことはすでに述べた。 この時代から、その直後の安土桃山期にかけてはまた、日本人がこれまた史上初の大規模な海外雄飛を遂げることになり、それは更なるインパクトを日本の造船、航海の技術にもたらすことになる。 少しさかのぼって13世紀半ばから朝鮮半島南部はすでに日本人の海賊行為に悩まされていた。 古代王制秩序の崩壊とそれに続く戦乱、下克上と称された当時の世相を考えると驚くに当たらない。 倭寇と呼ばれたこの行動は消長を繰り返しながら16世紀半ばには揚子江河口から福建沿岸に至る中国大陸に猛威を振るうようになった。 この時期になると倭寇の主力はむしろ中国の乱民であって、日本の国内秩序をはみだした日本人と結託し、その名を騙って密貿易や海賊行為を行なったのが実情のようである。 いずれにせよ、倭寇の活動が日本の造船、航海の技術に新しい血を注ぎ入れたことは否定できない。 たとえば鄭若曹著「籌海図編」 1562 には日本人が倭寇仲間の中国人から仕入れた知識で日本の船の耐航性、帆走性能を改良していると述べている。 当時の中国は、史上まれに見る大船隊を数次にわたってインド洋に派遣した明王朝だから、その船の技術は世界のAクラスに伍していたにちがいない。 それに加えて、16世紀半ばを過ぎるとポルトガル、スペイン、オランダなどのガレオン船が東南アジアに姿を現している。 その新技術、特にトップセール、ボウスプリットなどの帆装の工夫は中国、東南アジア、そしてこの海域に新たに参入して来た日本人にも影響を及ぼしたようである。 その象徴的な存在は「日本前朱印船」であろう。 朱印状は安土桃山から徳川初期の権力者が発行した貿易免許状で、密貿易や海賊行為を防ぐためのものである。 16世紀末から1636年の鎖国にいたる約40年間に合計400隻近い船が朱印状を持って東南アジア地域に公認通商を行なった。 当時この地域には日本人の居留地が急速に発展していたことも知られている。 生まれたての大板構造の和船では東南アジアへの本格的な外洋航海は無理だったらしく、初めのうちは中国船やそれを改良した東南アジアの船などを買ったり、傭船したりしたしたようである。 しかし朱印船時代も終わりに近づく1630年ころには日本独自の設計の、「日本前」と呼ばれる航洋帆船が運航されていた。 寺院に寄進された朱印船の船絵馬がその資料だが、幸いにしてそのうち二面は大そう写実的で、江戸時代中期に描かれた「唐船図巻」 図54 と合わせて当時の朱印船の姿をかなり明らかにできる 図52。 また、図53、55参照。 図52日本前朱印船「末次丸」1630AD. 頃 図53 7世紀初期のオランダのガレオン船 それは推定GT. この型の船をメソツイソ作りとも呼んだが、メソツイソはポルトガル語で混血児のことと言う。 この船を同時代の和船と比較すると、航洋船としての発展段階には大差がある。 特に注目されるのはその帆装が追い風だけでなく、横風、さらには少しくらい前よりの横風でも走れるように工夫されていることである。 たとえば図に示す朱印船の絵馬のトップセールには紛うことなきボーリンが付いているが、これは日本の船の絵に初めて見られるボーリンである。 この索具は当時のガレオンが常用したもので横風ないしは斜め前の風で帆走するときに威力を発揮する。 こうして追い風とかぎらず、広い範囲の風向きに合わせて帆走できることの実用帆船としてのメリットはすでに4章、アラブの船の開き走りに関連して述べたところである。 このように日本前朱印船は日本の船の歴史に異彩を放つ存在で、日本造船学会、関西造船協会ともにこの船を会章に取り入れているのは故なしとしない。 船の技術資料は数枚の絵馬に限られ、国内で建造されたか否か、それさえ分かっていない。 あるいは鎖国に伴って人為的に資料が残らなかったことがあるかも知れない。 幻の船である。 大輪の花を咲かせた朱印船の時代は暗転して江戸200年の鎖国が続く。 日本の船は再び純粋培養の和船に戻り、江戸期経済の発展に応えて独自の成長を遂げることになる。 しかしその前に、朱印船とほぼ同時代に完成した日本の軍船を概観しておくべきであろう。 これらの軍船はその後の和船の設計、構造,艤装に大きい影響を及ぼしているからである。 図54 「唐船図巻」にあるシャム船 図55 明国から琉球へ送った使節船 日本の古代、中世史には数々の水上戦の記録があるが、それに使われた船は荷船または漁舟の転用であって専用の軍船はまだなかった。 そのことは当時の絵巻などから知ることができる。 大きい変化は室町末期、いわゆる戦国時代に起こる。 一方では鉄砲などの火器の導入があり、また造船技術の面では積載量の大きい全面板構造船ができていた。 こうして日本史上初めての専用の軍船が生まれた。 最も大型の船は安宅船と呼ばれ、大板構造のRound Shipの積載量を生かして数門の大砲と多数の鉄砲で武装し、舷側は全周を厚板で囲って防御し、簡単な装甲を持つものもあった。 一本マストに横帆一枚を使い順風には帆走もしたが、戦闘中は人力推進に頼りで、百本を超える多数の櫓を装備した。 同時代の西欧の主力艦は三本マストの純帆船で人力推進はせず、砲装ははるかに強力だった。 そのような重砲装の航洋軍艦は日本では遂に作られなかったが、それは戦場が瀬戸内を主とする沿岸に限られていたからかも知れない。 いずれにしても同時代の西欧の標準からすると安宅船はさして強力な軍用船とは言い難い。 安宅に次ぐ軍船は関船で、軽快な動きを重視し「早船」ともいわれた。 主兵器は多数の鉄砲であった。 図56 関船 造船技術史の観点から注目されるのは関船の船首形状である。 この船首形状は船首船底部に鋭い入射角を与えることになり、高速と波切りの良さを狙ったものであろう。 この船首は中国、朝鮮の船にはあまり例がなく、その背景は興味深い。 とにかくこの船首は評判が良かったらしく、それ以後の後期大和型船では大小を問わずこの形式が主流となる。 軍艦建造が造船技術一般に先進的役割を果たす例は非常に多いが、日本の軍船にもそれが見られる。 この時代から江戸期にかけて、それまでは無名の工人たちの手仕事だった造船の世界に次々と流派が生まれ、技術を伝承する木割書などの文書や建造用の線図などが整備されてくる背景にはあきらかに軍船の影が認められる。 1636年の鎖国が日本人の海上活動に大きな変化をもたらしたことは確かである。 しかし、これで日本人が海に出て行く気概を失い、時代遅れの木造船を細々と維持したにすぎない、と言う見方は正しくない。 経済史から見れば江戸時代は、保守的な政治体制に守られた200余年の間に総生産は徐々に増大し商品流通は高まり、近代的な貨幣経済が確立されて行った時代と見ることができる。 この過程には大規模の物流が必要不可欠だが、それを担ったのが江戸期の沿岸海運だった。 たとえば浦賀船番所の記録によれば1747年一年間に江戸へ入港した遠国廻船 三河以西 は3948隻、貨物総量約40万トンと推定される。 その主力は大坂と江戸を結ぶ菱垣、樽の両廻船群である。 この他にも江戸中期以降の北海道開拓を支えた北前船 大坂、瀬戸内、日本海、北海道の往復航路 、西日本一円や江戸周辺の小回り廻船群など、総計すると莫大な貨物の海上輸送があったわけで、これは日本の歴史でかつてなかった大海運活動であった。 図57は青森県悦心院所蔵の船絵馬。 船絵馬の量産地大阪以外の港湾都市でも船絵馬は作られていた。 しかし遺品がごく少数なのは、大阪物が廻船で全国的に運送されて売られていたのと、地方の絵馬屋の作品が質的に劣っていたことによる。 本図は青森の下北半島に偏在する地方出来の佳品で天候悪化による夜間入港という特異な図柄はこの明治13年 1880 作品とほぼ同時期の7点に共通する。 船・人物・背景・波の表現すべてがユニークで類例のない画風である 図57夜間入港の弁才船 これらの廻船は安土桃山期に形をなしてきた大板構造、大多数は関船型の一本船首材の和船で、初期には相当数の漕ぎ手を乗せて順風以外では櫓を押す船も多かったようである。 回漕店の名がそれを物語っている。 しかし江戸も中期に近づく頃にはこれらの廻船は人力推進を卒業して、全面的に帆に依存するようになる。 これは商船としての経済効率から見て大きな変化だった。 大勢の漕ぎ手と食糧、清水は積み荷を圧迫するし、人件費も大きい負担になる。 100%帆走となればこれらはすべて解決し、しかも船の大型化も可能になるから、さらに効率が向上する。 実はローマ、ギリシャからヴァイキングたち、またアラブや中国の商船も大方は帆走していたのである。 ここにいたって日本の船もそこまで来たと言うことであろう。 帆走に全面的に依存することを可能にした技術基盤は、すでに朱印船のところで触れた「開き走り」である。 追い風だけでなくて、真横の風や少しばかり前よりの横風でも帆走できるとなれば、ずっと広い範囲の風向きで航海が可能になる。 すでに述べたボーリン 江戸期には両方綱と呼ばれた 導入の経緯がそれを示しているように見える。 こうして生まれた日本初の純帆走貨物船が、江戸期のこれまた史上初の本格的な海運活動を支えたことになる。 図58 弁才船構造図 江戸期の帆走荷船の代表は言うまでも無く弁才型である。 瀬戸内海は日本の海運、造船の分野で常に重要な役割を果たしてきた地域だが、弁才型も17世紀初めのころ瀬戸内で形を成したもののようである。 古典的な大板構造の和船で、鋭く傾斜した長大な船首材が大きな特徴である。 この船首はすでに述べたように関船で初めて現れるのだが、関船もまた瀬戸内で生まれたことを考えると、これは偶然ではあるまい。 弁才型の平板竜骨 かわら は和船の中では狭い方で、その両側面には根棚と称する垂直に近い、幅の狭い外板が船の全長にわたって付いている 図59 図59 弁才船の中央横断面図 石井謙治:図説和船史話より その上縁に本来の船底外板 中棚 が付くのだが、この狭いかわらと根棚はあたかも西欧の帆船のbar-keelのように船底から突き出した部分を形成し、開き走りの際に横流れを抑える効果がある。 さきのボーリンの導入も絵画資料によると弁才型が先鞭をつけているようであり、これらを併せて考えると、弁才型は和戦の中でも特に「開き走り」を意識した船であったかと思われる。 江戸期の荷船が開き走りによって純帆走化と大型化、その結果として経済効率の向上を得たわけで18世紀前半には弁才型が全国的に普及したのは自然の成り行きだったであろう。 弁才型はこの他にも滑車の多様とか、キャプスタン 垂直軸ろくろ の使用とか、海外技術の影響を思わせる要素が多い。 こうして見ると、朱印船の栄光は一場の夢と消えて江戸時代の船は純粋培養の和船であったと考えるのは当を得ていないかも知れない。 朱印船時代に日本人が中国や西欧 せいおう の帆船から学んだ新しい技術や概念は人知れず消化吸収されて、江戸期沿岸帆船の発達に貢献していたのではないだろうか。 空荷で木津川口を出帆する弁才船 金沢市 栗崎八幡神社所蔵 弁才船発達の頂点に達する直前の天保2年 1831 に奉納された3艘の北前船 弁才船 を描いた大絵馬の一部。 空荷の1400石積北前型弁才船が開き帆で大阪の木津川口を出てゆく場面 図60弁才船帆走性能の推定 上図は現代の船型試験水槽や風洞での弁財船の模型を実験した結果から、当時の船の帆走性能を推定したものである。 ただしこの推定では波浪の影響が入っていないから、実際はこれよりも5度から15度くらい風下に落ちることが多いであろう。 これならば確かに帆だけで実用航海ができたであろう。 船型の大型化とともに帆の数が増え、人力で扱うことのできる一枚の帆の大きさには限界がある、主帆の上に張る補助帆だったトップスルは大きくなって推進の主投になった。 今や海外に大きな市場と植民地を手に入れ、そこへの航路を開いたヨーロッパ諸国は競って貿易の利をもとめ、縄張り争いも烈しかった。 インド洋へ進出したポルトガル、続いてイギリス、オランダの武装商船は平和的な手段にとどまらず、その武力にものを言わせて既存のアラブ、インドの東方貿易に食い込んでいった。 当時のアラブ、インドの商船と西欧のそれとを比較するとき、西欧側が決定的に優れていたのは彼らの武装だったことは歴史の公平な記録にとどめなければならないことである。 こうしてヨーロッパ諸国は積載量の大きい航洋商船と強力な軍艦を求め、その需要に応じて西欧の船は発達を続けた。 この時代の代表的帆船はガレオンと呼ばれ、キャラックの延長上にあるがより細長く、速力や操船性能にすぐれている 図53、61 図61 15世紀エリザベタン・ガレオン 大砲が海戦の主力兵器になったので軍艦も積載量の大きい、「丸い船」の帆船が有利になった。 古来の軍船の速力や敏捷さよりも、いくらか鈍重でも良いから多くの大砲や弾薬を積んだ浮砲台のような船が強い。 地中海やバルト海では極限まで発達した大型の手漕ぎ軍艦が大砲を積んで17世紀まで残ったが、大勢は<Long Ship>の時代の終わりを示していた。 積載量、したがって砲力が比べ物にならないから。 17世紀に入る頃にはヨーロッパ内の海運に使う沿岸帆船も航洋帆船の影響下に大きく進歩し、中世のコグなどに比べて格段の性能をもつ三檣帆船になった。 例:オランダのfluyt 図62 図62 17世紀のころヨーロッパ内航海運に活躍した、オランダのフライト fluyt 10. わずか300年ほどの間に西欧 せいおう の船は決定的に世界をリードするに至り、同時に彼らが経済的、政治的に世界を制することになった。 15世紀に現れた3本マストの帆船--中央に大きい横帆、前のマストにやや小さい横帆、船尾にラテン帆、そしてバウスプリットの下にスプリットセール--は16、17世紀と順調に拡大と改良を続け、18世紀にほぼ完成の域に達する。 船尾のラテン帆はガフセールに進化し、その上部にトップスル、さらにトギャランスルも張るようになった。 またスプリットセールに代わってずっと効率がよく操作も容易なジブセールが発明された。 マストの間に張るジブ類似の縦帆のステースルも開き帆走に役立ち、また軽風時にトップスルを横に継ぎ足す形のスタッディングセールも工夫された。 こうして完成した18世紀の三本マスト帆船は全装帆船 full-rigged ship と呼ばれ、大型航洋帆船の帆装の基本となった。 帆装形式としてのシップはこれに基づいている。 図63 18世紀の代表的「戦列艦」ヴィクトリア 英国 船の装飾、とくに軍艦のそれは史上もっとも華麗な時代で、みごとな船首像や船尾飾りが妍を競った。 ネルソン提督はその典型で今もPortsmouth軍港に保存されている。 図64 65 18世紀は軍艦の装飾がもっとも華麗になった時代 18世紀の代表的な商船は東インド貿易船 East Indiaman と西インド貿易船 West Indiaman で、イギリス、オランダをはじめ西欧諸国はこれらの船で貿易の利を求め、植民地を経営した。 船型、帆装とも基本的には軍艦と同じ「丸い船」で、かなりの大砲も積んでいた。 当時、戦列艦の半分程度の、しかし強力な補助艦フリゲート 図67 が広く使われていたが、その砲装を減らし代わりに積み荷を多くすると、これらの貿易船になると考えてよい。 図66 18世紀フリゲート型商船の船体線図、チャップマンの教科書より 江戸時代に長崎へ来たオランダの交易船はこのタイプの比較的小型のものが多かったようである。 1768年出版の造船設計の古典、Chapman著:Architectura Navalis Mercatoria 商船設計術 には当時の代表的商船の種類と主要寸法の表がある。 1000トンクラスでL/B=3. 0、500トンクラスでL/B=約3. 7、典型的な「丸い船」で、当時のフリゲート艦と基本的に同じ船型と帆装。 この本には沿岸帆船の表もあり、一般に小型船ほどL/Bが小さく、3. 5〜3. 0くらい。 図67 フリゲート艦 図68 19世紀初期の英国東インド貿易船 一方この時代になると、ヨーロッパの沿岸海運や漁業用の比較的小型の帆船も大いに発達した。 この目的には風上へもよく切りあがり、小回りのきく縦帆が好まれ、北米生まれのスクーナーはその代表格。 しかし横帆にも捨てがたい長所があるので両方を組み合わせたブリガンティン、バーカンティン、トップスル・スクーナーなども工夫された 図69。 図69 19世紀の3種類の沿岸帆船 明治初年に日本に導入された洋型帆船もこれら沿岸用の船でスクーナーが多く、当時は「風帆船」と呼ばれている。 弁才型などの日本土着の帆船と混血しながら昭和10年代まで広く使われた(後述)。 いわゆる機帆船はその子孫で今でも少数ながら見ることが出来る。

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キャラック 船

「大砲……火薬の爆発により砲弾を飛ばす遠距離兵器。 その登場と発展が海戦に革命が起こす!!」(クローズアップされた砲口から火が吹き出る映像が流れている、と思ってください) はい、その時歴史は動いたかどうか知りませんが人力船のネタの続き帆船のネタです。 古代から中世まで海戦の主役であったガレー船。 人の力で自在に海を進む最強の軍船は、しかし風の制約を受ける鈍足な帆船に敗れ歴史の舞台から退場してしまいます。 衝角戦術と移乗戦術が支配していた海戦に何が起こったのでしょうか? その話をする前にまずは今回解説する帆船について軽く触れましょう。 ・帆船 帆船は名の如く帆で風を受け進む船。 人力による櫂船が主に軍船として進化していく中、こちらは別の目的に進化していきます。 帆船は人力船に比べ最高航行速度こそ劣りますが風さえあれば長時間の航行が可能でした。 また大量の漕ぎ手が必要ないため船内の空間も食料の積載や貿易の輸送力として活かされます。 航海能力と積載能力をガンガン増やしていきます(ガレー船が軍船として重武装化したのと対極ですね)。 横帆の大型化と一本から二本、二本から三本と帆柱の増設による推進力向上。 縦帆の併用による旋回性能の確保。 積載量増加のための船首楼、船尾楼の追加と複層構造。 上記構造を取り入れるための大型化。 欧州北方帆船のゴグや地中海の帆船キャラベルなど各地で進化した帆船は十五世紀に一つの船種として結実する。 それがキャラック船!! ・キャラック船(Carrack:意味は船…………ガレー船といい重言多いですね和訳というか日本語) 時代:十六世紀~二十世紀 主な地域:大西洋から太平洋までほぼ全世界 使用者:欧州各国 使用目的:交易、商売、探検、植民そして略奪と侵略 形状:船首楼、船尾楼、複層化、船腹は艇長の三分の一程度(分かりやすく言えばずんぐりむっくり) 材質:木製、二千本から三千本の木材が使用された(500トン級で2300本) 全長:最小30m~最大60m 速度:最高10ノット、最低0ノット(無風時はほぼ潮まかせ、しかし外洋はほぼ風が吹いている) 乗員:最小50名、最大700名 排水量:最小200トン~最大1500トン 動力:帆 建造期間:四十五日(500トン級)、船大工・鍛冶師など約4500人 価格:当時の価格は不明(しかし新造時は複数の商人が費用を出し合ったとあるので高額では思われる) 戦闘方法:軍船ではないが自衛用に投石器や大砲を搭載、戦時には武装商船として従軍することもあった カラック、キャラッカ、ナウ、ナオなど各地で呼び方が違ったり、帆が多かったり、船体が小型だったりと色々派生がありますが一番有名な名称で。 我々が帆船と言われ思い浮かべる九割はこのキャラック船の流れを汲んでいます……というか帆船の要素の塊。 今回の本命であるガレオン船も戦列艦もこのキャラック船の子供や孫に等しい(だから軍船でもないのに取り上げてます)。 あの超有名映画パイレーツなカリビアンに登場する船も大体これの系譜。 遠洋航海への適正は、アメリカ大陸の再発見したサンタマリアや世界一周したビクトリア号もキャラック船と書けば伝わるでしょう。 輸送力も欧州から世界の果てである日本まで貿易船として訪れています。 ネタ:というか豆知識。 船の排水量を表すのに使った単位のトンだが、語源は積み込む樽を一個、二個とトントン叩いて数えたからなんていう話がある。 つまり異世界でもトンは使えるのだ!! ……異世界の物語なのにトン数じゃ雰囲気が出ない? それなら船の規模を示すのに「千樽を積み込めるぞ」とか語らせればいいのです。 ・ガレオン船(Galleon:意味は軍船で語源はガレー船のガレーから) 時代:十六世紀~二十世紀 主な地域:大西洋から太平洋までほぼ全世界 使用者:欧州各国 使用目的:航路の護衛や輸送 形状:船首楼、船尾楼、複層化、船腹は艇長の四分の一程度(ギャラック船より船首楼が小型化しスリムに) 材質:木製、二千本から三千本の木材が使用された(500トン級で2300本) 全長:最小30m~最大60m 速度:最高10ノット、最低0ノット(無風時はほぼ潮まかせ) 乗員:最小50名、最大600名 排水量:最小200トン~最大1000トン(平均的なガレオン船は500トン前後) 動力:帆 建造期間:四十五日(500トン級)、船大工・鍛冶師など約4500人 価格:65000ポンド(英国1637年製ガレオン船)、現代日本円換算だと16億円相当 戦闘方法:20門~50門。 舷側砲による射撃で敵船の船員及び構造の破壊。 十六世紀、アメリカ大陸の再発見などで遠洋航路の重要性が増していました(大航海な時代)。 各国は西に東に黄金を奴隷を香辛料を茶をと運びます。 そしてこれまで主力だったガレー船は地中海のような内海や沿岸部でしか戦えません。 当時発展著しくも『重いから乗せたくない』『命中率が悪い』など嫌われていた大砲も船体の各甲板の両舷に満載します。 こうして戦闘専門のガレオン船が商船団を護衛するようになります。 何せ近づけさせてもらえない……瞬間速度なら上なのですが肝心の衝角で狙うべき舷側にはガレー船を撃沈できる大砲がズ・ラ・リ! 衝角戦術や移乗戦術どのうのこうの以前に船首から船尾まで砲弾に撃ち抜かれれば船体構造も乗組員も被害甚大。 そもそもガレー船が活躍できる地中海の経済的価値が低下しています(当時はスエズ運河が無く、地中海と紅海が繋がっていませんし、陸路もイスラム王朝が押えてました)。 ネタ:ガレー船からガレオン船への王座交代劇ですが一瞬で行われたわけではありません。 具体的には英国のガレオン船団にスペインやフランスやスウェーデンのガレー船団が何度もボッコボコに負けるまで(汗)。 いえ、そんなもんなんですよ現実は。 スペインなんてガレー船艦隊がイギリスのガレオン船艦隊に負けた後も、移乗戦術に固執して何度も負けてます。 一度負けただけで今までの主力艦・戦術を捨てて次世代艦・新戦術に乗り換えるなんて早々しないしできないんです。 まず予算もなければ、敗因が艦の性能とは確信できない……我々は後の世で研究され尽くした結果を知ってるだけで当時の方々は知らない(神の視点を持たない)。 将兵の血と遺族の涙で敗北を味あわなければ次世代艦への変更などされません。 この手の固定観念というか常識の壁、異世界転生や召喚の知識チートの限界と挫折を示すのに便利かもしれないですね。 反対意見や抗議の辞職ならまだいいのですが反乱による拘束、最悪革命による死刑さえありえます。 武装したキャラック船が戦時に軍艦として使用された逆である。 まあ、輸送船だったキャラック船を戦闘用に手直ししたのがガレオン船なのだから当然といえば当然ですね。 海軍モノの創作をするとき、戦闘や軍事的任務ばかりだと単調になるのでこの手の商売系を混ぜるとアクセントになるかもしれません。 ・魔界の海軍提督に就任した魔王マネーモン。 ・戦列艦(ship of the line:列を成す船、では何故、列を組むかというと……?) 時代:十七世紀~二十世紀 主な地域:大西洋から太平洋までほぼ全世界 使用者:欧州各国 使用目的:海戦 形状:船首楼、船尾楼、複層化、船腹は艇長の四分の一程度(キャラック船より船首楼が小型化しスリムに) 材質:木製、六千本の木材が使用された(英国製104門一等戦列艦ヴィクトリー) 全長:最小46m~最大70m 速度:最高13ノット、最低0ノット(無風時はほぼ潮まかせ) 乗員:最小50名、最大1100名 排水量:最小1500トン~最大2000トン(主流の74門戦列艦は1500トン前後、それでも最大級ガレオン船を上回る) 動力:帆 建造期間:発注から竣工まで4年(フランス製74門戦列艦コンケラン)、 価格:年代ごとに価格差が大きい(正しくはポンドの価値変動が激しい) 130000ポンド(英国製1815年101門戦列艦ダンカン)、現代価格だと19億円相当 63000ポンド(英国製1765年104門戦列艦ヴィクトリー)、現代価格だと14億円相当 戦闘方法:50門から140門。 主流は74~80門程度。 舷側砲による射撃で敵船の船員及び構造の破壊。 非装甲、非動力軍艦の集大成(装甲艦への過渡期に蒸気式外輪と帆走の併用はあるが機能美的に好みじゃないので排除) まあ、実質大型化したガレオン船です。 ガレー船時代の海戦だが基本一隻対一隻を同時にやっているだけで連携戦術ではない(というか近づくと味方同士で櫂ぶつかり動けなくなる)。 ガレオン船の時代も風上を取ったりの駆け引きはあったがまだ艦隊規模での戦術は無かった。 どうして戦列を組むかというとそのほうが強いからだ。 まず戦列艦の火力は左右舷の舷側砲による。 つまり単列を組む事で左右に味方がいない=射撃を妨げない陣形を組める。 次に艦の正面や後方から攻撃を受けない。 木造船の宿命として縦に砲撃を受けると船首・船尾に砲弾が貫通してしまう。 それも船員や構造物を破壊しながらだ。 何より複雑な意思疎通がいらない。 海上では声は波風の音に掻き消され、手旗信号も戦闘中注視できない。 前の艦にただひたすらに追随するという戦術はある意味時代に即している(遠距離通話可能な魔法がある世界では一考すべき要素)。 連携をとらずバラバラに動く敵に対して戦列を組んだ艦隊は強かった。 戦列を組めない艦隊は、意思疎通の不備&錬度が低い、対して戦列を組めるような艦隊は司令官から一兵卒まで錬度が高いという実力の差が明暗を分けた面もあった。 実際、戦列を組める同規模の艦隊同士では中々決着がつかないなんてことも……単縦陣戦術は海戦における初の集団戦術であるが最低限艦隊戦するにはこれができないと話にならないという足きりラインと考えたほうがいい。 なんというか沈没原因が酷い。 舷側の窓から水が入って沈没も哀しい。 例えば空飛ぶ騎馬がいれば油壺を落とすだけで帆船なんて燃えてしまう、帆の綱を切るだけもいい。 海の流れそのものを操れる異能者がいれば櫂も帆も要らずに船が水上を走るだろう。 敵と同じだけの異能や魔法や超能力が無ければ貿易航路の独占を許してしまう。 そもそも遠洋航行にしても真水を生み出せる魔法があればそれだけで船の積載量を節約できる。 通信魔法だけでも海上戦術や連携を複雑及び高度化できるはずだ。 建造費も沢山いりますが何より木材がヤバイ。 一隻造るのにも数千本の成木が必要であり建造費の七割が木材という船もある。 冗談ではなく十八世紀のイギリスはあっさり森林資源が枯渇した。 事実足りなくなった森林資源を確保するために北欧からの木材輸入量が七倍以上に膨れ上がっている。 血を吐いて続けるマラソンです(乾いた笑)。 おまけに木は腐ります。 経年劣化すると新造時に負けないぐらいの金と木材を使って修理しなければなりません。 船底に張り付いた貝殻を剥がしたりも必要。 戦時など特別な時期を除いて全艦艇の三分の一程度は船渠に入っていたとも(交代で修繕と貿易をしてるわけです)。 これだけ無茶やっても維持する価値があるほど新大陸の財宝や奴隷貿易や香辛料貿易が魅力的だったんでしょう。 さて大航海時代と火砲の進歩により絶頂期を迎えた帆船ですが、頂に至った以上墜ちるのもまた必定。 大洋の覇者は新たなる支配者の降臨によりその身を海に沈めることとなります。 次回、海軍 動力船編「装甲艦現る!!」(ナレーション) 蛇足:建造費のポンドの現代円換算だが俸給(人件費)を基準に考えるか食料の値段(食費)を基準に考えるかでかなり差が出ます。 例えば俸給換算だと現在英一般平均年収が28000ポンドで1700年代の一般平均年収が30ポンド。 1ポンドの価値が現代比較で933ポンド相当……いやいやどんだけ。 1577年の1ポンドが現代だと260ポンド相当 1600年の1ポンドが現代だと164ポンド相当 1750年の1ポンドが現代だと150ポンド相当 1860年の1ポンドが現代だと65ポンド相当 1940年の1ポンドが現代だと38ポンド相当 *食費基準換算 海戦とは関係ありませんがファンタジー世界で貨幣関係の描写するときは人件費抑えて食費高くしたほうがいいかも知れませんね。 現代の感覚で書くと人件費が凄い事になりそうです。 また戦争中は貨幣の価値が下がるし戦後(勝利)だと価値が跳ね上がる。 まあ、昔になるほど1ポンドの価値は高いと考えて欲しい。 人の価値が安いとも。 この価格調査が一番手間取りました。 戦列艦とガレオン船の建造費調べていたはずがどうしてこうなったのやら(トホホ)。

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ジャンク船とガレオン船はどちらが優れていたのですか?速度...

キャラック 船

誰しも見たことはあるであろう船はどうして生まれ、あの形へとなったのかご存知ですか? 太古の昔から船はあり、輸送だけでなく戦争でも使われる兵器として利用されてきました。 現代ではセレブがバカンスを楽しむ高級クルーザーから釣りを楽しむスポーツフィッシャーや漁船など多岐にわたる種類があります。 そんな船舶ですが人類の進化と共に船舶も進化を続けたのです。 今回は船舶の歴史についてわかりやすくご紹介していきます。 船舶の始まりとは? 1を2にするのは簡単ですが、0を1にするのはとても難しいことです。 そもそも船はどうやって生まれたのか気になりますよね。 船の始まりを知るにはまずは人類誕生の歴史まで遡ることになります。 人が生きていくうえで水、つまり河は必要不可欠でした。 ですが、河を渡るには泳ぐしかなく、荷物を持って河を渡るのは量が制限されとても非効率です。 そこで河に流れている木の枝に荷物を載せて河を渡りました。 木の枝を沢山集めれば多くの荷物を載せて河を越えられるのでその規模は次第に大きくなり、やがては人が乗れるまでに大きくなっていきます。 これが船の原型となるのです。 人類が集落を発展させ、最初に大きな都市作ったのは、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の「世界四大文明」です。 この4都市の近くには大河があり、「世界四大河文明」とも呼ばれています。 人類と河は密接に関係し、その過程で船は効率の良い形へと改良されていったのです。 次は初期に誕生した船についてみていきましょう。 丸木舟 出典 : 丸太を半分に割り、中身をくり抜いて作られており、簡単に作れる船です。 鋭い刃物が発達する前はくり抜くために石を加熱し、丸太の上に乗せてえぐり作られました。 国内では約7,500年前の遺跡から国内最古となる丸木舟が出土するほどで、世界最古の水上輸送手段です。 カヌーもこの丸木舟を参考に作られており、抜群の安定性があるのが特徴です。 筏 イカダ 出典 : 筏は丸木舟で使われるような丸太を並べたり動物の皮に空気を入れた袋を浮力材として利用したものです。 積載重量はそれほど多くありませんが川を渡るには十分すぎる性能で、平面なので安定感もあり浸水により沈没も起こらない安全な乗り物です。 現代ではあまり見かけないですが、急流下りなどのアクティビティで利用されています。 航海の歴史 船舶の進化が続くと航行距離も伸び、今までは行けなかった土地まで遠征することが可能となります。 「大航海時代」はみなさんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。 なぜ大航海時代が始まったのかご存知ですか? 大航海時代が始まる前はヨーロッパ周辺だけで活動していましたが、13世紀に「マルコ・ポーロ」という行商人が当時は知られていなかった中国などのアジアの存在を知らせるために東方見聞録という本を執筆しました。 これによりアジアという地域が知られます。 その後羅針盤・快速帆船・緯度航法など、遠洋航海術が発達し、より遠くへと行けるようになります。 当時のヨーロッパでは肉を中心とした食文化になり、保存の効く香辛料の需要が高まるのです。 さらにキリスト教布教の熱が高まり、まだ見ぬ土地へキリストの教えを広める宣教師が活動します。 こういった背景により、大航海時代がスタートします。 アフリカ大陸南端の岬「喜望峰」に到達したバルトロメウ=ディアスやインドのカリカットに到達したヴァスコ=ダ=ガマは有名ですよね。 日本に関係あるのは1543年の鉄砲伝来ではないでしょうか。 ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂流し、鉄砲と火薬が日本に伝わりました。 その後の戦で活躍し、多くの功績を残しています。 日本は天下統一後も海外と貿易をし、キリスト教が国内へ広まっていきます。 しかし宗教により国を乗っ取られると感じた幕府は1612年にキリスト教禁止令を出し、その後幕府は日本船の渡航にも次第に制限を加えて鎖国状態となります。 大航海時代は別名大侵略時代とも言われておりインドや新大陸として発見されたアメリカ大陸は植民地として扱われました。 日本も条件が整っていたら大航海時代に侵略をされていた可能性があります。 次は船がどのように進化したのか見ていきましょう。 船舶の形の変化 船舶の始まりについてはご紹介しましたが、その後どのような進化をしたのでしょうか。 丸木船のように1つの木から作るのではなく、部品を組み合わせて作る「組み立て船」が完成します。 これは骨組みを丈夫に造り、長い航海でも耐えられるような造りです。 人力で漕いで進むガレー船や帆で風を受けて進むキャラック船など様々な種類の船舶が開発されました。 大航海時代の船の動力は風と漕ぎ手がオールを使って漕ぐ2つの方法だけでした。 19世紀に入ると蒸気機関が船にも使われ、船の材料も木材から鉄鋼へと変化していきます。 大航海時代に使われた船舶を詳しく見ていきましょう。 サンブーク 出典 : サンブークはサンボウクとも呼ばれ、インド西部からアラビア沿岸で使われた小型の帆船です。 シンプルな造りで目立った装飾はなく、定員は15~20名、船の大きさによっては最大で60トンもの貨物を運ぶことができます。 真珠採り用の船として使われていた記録が残っています。 キャラック船 出典 : キャラック船は15世紀に地中海でポルトガルが開発した船舶で遠洋航海用の帆を備えた船です。 3~4本のマストを備え、全長は30m~60mと巨大です。 マストが多いので風に対して適切な角度を選択する柔軟性が高く、三角帆は逆風状態での航行を可能にしました。 嵐の中でも航行ができるほどの丈夫さで甲板を砲台として使うということも出来ました。 ガレオン船 出典 : ガオレン船はキャラック船を基礎に作られた船で、4~5本のマストを備えています。 さらに1列か2列の砲列があり、戦闘に特化した戦列艦としても活躍します。 海賊船と言われる船もこのガレオン船を多く使用しています。 キャラック船よりも幅と全長の比が長く、スピードが出やすい、荷物が多く積めるといったメリットがありましたが安定性に欠けており転覆しやすい船でした。 蒸気船 出典 : 18世紀に発明された蒸気機関を利用した船で、船の両側や船尾に水車のような車輪を取り付けてそれを蒸気機関で回す仕組みで動く船です。 蒸気船が実用的な乗り物になったのは1807年で、アメリカのハドソン川で「ロバート・フルトン」という人物が蒸気機関を利用した外輪船を完成させました。 しかし蒸気船は沢山の燃料が必要ですが動きが遅く、運河や大河のような流れが緩やかな場所でしか使えないのであまり発達はしませんでした。 今でも観光用として外輪船を走らせている場所もあります。 かの有名なタイタニック号も蒸気機関を採用した蒸気船でした。 鉄船 出典 : 丸木舟の時代から船は木で作るのが当たり前でした。 ですが産業革命後製鉄技術が上がり、鉄を薄く伸ばして使うことで木よりも軽く強度のある船が造られます。 世界初の大型鉄船は1843年にイギリスの造船家ブルネルによってつくられたグレート・ブリテン号で推進力には蒸気船で用いられた外輪ではなくスクリュー・プロペラを用いました。 1860年には鉄だけで造られたイギリスの軍艦が登場します。 厚さ11㎝もの鉄板で覆われ防御は完璧、40門の大砲を備えて攻撃も完璧という装甲艦でした。 時代の進歩と共に造船技術は向上していきます。 次は造船しているヤマハ社の歴史についてご紹介します。 ヤマハ社のクルーザー製造の歴史 日本だけでなく世界200か国で愛されているヤマハのクルーザー。 ヤマハ発動機創業者である川上源一は社長就任後90日間の欧米視察中に水上レジャーが盛んに行われている光景を見て日本にもブームが来ると確信します。 この時1953年で、帰国後はセーリングクルーザーがどういったものなのか確かめるために自分で所有しセーリングを楽しんでいました。 当時のメジャーブランドであったアメリカ製の船外機は故障が多く、国内で生産されたものに取り換えましたがアメリカ製に劣っていたのです。 川上源一は船外機の製造を決意しますが海外と違って当時の日本は一般家庭に家電が普及し始めた頃です。 そこで漁業といった業務需要を対象として船外機の開発をスタートします。 同時期にボートの製作にも乗り出します。 日本の技術者が海外の製品を参考に作り、レースでも活躍する船体を製作するまでに成長します。 やがて日本での知名度だけでなく海外でも認められ、世界に愛されるメーカーになったのです。 出典 : まとめ いかがでしたか? 今回は船舶の歴史についてご紹介しました。 遠い昔からある船は木の枝が始まりだったなんて、想像ができませんよね。 大航海時代には様々な船が活躍し、人間の技術の成長と共に船舶も成長していきました。 ヤマハのように日本でも海外製品に劣らないボートを造っている会社は数多くあります。 機会があれば毎年開催されるインターナショナルボートショーに足を運んでみましょう。

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