稲田さん。 「稲田」さんの名字の由来、語源、分布。

稲田直樹の兄弟や父親・母親の顔はそっくり?相方の家族は複雑な家庭で極貧生活!

稲田さん

金曜日、メルマガを配信したあと、私は札幌に飛びました。 先日亡くなられたの通夜と葬儀に参列するためです。 札幌は雪で覆われ、真っ白な世界。 雪国の方には怒られそうですが、いつまでも見ていたいほど美しい雪景色。 私は雪解けで茶色く汚れ崩れてしまった雪の上を音をたてて歩くのも好きですが、やはり白く輝きながら降り積もった雪は格別です。 どんなところも、美しい絵画に変身させてしまいます。 そんな白く静謐な世界となった札幌の街で稲田さんの葬儀は行われました。 稲田さん。 5年前に末期の乳ガンを発病したあと、ご自身が長く学ばれてきた千島学説に基づいてご自身のガンに向き合われました。 ガン患者となって気がついたこと、知ったこと、体験したことなどを「」という書物にまとめられ、多くのガンの方に希望を与えられました。 その本がきっかけで、テンプルでも2回の講演会を開催させていただきました。 一時は胸にあった乳ガンが自然に溶解してしまうほどの回復を見せ、ご本人も、自分はもはや元ガン患者である、と思われた時期もあったのではないかと思います。 そんな中でもガンはひそかに稲田さんの身体を蝕んでいたようで、去年の初夏、不意打ちとも思えるやり方で稲田さんの身体でガンが爆発しました。 昨日葬儀に参列した方も言われていましたが、稲田さん、廻りからみると「自分も普通の肉体を持っているということを時々すっかり忘れているのでは?」と思うほど、無理に無理を重ねて生きていらっしゃいました。 「ガン呪縛を解く」を書かれてからは、日本全国からガン患者さんが稲田さんの元へ相談にみえたり電話がかかってきていました。 ガン患者さんは命がかかっていますから、どの相談も真剣で切実。 時には、真夜中にも「不安で眠れない」というガン患者さんからの電話もあったそうで、そんな電話やご相談を、稲田さんは嫌な顔ひとつすることなく、誠実に時間をかけて接していらっしゃいました。 ご自身の執筆活動のあいまに、ほとんど手弁当で、講演にも飛び回っていらっしゃいました。 以前、稲田さんから聞いて驚いたことがあるんですが、本人が全く関知しないまま、稲田さんの名前を利用して健康器具や健康食品を販売していた会社もあったとか。 なかには何百万、何千万円という非常識なほどの高額で、「稲田さんのお墨付き」という宣伝文句のもと、ガン患者さんに売られていたこともあったと聞いています。 そんな欲の渦の中に巻き込まれてしまったことも、大きなストレスや心労になったことは想像に難くありません。 会社の経営者としてお金の苦労もあったでしょうし、様々な人間関係のトラブルもありました。 ガン患者でありながら、ヘビースモーカーでカフェイン中毒気味とも思えるコーヒー好き。 食事も健康な人と同じくらいに、よく食べ、よく飲み、時には、暴飲暴食を楽しんでいらっしゃいました。 以前、ガン病棟でボランティアをしていた友人がこんなことを言っていました。 ・・・・ガン病棟には、他の病棟にはない独特のニオイと重みがある。 それはガン患者さんの呼気に含まれる毒素が影響しているように思う。 長く病棟にいてガン患者さんと身近に接したあとは、自分自身をこまめにケアしないと、健康な自分でも深い疲労感や倦怠感を感じる、と。 気力が充実しているときには、どんなストレスも、肉体的な負荷も、数日休めばまた復活することができたのでしょうが、それなりに身体を維持してきた歯車が、何かのきっかけでうまく機動しなくなったとき、過重とも思える様々なストレスが一気に稲田さんの肉体を押しつぶしてしまったのではと思います。 葬儀が始まる前、稲田さんが朗読されていた宮沢賢治の「雨にも負けず」の一節が会場に流れていました。 稲田さん、まさに「雨にも負けず」のように、自分を後回しにしながら多くの方のために東奔西走していらっしゃいました。 稲田さんとしては、少し予定より早く旅たつことになってしまったのかもしれません。 通夜のとき、お経をよまれたお坊さんが「稲田さんは、寿命ではなく、定命、さだまった命で逝かれました」と言われていました。 ガン発症後のこの5年(そして、それ以前の年月も)、稲田さんは1年を人の何十年分もの勢いで生ききられたのではないかと思います。 私は「死は敗北ではない」と常々思っています。 人はいつかは死ぬ。 それを忘れて、人はいくつなっても死と戦おうとしてしまいますが、死は、魂にとっては新たな誕生でもあります。 稲田さんのご遺体に対面したとき、もうこの肉体には稲田さんの魂はいない、ということをはっきり感じました。 もともと稲田さんは痩せて病弱の様子をされていましたが、それでも、稲田さんの瞳にはいつも知性と慈愛の輝きにあふれていました。 少年のような好奇心に満ちていました。 稲田さんの、優しい慈愛に満ちた瞳にもう触れられないのはとても残念ですが、いまは肉体の呪縛から解き放たれて、縦横無尽に世界を飛び回っていらっしゃるのではないかと思います。 そして、また新たなテーマで世界に向け発信したくなったら、いつかどこかで、新たな肉体をまとって生まれて来られることでしょう。 短い期間でしたが、稲田さんと同じ時を過ごし、語り合う時間が持てたことを心から幸せに思います。 稲田さんのご冥福をお祈りします。

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江川紹子さんがご意見募集 稲田朋美さんの「いい仕事」から考える「多様性」と「保守の役割」

稲田さん

稲田京子さんは、 現役時代に京都大学医学部を受験しました。 しかし、残念ながら不合格。 その翌年に 東京大学理科三類に合格を決めています。 稲田さんの出身高校である 名古屋市立向陽高校(国際科学科)からは 東大・理三の合格者は初ということで 大変な快挙達成でした。 稲田さんが医学部を受けようと考えたきっかけは、 中学・高校時代に途上国の人々の生活状況を 知ったこと。 自分はなんと恵まれているのだろう、 と身に染みて感じたことから 将来は何かしらの形で途上国支援に携わりたい と思うようになり、 「具体的に自分に何ができるのか」を考えた結果 「医療に貢献することが有効」という結論に 達したのだそうです。 最初は地元の名古屋大学受験を考えていた、と 稲田さんは教えてくれました。 というのも、 通学していた向陽高校では 名古屋大学に進学するのが多数派。 ですから、自然と 「自分も名古屋大学に進学するんだろうな」と 考えていたと言います。 現に、高3の夏の模試ではB判定。 合格は手の届くところにありました。 しかし、「国際保健学」や「健康政策」を 学べるのは東京大学・京都大学・慶應義塾大学の 医学部であると知ったことから 高3の10月に京都大学に志望を変更しました。 「今になって思えば、何も知らないまま 京大受験を決めてしまったも同然でした。 本当に努力して、センター試験では何とか 843点をとりました。 でも二次では、東大京大レベルには及ばず… 浪人が決まった時には、何をどうすればよいかわからず 途方に暮れました。 」 と、稲田さんは語っています。 稲田さんが現役時代に受けていたのは、 大手予備校の講義や映像授業でした。 「 でも、それではダメだと思ったんです。 もっと成績を伸ばすためには、違う形式で 学ぶしかない。 四谷学院の55段階個別指導なら、苦手な数学を 基礎からもう一度固めなおせる、そう思いました。 」 稲田さんは四谷学院に入学後、 四谷学院の代名詞のひとつでもある 55段階個別指導に、真剣に取り組みました。 「四谷学院史上最多」とも言える問題演習量をこなしています。 (四谷学院では生徒の55段階の取り組みをデータ化し 進路指導を担当する担任が進捗を管理、 学力を分析しています) 「この時期に解いた問題量が、 その後のすべてにつながったと思います」 と、合格後に稲田さんは語っています。 あるとき、クラス授業の数学の先生から 「このままいけば、東大理三も受かるよ」 と言われました。 東大理三を意識した、ちょうどその頃から すべてが変わり始めたそうです。 国語も、物理も、苦手だった数学さえも どんどん解けるようになったのです。 特に苦手意識のあった数学は 「東大理三」に向けて背中を押してくれた先生の 特製プリントを使った授業が始まると 不思議なくらい成績が伸びました。 以前まで、数学の偏差値は50~60くらい。 でも、秋の京大模試では偏差値80台、 東大模試でも6問中5問で点数をとれるようになり プレ模試では東大理三のA判定が出ました。 「先生のプリントは東大入試と同じ6問形式で 1問を25分で解く目標でした。 解き終えたら、クラス全員の答案を一緒に採点し、 どのアプローチが効率が良いか話し合い 自分の解答を振り返る… このプロセスを繰り返すことで、 奇跡といえるほどの解答力がついたのだと 思います。 」 合格を知った瞬間は、まず信じられず お母さんに確認してもらったと言います。 そして、四谷学院に連絡して、何度も 「私の番号、ありますか?」と聞いた。 合格を確認した後、稲田さんは涙が止まらなかったそうです。 つらかった浪人生活。 現役合格した友人たちに置いて行かれる。 そう感じて辛い思いを味わった日々。 しかし、合格の味は格別です。 「一瞬にしてすべてから解き放たれたように感じました」 「四谷学院に入っていなかったら私は東大を 受けてさえいないし、絶対に合格していなかったと思います」 稲田さんにとって四谷学院は 「すべてを根本から良い方向へ変えていく場」。 四谷学院で出会った素晴らしい先生方との思い出は 稲田さんが浪人生活で得た 「かけがえのない宝物」だと語ってくれました。 稲田さんの、これからの活躍が楽しみです。 これから受験を迎える皆さん、 ぜひ稲田さんの合格ストーリーを参考にしてください。 次はあなたの番です。

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アインシュタイン稲田の年齢や経歴は?彼女はいる?替え歌が爆笑w面白すぎる画像やインスタもまとめ!

稲田さん

NHKの社会部記者として各地の支局で活躍していた頃の稲田さん。 トライアスロンに出会うのはまだ先の話だが、当時から登山にランニング、野球などスポーツを楽しんでいたという Special Interview 先達トライアスリートに学ぶ、人生設計 #001 稲田弘さん(87歳) 〈前編〉トライアスロンに出会うまで Interviewer 山口一真(MAKES/100年コーチ) 87歳でパワフルにチャレンジし続ける稲田さんから、心身ともに豊かな人生を送るために大切なことについて話を訊くスペシャルインタビュー。 聞き手はアイアンマンに出場するトライアスリートで、の担当も務める資産形成のプロ、山口一真さん。 前編は幼少期からNHK記者時代まで、トライアスリートになる前の稲田さんの人生と時代の移り変わりに焦点を当てる。 稲田 弘 Hiromu Inada 1932年大阪生まれ。 小学4年のとき和歌山県・田辺に一家で移り高校までを過ごす。 早稲田大学を経て1957年NHK入社。 社会部記者として忙しい日々を送りながら、登山やマラソンなどを楽しむ。 60歳のとき妻の難病介護のため退職。 体力維持のため泳ぎ始め、マスターズスイムに出場するようになる。 70歳でトライアスロンに初出場。 76歳でアイアンマン・ジャパンに初挑戦。 79歳でアイアンマン・コリアを完走しKONA(アイアンマン世界選手権)出場権獲得。 2012年、80歳でKONAを初完走し、エイジ優勝。 2016年・2018年にもKONAエイジ優勝を果たし、世界最高齢のKONA完走者として世界中から注目されている。 Interviewer 山口一真 Kazumasa Yamaguchi メイクス取締役/100年コーチ。 1982年東京生まれ。 小学校から大学までバスケットボールに打ち込む。 社会人になってスポーツから遠ざかり、一時期体重が100kgを超えたが、選手時代のノウハウを活かした食事と運動により1年間で40kgの減量に成功。 2018年メイクスの担当になったのを機にスイム・バイク・ランのトレーニングを始め、木更津トライアスロンでレースデビュー。 秋にはアイアンマン台湾を完走した。 以後も毎年アイアンマンや宮古島などに出場を続けている。 また、世界のレジェンド稲田さんとの対談をきっかけに、自身もKONA挑戦を表明、チャレンジの模様は下記ブログやインスタグラムでチェックを。 「100年コーチ。 」山口一真のブログ>> Instagram>> はじめに 山口一真が稲田さんに会いたかった理由 山口 今、「人生100年時代」と言われています。 100歳まで豊かな人生を送るためには、家族や仲間と過ごす幸せな時間、没頭できる趣味・ライフワークなどと共に、それらを実現するための資金も重要です。 メイクスは「心と体の健康寿命100歳創り」をキーコンセプトとして、多くの方が「人生100年時代」を心身とも健康で豊かに生きるために、不動産を軸とした資産形成のサポートを提供している会社です。 私たちがトライアスロンというスポーツをサポートしようと考えたのは、トライアスリートのみなさんが、スポーツを通じて人生をよりよくしようという理想を追求していることに共感したからです。 現在87歳のトライアスリート稲田弘さんは、世界最高齢のKONA(アイアンマン世界選手権)完走者であり、年代別世界チャンピオンに輝いている、アスリート中のアスリートです。 その稲田さんがなぜ87歳でもトライアスロンを続けているのか、続けることが可能なのか、どのような人生を歩まれてきたのかなど、お話を伺いたいと思います。 稲田さんの生き方は、人生100年時代を生きるトライアスリートにとって、多くのヒントを与えてくれると同時に、新型コロナウイルスの感染拡大で思うような活動ができない人たちに勇気を与えてくれるでしょう。 インタビューは4月下旬。 Zoomを介して行われた 大阪に生まれ、戦争で和歌山に疎開 山口 稲田さんのお生まれはどちらですか? 稲田 1932年(昭和7年)に大阪で生まれました。 父は衣服を縫う縫製工場を経営していたんですが、戦争で私が小学4年のとき、母の実家があった和歌山に一家で移住したんです。 それから高校卒業まで和歌山で育ちました。 6人兄弟です。 父は和歌山で文房具店をやっていました。 小学校の近くだったので、文房具の需要があったんでしょう。 山口 ノートや鉛筆など、当時の文房具はいくらくらいだったか覚えていますか? 稲田 覚えてないなぁ。 路面電車の運賃が五厘(一銭の半分)だったのは覚えていますが。 山口 100銭が1円ですから、今とはまったく違いますね。 私は1982年生まれで電車の初乗り料金が110円~120円くらいでした。 人生100年時代には、物価の変動というのが重要な課題のひとつになってきますから、今回はそういう物価のこともうかがっていきたいと思います。 数字の豆知識>>物価上昇の歴史 第二次世界大戦直後の1945年から、日本は急激なインフレに見舞われ、物価上昇率は約60%、最大で125%(1947年)だったと言われています。 銭・厘という通貨の単位はなくなり、1銭の100倍にあたる1円がお金の最小額になりました。 その後1950年代後半から70年代の始めまでインフレ率は約4. 5%でしたが、オイルショックによる狂乱物価で消費者物価指数は73年に11. 7%、74年に23. 2%など急激に上昇しています。 英語との出会いで広がった世界 山口 どんな少年だったんですか? 稲田 気が弱いおとなしい子どもでした。 小学校時代は運動をやった記憶がないですね。 中学では一応陸上部に入っていましたが、脚が遅くて、大会では補欠でした。 1932年(昭和7年)、大阪で生まれた稲田さん、幼少時代の写真 山口 後に早稲田大学に進まれるわけですから、勉強はできたんでしょう? 稲田 勉強はがんばっていましたね。 英語の先生が広島大学からハーバードに留学して卒業したという、かなりレベルの高い先生だったんです。 その先生にかわいがってもらったので、特に英語が好きで力を入れていました。 山口 そんなすごい先生がいらしたんですか。 稲田 その頃は5年制の旧制中学だったので、他にもすごい学歴の先生がいましたよ。 山口 稲田さんは語学堪能とのことですが、そういう英語との出会いがあったんですね。 稲田 近くの港に外国船が入港したときには、英語を話す人があまりいないので、私が引っ張り出されて外国人の船員との通訳をしていました。 戦後になって、初めて衆議院選挙をやったとき、当時はアメリカ軍の統治時代ですから、司令部が視察にやってきて、私は中学3年でしたが、その通訳を務めました。 高校1年のとき、和歌山県で英語の弁論大会があって、1位はハワイ帰りの日系2世で、私は2位だったんですが、日本で生まれ育った学生としては1位ということで、県の教育委員会からアメリカに留学させてくれることになった。 ところが乗るはずだった船が何かの都合で運航中止になり、留学も取りやめになってしまいました。 そのかわりに大阪のアメリカンスクール(米軍将校の子弟が通うハイスクール)に半年間国内留学させてもらいました。 そこでバレーボールを初めてやって、運動の楽しさに目覚めました。 高校の先生に誘われて知った登山の楽しさ 山口 高校卒業後に上京し、早稲田大学で学ばれたわけですね? 稲田 そうです。 ただ、高校3年のとき父が他界したので、一度は大学受験をあきらめて1年間、店に立っていたんです。 それを知った担任の先生が、母親に「大学に行かないのは惜しいから行かせてやってくれ」と言ってくれて、母の実家の援助でなんとか大学に行くことができました。 店は母と弟がやっていくことになった。 山口 若い頃、山岳部で登山をしていたとのことですが、これは大学時代ですか? 稲田 大学時代に本格的に上るようになったんですが、きっかけは高校時代です。 囲碁友達でもあった数学の先生が山好きで、誘われて槍ヶ岳に登ったのが最初でした。 一応山岳部だったんですが、部員は私だけ。 先生としては山岳部を作れば学校から補助金が出るので、それが目当てだった(笑) 山口 人生を豊かにする人との出会いを色々していますね。 稲田 私の人生は人との出会いでうまくいった部分が大きいです。 ラッキーでした。 山口 豊かな人生を送った人ほど「自分はラッキーだった」と言いますが、出会いを生かしたからこそ豊かな人生になったとも言えそうです。 高校時代に出会った登山は、大学時代、社会人になってからも続く趣味のひとつに 稲田 私は山で滑落したり凍死しかけたり、何度か危ない目に遭っているんですが、死なずにすんだのもラッキーでした。 特に危なかったのは槍ヶ岳で凍死しかけたときです。 これは大学を卒業してからですが、夏に夜行列車でろくに寝ないで朝から歩き始めたんです。 槍ヶ岳は行程が長いので、最後の稜線にさしかかったときにはすでに日が暮れ、疲れと眠気から知らないうちに岩にもたれて眠ってしまったんです。 そのまま寝ていたら凍死していたところでしょう。 普通は夜に歩く登山者などいないんですが、そのときたまたま男性のふたり組が通りかかり、槍沢小屋まで背負って運んでくれたらしいんです。 翌朝目が覚めたときにはすでにそのふたりは発った後でしたから、話を聞くこともできず、なぜそんな夜に通りかかったのかもわからないままです。 山口 それはすごい経験ですね。 数字の豆知識>>学費の変遷 1950年の私立大学文系(東京)の授業料は約8,400円でしたが、60年代に入ると20万円を超え、80年代には40万円、90年代半ばに60万円を超え、2019年には約80万円まで上がっています。 貧乏大学生のサバイバル術 山口 大学時代はどんな生活をしていたんですか? たとえば、アパートの家賃はいくらくらいだったんでしょうか? 稲田 早稲田の学校の近くや調布あたりなど、5カ所くらい転々としましたが、朝食付きで月5,000円くらいだったと思います。 入学したのが1953年ですから、ラーメンが30円くらいとか、そんな時代です。 山口 私は東京の豊島区生まれですが、そのあたりのアパートが今は月10万円くらいですから、これもかなり違いますね。 早稲田エリアの学生向け食堂はどんなものがいくらくらいだったんでしょうか? 稲田 貧乏学生でしたから、外食なんてできません。 最初の頃は近くのパン屋でコッペパンを買い、店の女の子にタダでバターをもらって、市場で捨てられるキャベツの外側の部分をもらって炒めてパンと食べるといった食生活でした。 まわりもみんな貧乏だったから特に苦労したということではないんですが。 早稲田大学在学時、男声合唱団「グリークラブ」に所属し舞台に立っていた稲田さん(写真中央) 山口 アルバイトはしましたか? 稲田 学生生活に慣れてきて、いろんなアルバイトをやるようになりました。 木場で材木を囲んだり、貿易会社の社長の通訳をしたり、デパート向けのウールのネクタイを編んだり、夏休みには山小屋に荷物を運び上げるボッカというのをやったり。 金額(時給)は覚えてないですね。 どれも安くて、ないよりましという程度でした。 そのうち米軍キャンプのショーで歌を歌うようになって、月8,000円くらいになりましたから、これが一番稼げました。 NHKに入ったときの初任給が7,800円でしたから、それよりよかった。 これを始めてから、他のバイトはやめてこれ一本になりました。 山口 ショーで歌ったんですか? 稲田 早稲田でグリークラブという男声合唱団にも入っていたんです。 その選抜グループで米軍キャンプのショーに出て、アメリカの歌なんかを歌っていました。 毎日トラックに乗せられて、国立や横浜などいろんなキャンプに連れて行かれて歌うんです。 1ステージ3曲で大体毎晩2ステージ。 クリスマスなんかは徹夜で10ステージやりました。 当時1ステージのギャラが100ドルだったらしいんです。 1ドル360円の時代だから36,000円。 ただし、米軍と交渉するマネジャーや仲介業者が間でかなり抜くし、衣装代なども差し引かれて、私がもらえるのは月8,000円くらい。 それでも学生としてはいい収入でした。 食生活も向上したし、授業料もそこから払い、仕送りをしてもらわなくてもすむようになりました。 数字の豆知識>>家賃と収入の推移 東京の賃貸住宅の家賃は、1950年代初頭には3. 3㎡あたり500円未満でしたが、1980年代末のバブル期まで急激に上がり続けて8,000円を突破、2000年代の一時期9,000円を超えましたが、2019年は8,848円となっています。 なりゆきでNHKの社会部記者に 山口 NHKに就職されたのは、放送に興味があったからですか? 稲田 いや、たまたま募集があって、応募したら受かったというだけです。 他に新聞社にも応募しましたが、なぜか途中でやめましたね。 教育学部で教員の資格も取っていましたから、特に放送局に入りたいという気持ちがあったわけじゃない。 たまたまです。 山口 NHKの初任給が7,800円だったということですが、これは当時としてはよかったんですか? 稲田 いや、安かったですよ。 NHKの給料は昔から今に至るまで安いんです。 記者クラブで会う民放の記者たちと話すと、民放の給料のほうがはるかに高かった。 ただ仕事は充実していました。 決まった休みというのがなくて、事件があればいつでも呼び出されて駆けつけなければいけないので、きつかったですが、何もなければ昼間から飲んだりもできる。 休暇は申請すれば取れますから、旅行にいくこともできるんですが、連絡はつくようにしておかなければならない。 旅先から急に呼び戻されたこともあります。 各地の支局などに単身赴任することも多かった稲田さん(写真左端)、職場の仲間とマラソン大会に出場したり、草野球を楽しむなどスポーツも楽しむ機会も多かったという 通説を覆した「信長の墓」発見をスクープ 山口 扱った事件の中で特に印象に残っているのは何かありますか? 稲田 和歌山放送局に勤務していたとき、弘法大師が開いた高野山金剛峯寺という真言宗の総本山で織田信長の墓を発見したことですね。 高野山には戦国大名の墓がたくさんあるんです。 地元の菩提寺にある墓とは別に、死後家族や家臣が墓を建てる。 豊臣秀吉や徳川家康、武田信玄、上杉謙信、明智光秀など、生きていたときは敵味方だった武将も仲良く葬られている。 ところが織田信長の墓だけはなくて、「信長が高野山を攻撃したからだ」というのが当時は通説になっていた。 山口 それを稲田さんが覆した? 稲田 たまたま近くの別の寺を取材したついでに高野山に立ち寄り、宝物館の館長に取材したんです。 そのとき見せてもらった古文書に「信長の小墓一基」とあるのを見つけた。 これは大発見になるということで、高野山大学の学生を動員して探しているところを撮影して、その日は引き上げたんですが、夜中に大学の先生から電話がかかってきて、「見つかった!」というんです。 それで現場に駆けつけ、朝から全国に中継しました。 山口 大スクープですね。 稲田 武将たちの墓が点在するエリアの中でも特に弘法大師の御廟に近い奥まったところに、信長の立派な墓が木立に埋もれ、苔に覆われて隠れていた。 彫られている戒名を名古屋の織田家の菩提寺に照会すると、たしかに一致する。 刻まれている年も本能寺の変があった年で、殉職した武将たちの墓も並んでいる。 これは間違いないということで、高野山を攻撃したから信長の墓はないという説は、「攻撃した武将も仏の慈悲の精神で、赦して迎え入れている」という説明に変わりました。 山口 特ダネに報奨金は出ないんですか? 稲田 報奨金も賞も何もありません。 名誉だけ。 それでも運、巡り合わせのようなものを感じましたね。 たまたま別のお寺を取材したついでに立ち寄っただけなんですから。 山口 信長のパワーを稲田さんが引き継いでいるような気さえしますね。 1964東京オリンピックとTOKYO2020 山口 1964年の東京オリンピックで印象に残っていることはありますか? 稲田 いろんなことが印象的でした。 特に開会式は感動的しましたね。 カラー放送が始まってまもなくでしたから、放送に関わる人間としては、カラーで放送されたことが特に記憶に残っています。 山口 印象的だった競技や選手は? 稲田 マラソンのアベベが圧勝したことですね。 1960年のローマ大会では裸足で走って世界を驚かせ、東京では淡々と独走して次元の違う走りでした。 山口 オリンピックの取材はされたんですか? 稲田 いや、私はずっと社会部ですから、取材はしていません。 1970年の大阪万博は取材しましたが。 山口 今回の東京オリンピックは延期になってしまい、残念でしたね。 来年開催されることを願いたいですが、稲田さんが今、世界最高齢のアイアンマンとして見るオリンピックはどのようなものでしょうか? 稲田 種目も年齢層も全く違う世界ですから、特にアイアンマンとしてどう見るといったことはないですよ。 山口 世界が注目するという意味では稲田さんもオリンピック選手に負けていないと思います。 スポーツ選手のセカンドキャリア、競技者として現役を退いてからの人生をどう過ごしていくか、社会にどう適応していくかが今関心を集めていますが、稲田さんのように87歳でバリバリの現役としてレースに出ているアスリートは、その存在も発信するメッセージも注目されています。 稲田 そういう声をよく耳にしますね。 山口 本人が思っているよりはるかにそういう声は多いと思いますよ。 奥様と横浜・山下公園の氷川丸前で 奥さん任せだった60歳までの資産形成 山口 難病を患う奥様のために、60歳でNHKを退職されたとうかがいましたが、老後のための資産形成はどのようにされていたんでしょうか? 稲田 すべて妻が管理していたので、私は自分の給料がいくらかすら知らなかったんです。 妻も仕事をしていましたから大変だったと思います。 株式投資をやったり、老後のための養老保険のようなものに入ったりしていたんですが、それもすべて退職してから知りました。 山口 資産形成はこれからますます重要になってくると思います。 1991年のバブル崩壊まで、定期預金の利息が5%くらいありましたが、今は定期預金でも0. 002%。 資産運用しないと増やすことは不可能です。 中学時代のハイレベルな先生との出会いから英語に力を入れたこと、高校の先生に誘われて始めた登山など、ラッキーな出会いをきっかけに始めたことが、その後の稲田さんの豊かな人生のベースになっていったのではないかと感じました。 大学時代の苦労話も興味深かったですが、当時から物価がものすごく上がっているということを改めて感じました。 平成不況の時代以後しか経験していない若い世代は、「物価はずっと低迷している」と思いがちですが、時代状況の変化によって物価は激しく上昇することもありえますし、今でもアジアの経済成長している国々では物価が上がっています。 トライアスロンはツールや遠征費など、なにかとお金がかかるスポーツです。 昨年のでは、アイアンマン経験者が1年間にかけるトライアスロン関連費用は平均84万円(大会出場50万円+用具・用品34万円)という結果も出ています。 稲田さんのように年に複数回、海外のレースに出ているアスリートは、費用を年金だけでまかなうのはきついかもしれません。 奥さんが資産運用をしていらしたという話を聞いて、これもいい人と出会い、その出会いからすばらしい生き方を生み出す稲田さんらしいと思いました。 Brought to you by メイクスは、トライアスリートの人生100年を応援します。

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