アステカ 文明。 生贄をスープに…?怖いけど知りたい、アステカの生贄と食人文化|メキシコ情報ブログ VIVA! MEXICO(ビバメヒコ)byたきれいな

アステカ文字

アステカ 文明

概要 [ ] アステカ文字は、記号化された絵と象形文字の2つの部分から構成される。 出来事や場所・人・物といった主要な内容は絵によって表されるが、これらの絵は特定の言語とは結びついていない。 一方、象形文字は数百種類があるが、暦の日付、数字、人名および官職、地名などに用途が限られている。 表音的な側面もあるが、表すことができるのは単語に限られ、文章を記すことはできない。 文書はでamatlと呼ばれるが 、これはを意味し、主にイチジクの樹皮で作った一種の紙の上に書かれた(を参照)。 tlacuiloと呼ばれる専門の訓練を受けた書記がいた。 文字を読む順序はまちまちである。 資料 [ ] ティソク石碑。 ティソクが征服した都市の名が文字で記されている• 碑文は、と異なって少数のものしか残っていない。 もっとも有名なものは15世紀後半のティソク石碑の碑文である。 文書()は、16世紀の植民地化の過程で失われ、現存する20ほどはそれ以降に書かれたものである。 ブルボン文書、メンドーサ文書などがよく知られる。 内容は神話や祭儀に関するもの、占い、暦、系譜、歴史、地図、行政関係(貢納品の一覧、土地の所有者の記録など)など多様である。 メンドーサ文書はで説明が加えてあり、アステカ文字を理解するために重要である。 絵 [ ] アステカ文字文書において絵は主要な部分をなす。 たとえば、「4艘のカヌーを壊した」ことは、カヌーの絵を4つと、岩を持ってそれを壊している人物によって表される。 また、寺院が燃えている絵によって都市の征服を表す。 絵でうまく表せない内容は、しばしば同音語(または近い音の語)を使って語呂合わせ的に表現される。 象形文字 [ ] たとえばTochtepecという地名は、toch tli 「ウサギ」、tepe tl 「山」、c「場所」から構成されるので、山の上にウサギの頭を描いた文字で表す。 地名にはtepetl(山)を含むことが多いが、そうでない場合でも文字に山を含んでいることがある。 この場合、山が一種のとして使われている。 表音的に表わされることもあり、たとえばCoatlanという地名は「多くのヘビがいる所」という意味だが、ヘビと歯から構成される字で表される。 これはcoa tl (ヘビ)とtlan tli (歯)を組み合わせたものである。 右図の一番上では、Mapachtepec(の山)を mai tl 腕・pach tli 苔・tepe tl 山によって表している。 下の Mazatlan(鹿の多い所)、Huitztlan(茨の多い所)ではtlanを歯で表す。 表音的な表記は、スペインの人名の表記にも使われた。 20は旗 pantli で表される。 400はツォントリ tzontli 、8000はシキピリ xiquipilli と呼び、それぞれ専用の記号がある。 ほかに省略記法がある。 20 400 8000 日付 [ ] アステカ暦には、のにあたる365日のと、にあたる260日のがある。 前者は18の月のそれぞれが専用の字を持っていた。 後者は20日周期と13日周期の組み合わせだが、13日周期は数字で表し、20日周期には動物などの名がついていて、その名と関係する文字によって表す。 両者の暦を組み合わせた52年からなるの各年は、tonalpohualliの20日周期からtochtli(ウサギ)・acatl(芦)・tecpatl(石刀)・calli(家)の4つを取り、これを13の数字と組み合わせることで表現する。 たとえば1506年は「1 tochtli」、1507年は「2 acatl」になる。 脚注 [ ]• Smith 1996 pp. 249-250• Smith 1996 p. 250• 346• 植田 1981 p. 315• Smith 1996 p. 318 注2• 247• 316• 16-17• 植田 1981 p. 320• 251-252• Prem 2001 p. 347• 植田 1981 p. 320• 植田 1981 pp. 320-321• 植田 1981 p. 318• Smith 1996 pp. 254-256• Smith 1996 pp. 257-258 参考文献 [ ]• 植田覚「マヤ文字・アステカ文字」『世界の文字』、、1981年、279-323頁。 Prem, Hanns J. 2001. The Oxford Encyclopedia of Mesoamerican Cultures. Oxford University Press. 346-347. Smith, Michael E. 1996. The Aztecs. Blackwell. 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 地球ことば村:世界の文字。。

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アステカ文明滅亡の謎!悲痛の少女マリンチェの裏切りが原因

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「生贄」「太陽信仰」「黄金」といったイメージで一括りにされているが全然違います。 地域も時代も中身違います。 混ぜるな危険。 異なる文明圏に所属している、ということを覚えておこう。 以下の図の出典元は「古代メソアメリカ・アンデス文明への誘い」風媒社 なお、「マヤ文明」「インカ文明」などと呼ばれることが多いが、これは実際はあまり正しくない。 マヤ・アステカはメソアメリカ文明圏の中の一部の地域・時代の文化、インカはアンデス文明圏の一部の地域・時代の一部の文化、という位置づけだ。 日本でいうと「日本文化の中の江戸時代」みたいなノリである。 文字があるのはメソアメリカ文明圏のみ。 アンデス文明には文字はない。 また、同じメソアメリカの中でも、マヤ・アステカでは マヤのほうが古い。 マヤが衰退したのち現在のメキシコあたりに台頭してきたのがアステカ帝国で、スペイン人が侵略にやってきたときに実際にスペイン人と対峙したのがアステカだ。 16世紀、アステカはエルナン・コルテスを中心としたスペイン人によって制服され終焉を迎える。 肌の白いスペイン人を、海の彼方に去ったケツァルコアトル神と勘違いして戦意喪失したとも言われるが、そのあたりは定かではない。 一方、 インカは現在のペルーを中心としたアンデス山脈に栄えた。 非常に高い山の上の都市が特徴的な文明だ。 インカはピサロを中心としたスペイン人に攻め滅ぼされることになるが、スペイン人が白い神の再来などとは思っていなかった。 戦う気満々だったが、ちょうど国土が内乱状態にあったので虚を突かれて王が捕えられた。 王は命乞いをし、部屋一杯の黄金を差し出すといったが、結局殺されてしまう。 ただし両者とも、彼らの子孫は全滅したわけではなく、現代もそれなりに生き残り、文化の一部も引き継がれている。 「帝国」は滅びたが、町や村の単位では存続しているのだ。 尚、中米に存在した文明はマヤとアステカだけではないし、同様に南米に存在した文明もインカだけではない。 ある程度広域を支配し、かつ一定期間栄え続けた文明はいくつも存在し、たとえばマヤの前身にはトルテカ文明、インカの前身にはチムーやシカン、シパンといった文明が知られている。 多数ある文明のうち、スペイン人によって記録され、征服された「最後の時代」の文明、という意味で、アステカとインカが取り上げられることが多いのだと思われる。 年表とか他の文化とかは、参照 研究が進むと年表は書き換わっていくので、参考程度に。 判りやすいところで分けると、 ・マヤ ー 密林の都市文化、ジャングルの中に遺跡がある ・アステカ ー 比較的平地に遺跡がある 現在の メキシコシティが首都 とりあえずこれで覚えとくとイメージがつきやすいかな。 ただし細かく見ていくと時代と地域がずれていることが判る。 この「マヤ地域」というのが少々厄介で、実体が関係を持っている「都市群」で一つの国というわけではないので、実は境界などはあまりはっきりしていない。 ちなみに「マヤ」という名前は有名な遺跡名「マヤパン」から来ており、マヤ民族とかマヤ語とかいう一つのまとまったモノがあったわけではない。 言語も「マヤ諸語」となっており、方言レベルだが地域によって違いがある。 マヤは紀元後200年あたりから12世紀あたりまでが繁栄していた時代になり、アステカが誕生するのは 13世紀になってから。 マヤはスペイン人が来る前に既に衰退が始まっているため、直接スペイン人に滅ぼされたわけではない。 ただしマヤ人は生き残っていたため、侵略者たちとの間で何度も独立戦争を起こしている。 というよりアステカが現在のメキシコの元になったというべきか。 ちなみに現在のメキシコ首都・メキシコシティは、かつてのアステカの首都、テノチティトランの上に建てられている。 メキシコという国名も、アステカ人がかつて自分たちを呼んだメヒコ、あるいはメシカという言葉から来ている。 つまり、 アステカ人=現代メキシコ人の一部だと思って構わない、ということだ。 (混血は進んでいるが… 最盛期にスペイン人と接触したため、直接的にスペイン人に滅ぼされた国となる。

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アステカ文明の滅亡、1,000万人の死者はサルモネラ菌が原因か : ZAPZAP!

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昨日までの数日間に渡って、「古代日本」と「古代ケルト」と「古代エジプト」のつながりを主に見てきました。 これによって、「古代日本」が古代ケルトの「ドルイド教」とどれほど深い関わりがあったのかが、ある程度ご理解いただけたかと思います。 「古代マヤ文明」、「古代インカ文明」、「古代アステカ文明」で、ごく日常的に生贄儀式が行われていた……ということは、世界史に少し詳しい人なら誰でも知っている有名な事実です。 ご存じない方は、以下のリンクをご参照ください。 詳しくは以下のリンクをご参照ください。 なので、古代のアメリカにおいて生贄儀式が行われていたということは、いくら隠そうとしても隠し切れない事実となっています。 しかし、この当時のアメリカと日本とには明確なつながりがあった、何らかの交流があった、という話をすれば、皆さんはきっと驚かれることでしょう。 そんな話は世間には全く出回っていないし、ほとんど誰にも知られていないことだからです。 無理もありません。 この世界を支配しているドルイド僧たちは、この事実を絶対に我々庶民には知られたくないと思っているからです。 そのため、彼らはこれまで数々の情報撹乱、隠蔽工作を行い、我々を煙に巻いてきました。 驚くべきことに、彼らは旧石器時代・縄文時代について、学校で教えることすら禁じていたようです。 詳しくは以下のリンクをご覧ください。 (今では、学校の教師たちの抵抗によって、きちんと縄文時代について教えるようなったようですが。 ) いかに日本の支配層たち、つまり「島津家」「毛利家」たちが、旧石器時代や縄文時代について知れられたくない、国民に興味を持ってほしくないと思っているかという証拠です。 なので、今日はこれらの時代の真実について、あからさまに書いていきたいと思います。 まず、上の画像に出てくる「シカン遺跡」ですが、これは南アメリカのエクアドルやペルーのあたりで栄えた文明です。 で、実はこのエクアドルで、なぜか「縄文式土器」が発掘されているのです。 ----------------(以下、から転載) 「南米エクアドルで縄文土器が発見?」 アメリカ・スミソニアン大学の博士は、エクアドルの太平洋沿岸のバルディビアで、日本の縄文式土器に似た土器が数多く発見されるというのである。 その一つを年代測定すると5500年前のものだったという。 土器の模様は、九州の阿高貝塚や三浦半島の田戸遺跡から出土するものと似ていた。 しかし、出土する土器の成分は、日本の縄文土器とは違い、エクアドルの土から作られたものであった。 アメリカ・スミソニアン大学の博士は、ある仮説を提示した。 それは、今から約5000年前に縄文人が南米エクアドルへ、移動してきた可能性があるというものだった。 エクアドルで発掘されたものは、日本の縄文式土器そのものではなく、その土器を作った人が、ここまで来て作ったとしか説明がつかないというのである。 もちろん、その時代に同じような文化が偶然生まれたとも考えられる。 しかし、日本の縄文式土器とエクアドルの作られた土器の時代を見ると、日本の土器はおよそ1万4000年前に起こり、簡単なものから徐々に複雑な模様に変化していった歴史がある。 これに対してエクアドルの土器は、バルディビアで発掘された土器は、5500年前に発掘されたものが最古で、しかもその土器はある程度発達した日本の土器と酷似している。 つまり、エクアドルで1番古い土器は、簡単なものから複雑化する、過程の全くない複雑なものだったのである。 もし当時のエクアドル人が土器を作ったとすれば、このような複雑な模様は生まれなかったはずだという。 このことからエクアドルの奇妙な土器は、日本から運ばれたのではなく、 縄文人がエクアドルへ移動してきて土器の文化を伝えたと考えればごく自然なのである。 だが縄文人といえば竪穴式住居に住み、森でシカやイノシシを追う狩猟民族のイメージがある。 当時は温暖化が進み、5000年前の日本は海に囲まれ、陸づたいにエクアドルにたどり着くことは不可能であった。 だとすれば、どうやって縄文人はエクアドルにたどり着いたのであろうか。 ----------------(転載ここまで) ちなみに、エクアドルでは以下のような「ピラミッド・アイ・タブレット」と呼ばれる遺跡も発見されています。 まさにフリーメーソンのマークそのものです。 で、この「ピラミッド・アイ・タブレット」をブラックライト(紫外線)に当てると、以下のように青く光ります。 (出典は) で、このような怪しげな遺跡が発見されたエクアドルで、なんと「縄文式土器」が発見されたとのこと。 しかも、日本で作られた「縄文式土器」が発見されたわけではなく、エクアドルで作られたとしか思えない「縄文式土器」が発見されたというのです。 ということは、縄文人が海をわたって南アメリカのエクアドルまで行った、という可能性が出てくるわけですが、果たして縄文人にそんな航海技術があったのでしょうか。 結論から言うと、ありました。 なぜなら、「縄文人」は歴史の授業で習うような原始的な人たちではなく、優れた技術を持った文明人たちだったことが分かってきたからです。 上の転載記事にも書かれてありますが、「縄文式土器」が最初に作られたのは今から1万4000年前。 これがどれほど凄いことか皆さんはお分かりになるでしょうか。 しかも、1万4000年前というのは誤りで、それよりも2500年も前、つまり1万6500年前には既に縄文式土器は作られていたのです。 そして、世界中のどこを探しても、そんな古い時代に作られた土器は一つも見付かってはいません。 つまり、土器を最初に発明したのは、他でもない「日本人」だったということです。 少し長くなりますが、以下の記事をご覧ください。 ----------------(以下、から転載) 縄文時代、縄文人として一般的に思い浮かぶ姿は、歴史時代以前の日本の森林に住んでいた狩猟採集民というイメージでは無いだろうか。 実は、何を隠そう私自 体がつい最近まで、そのようなイメージしか持ち合わせていなかった。 それと言うのも学校で習った縄文時代と言うのは、日本の文明が目覚める前の原始人の時代で、人々は狩の獲物を追って原野をさまよう生活を送っていたと言う物だったからだ。 歴史の始まる以前、原始人の生活には、はっきり言ってあまり興味は無かった。 しかし近年三内丸山遺跡の発見により、縄文時代の生活様式が盛んに議論されるようになってきた。 〈三内丸山遺跡〉 それに伴い私の縄文時代に関する意識も変わってきた。 最近では縄文時代こそ古代史を塗り替える鍵を握っているのではないかと考え始めている。 そもそも縄文時代の名前の由来となったのは、言うまでも無く縄文土器に代表される独特の土器文化からである。 アメリカの学者モースが大森貝塚を発見した折、縄文のついた土器にCode Marked Potteryと名づけた事から、縄文土器と呼ばれるようになった。 ほんの最近まで、縄文人は狩猟採集民族で集落などに定住する事は無く、家族単位の集団で狩の獲物を求めて移動を行っていたと考えられていた。 実際、この 記事を読んでいる、ほとんどの読者は、そのように学校で習った事を覚えているだろう。 学校で教わった縄文時代の知識は実際本当に貧弱な物である。 わずかな土器や土偶の知識と縄文人に関する間違った認識、すぐにテキストに出てくる時代は弥生に移ってしまう。 弥生時代も縄文と似たようなもので、あっという間に終了し古墳時代に移る。 本格的に歴史らしい歴史の知識を学ぶのは古墳時代以降である。 人々があまり興味を抱かないのはもっともな事だ。 しかし、縄文時代に関する貧弱な認識は急速に変化しつつある。 特に三内丸山遺跡の発見は縄文時代に関する常識を根本的に変えてしまった。 三内丸山遺跡の発掘が進むにつれて、この遺跡が縄文の常識を覆す規模で広がっていた事が明らかになった。 縄文前期から中期にわたりなんと1500年間もの間、維持された大集落である事が判明した。 最盛期には500人を越す人々が生活したと見られ、縄文人が定住をしていた事がはっきり証明された。 三内丸山遺跡からは膨大な出土物が出ているが、その中でも目を引くのが巨大なヒスイの珠だ。 ヒスイは非常に硬い鉱物で、その加工には高い技術をようする。 そのヒスイの珠に穴をあけた物が多数出土している。 〈三内丸山遺跡から発見されたヒスイ〉 従来、これらのヒスイの珠は身を飾るアクセサリーに使用されてきたと思われていたが、首からぶら下げるにはあまりに重すぎる為、楽器の一種ではないかとも考えられている。 実際、笛の名人が吹いてみると澄んだ綺麗な音色が出るらしい。 ヒスイは青森では産出されず、新潟県の糸魚川周辺からはるばる運ばれてきた物だ。 黒曜石を原料とした石器類も多数出土しているが、 黒曜石もはるばる北海道から運ばれてきた。 更には岩手県からは、琥珀が運ばれてきており、縄文人の盛んな交易の様子がうかがえる。 おそらく、交易は船で行われていたと考えられている。 縄文人が船で沖へ乗り出し、漁を行っていた証拠も三内丸山から見つかっている。 なんと1メートルもある真鯛の骨で、縄文人が沿岸ばかりでなく遥か沖合まで出向いて漁を行っていた事の証だ。 縄文人の食文化を考える上での、最大の発見もここ三内丸山で行われた。 ここから発見された栗のDNAの研究より、栗が人工的に栽培されていた事がはっきりしたのだ。 これだけの規模の集落が長い間、安定して存在しつづけた事や猪などの大型哺乳類の骨があまり発見されない事などから、農耕が行われていた可能 性は以前より推測されていたが、始めて科学的に裏付ける事が出来たのである。 更に近年、縄文人が栽培農耕を知らない単なる狩猟採集民ではなかった証拠に、各地の縄文遺跡から稲の栽培を示す籾殻やプラントオパールなどが見つかりだした。 稲作は弥生時代に始まったのではなく、縄文時代から行われていたのだ。 最近まで大規模な水田の跡が縄文時代からは発見されていない事から、稲作が本 格的に始まったのは弥生時代以降と思われてきた。 しかし、やはりDNAの研究などから、縄文時代に栽培されていた稲は水田を必要としない種類の物である事が明らかになってきた。 水田イコール稲作と言う概念は間違いだったのだ。 この様に縄文人が原始人であるイメージは徐々に改善され、一気に人々の縄文時代へ の関心が高まってきている。 だが、縄文時代が先進的な文化を備えた、縄文文明と呼べるほどの物だったと言ったら信じられるだろうか。 縄文は単なる古代日本の一時代ではなく、縄文文明と呼べる立派な独立した文明だったのだ。 たとえば、意外と知られていない事実だが世界で最初に土器を発明したのは縄文人である。 世界最古の縄文土器は、青森県の大平山元I遺跡から出土した物で、最新の年代測定法による分析の結果、なんと1万6500年前の物である事がわかっている。 1万6500年前と言う事は、ダントツに世界最古にあたる。 世界最古の文明が発達したとされるメソポタミアでさえ土器の歴史は1万年前ぐらいにしか遡る事は出来ない。 (中略) ここで、縄文文明の文化の高さをうかがい知る事の出来る、いくつかの出土物を紹介してみよう。 以下の写真は、三内丸山遺跡から程近い、八戸市の縄文学習館に展示されている是川中居遺跡出土の縄文土器である。 (註 :これらの画像は、是川中居遺跡の土器の一部です。 こういったものが他にいくつも見つかっています。 ) 縄文土器といえば、文様をつけた植木鉢程度のイメージしか抱いていない読者も多いのではないだろうか。 しかし、この赤漆と黒漆を見事に施された光沢を放つ縄文土器を見てほしい。 これが原始人の産物であるはずが無い、一流工芸家作の骨董品として売られていても誰も疑問には思わないはずだ。 土器同様、漆も又、日本で独自に発明されたものである。 漆器と言えば、欧米でJapanと呼ばれていることからもわかるように、現在でも日本を代表する工芸技術の一つである。 しかし、その起源に関しては、中国・長江下流域の河姆渡遺跡出土の約7000年前の物が世界最古とされてきた。 ところが、北海道南 茅部町の垣ノ島B遺跡から、約9000年前の漆製品が発見された事により、漆の起源も縄文人にある可能性が高くなっている。 国立歴史民俗博物館の永島正春氏や慶応大学の鈴木公雄氏らは同時代の中国と比べると日本の漆技術が非常に高い事を指摘している。 更に、三内丸山から発見された漆は、DNA検査の結果、中国とは別系統であることも明らかになっている。 これらの事より、少なくとも日本の漆技術は、中国とは別系統に発達してきたと考える事が出来そうだ。 あるいは漆技術自体が日本から中国に伝えられた可能性も十分に考えられる。 次の写真は、ご存知遮光器土偶の断片である。 黒光りする現代のセラミックのような土器の断片が素焼きの植木鉢とは如何に異なるか見て取れるだろう。 実際、この土偶の復元を試みた中田宝篤氏によると、遮光器土偶の表面には、「炭化珪素による焼き戻し法」と言う現在の セラミック加工技術にも通じる特殊な処理が施されていると言う。 次の写真は、縄文時代の遺跡から出土した漆塗りの弓を復元した物である。 見事に赤漆と黒漆で装飾されたこの弓に関しては、もはや何も説明を加える必要などないだろう。 ----------------(転載ここまで) ということで、実は「古代日本」こそが世界の文明の発祥の地である、少なくともその可能性がある、ということがお分かりいただけたかと思います。 そして、これほど優れた文明を持っていた日本人が、海をわたってアメリカに行くことなど朝飯前でしょう。 また、「縄文文化」と「マヤ文明」との関連性を示す面白い記事を見付けましたので、加えて皆さんにご紹介したいと思います。 ----------------(以下、から転載) 続々・マヤ文明と縄文文化とももちゃんの古代史は、今マヤ文明と日本縄文文化との関連を解明しています。 第1にマヤ文化と縄文文化は時代が今から5000年以前の紀元前3000年頃で、両文化とも時代的に大差ないこと。 第2に人を神への貢物としている点。 生贄を神にささげている。 メキシコの壁画に生贄が生々しく書かれ彫刻されている。 一方で縄文製鉄時代には製鉄には幼児の生贄を奉げていた。 製鉄にカルシュウムが必要なことは製鉄者たちの製鉄途上で子供が製鉄途上の火に落ちて、その時の製鉄が柔らかい鉄ができたという、良い鉄を得るには欠かせない体験をした。 その後新技術(他の動物や貝殻でカルシュウムを得られると言う技術)を発明するまでは、幼児の犠牲を必要としていた。 その生贄を必要とした技術の時代にメキシコ・マヤに縄文文化が伝わったと推定できる。 マヤの生贄文化は信州製鉄文化の初期時代の生贄を必要とした時代に伝播して行ったと推定できる。 第3にメキシコ・マヤ文化は彩文土器の文化だが、日本の東日本の・・土器(今土器の形式が出てこない、少し前までは直ぐ思い出したのに、年を取ると言うことはこういうことかと少し戸惑う)の工字文等の土器等とメキシコの彩文土器の技術は同じだと言うこと。 (註 : 上に出てきた「是川中居遺跡」のことでしょう。 ) 日本では縄文土器の後の時代に鉄粉で赤い彩文土器を作った。 その後に黒色土器の時代になって、東北に伝わって赤・黒の美しい彩文土器を生んだ。 東北の彩文土器技術・文化がメキシコや中国に伝わってメキシコや中国の彩文土器文化が発展した。 と私は考えている。 この他にもメキシコ文化に水晶のドクロが有ったりするが、水晶は縄文時代に信州と共に栄えた山梨県が名産地。 〈水晶のドクロ・現代の技術でも作れないため、オーパーツとされています。 〉 山梨県の文化遺跡・遺物の研究がまだ私の中でできていないので断定はできないが、メキシコにどの程度の水晶の技術が有ったのかも未調査だが、山梨では水晶玉の加工品が縄文時代から出土していたと記憶する。 等など文化を比較すれば日本の文化がメキシコ・マヤ文化等に伝わった可能性が高い。 ----------------(転載ここまで) と、このように「縄文文化」と「マヤ文明」には、いくつもの共通点があるのです。 と同時に、「縄文時代」に子供たちが生贄として捧げられていた、ということも明らかな事実のようです。 もっとも、この事実は全く我々国民には知らされていませんが。 縄文時代はあくまで古き良き時代として教わりましたから。 ちなみに、縄文時代に「製鉄」の技術があったということも、これまた歴史の授業では絶対に習いませんが、どうやら縄文人は既に製鉄の技術を持っていたようです。 以下のピラミッドは、誰でも見たことがあると思います。 (日本の「階段ピラミッド」については以下のリンクをご参照ください。 というか、そのような残酷な生贄儀式は、すべて日本にその起源があるということです。 なので、残酷な生贄儀式を必要とする「悪魔教」の発祥の地は「日本」だということになりますね。 まあ、これについては過去にも一度、記事を書きましたので、このブログの読者の皆さんにとっては、それほど驚くことではないかも知れませんが。 「悪魔崇拝者」たちは、やはり有史以前から日本を中心として世界を支配していた可能性が高いというわけです。 驚きです!縄文人が南米に行って土器や悪魔教を伝えていたのですね!ある意味日本って、すごいと思いましたが…。 (文明国ではありますが。 汗) 中学校の歴史の授業で「近代史」以降が、何故か「自習」になるのを、子供のころ非常に不審に思っていたのですが。 そういえば「縄文時代」も、ざっとしか授業しなかったですよね。 学校の歴史って、権力者の側に都合よく作られているのだなあと、改めて感じました。 これでもって庶民は、NHK大河ドラマとか見ていて、ものすごく「洗脳」されている訳です。 目が覚めるようです、有難うございます。 日本の大学において「歴史学部」があるのはたった1校だけだそうですよ。 あとは全て「文学部歴史学科」なのだそうです。 上手い事、誤魔化しています。 権力者に都合の悪いことは、そもそも国民は勉強出来ないようにしてあるらしいです。 今回も凄いですね。 モンゴロイド繋がりと考えていいのでしょうか?DNAはきわめて近いのではないでしょうか。 自分は日本の古墳の調査は何故出来ないのかが、RAPTさんの記事をみて納得しました。 後、ちょっとお聞きしたいのですが、私は中高とカトリック系の学校に行ってました。 いつも授業が始まる前、また終わった後に教室の黒板より右上に十字架に架けられたキリストがあり、そこに父と子と聖霊と、、、って祈ってアーメンと唱えて終わります。 キリスト教なのに、何でキリストが十字架に架けられてるのを?普通に元気なキリスト像でいいじゃん。 って若かった私はいつも不思議に思ってました。 RAPTさんの今までの記事をみてきて、悪魔教に破壊されてきたのを知らないのでは?って思ってます。 ありがとうございます。 今回も凄いですね。 もうワクワクが止まりません。 小学校の時に、縄文文化と弥生文化の比較で、縄文の方が低レベルで且つ長く暗黒な原始時代であったような習い方をして、子供心に不思議に思った記憶があります。 どう見ても縄文文化の方が凄く複雑で高度なものに見えましたから。 そして、縄文土器から何か恐ろしい雰囲気を感じていた理由もよく分かりました。 RAPT 理論は私達が刷り込まれてきた誤った歴史認識を完全に覆してくれますね! また欧米で産業革命が始まった時に日本はまだ夜明けもしていなかったとも教わりました。 そうやって日本人はゆっくりゆっくり長い時間をかけて、「日本は昔からレベルが低かった」「劣っていた」という自己卑下を刷り込まれてきたのですよね。 それがアメリカなどの戦勝国の思惑と思っていたのは大間違いで、それを隠れ蓑にしてきた本当の黒幕が島津家毛利家であったとは。 日本人を貶め、一番日本人に賢くなって欲しくないのは、日本という国家そのものだったのですね。 私達はいい加減目覚めないといけませんね。 驚きすぎて、ぶっ飛びます。 いやほんとに・・・驚きの連続です。 日本は古いとは聞きながら、しかし記録がないので知る術がないと思い込んでいました。 それもどうやら思い込まされていたのですね。 土器や土、その他の出土品が科学分析によって過去を語るというのは何より正直に立証するものではないかと思われます。 漆塗りの矢の出土品には驚いてしまいました。 他の出土品の事実についても、国内においては出土場所あたりでしか公にしないなんて、なんて勿体ないことでしょう。 学者の人達がこれまで支持してきた?学説が覆るのが嫌なのもあるかもしれませんが、今後若い研究者達によっても、さらに真実を解明していってくれることを期待します。 すごい情報ですね。 皆様に良いことがありますようにと私も祈ります。 いつもありがとうございます。 初めてコメント致します。 いつも 興味深い内容の更新ありがとうございます。 去年の4月にこちらのブログと出会い 過去記事も含め 毎朝の日課として拝読しています。 お陰様で 悪魔に心を奪われた者がどの様になって行くか、 よく分かりました。 スレ違いと思いますし 皆さん ご存知だとは思いますが、 たまたま ネットサーフィンして見つけた記事です。 RAPTさんの過去記事 沢山の記事がありますが、 「どの角度から見ても「天皇」こそがこの世界の悪の頂点です。 」 など、もっともっと沢山の人に拡散して 気付きがありますように! あと、余談ですが これまでの歴史が欲にまみれた勢力争いなら 選挙など本当に意味が無いと思います。 はっきり言って どの党に投票すればいいとか 全く分かりません。 微力ながら 世の中が良い方向に向かう事を祈るばかりです。 人気記事• - 716,059 views• - 513,398 views• - 433,359 views• - 376,517 views• - 373,341 views• - 371,439 views• - 327,816 views• - 315,532 views• - 310,775 views• - 308,106 views• - 289,796 views• - 273,995 views• - 255,936 views• - 255,018 views• - 254,050 views• - 253,431 views• - 246,374 views• - 244,545 views• - 237,329 views• - 234,822 views.

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