南 鳥島。 南鳥島のレアアース、世界経済を変える? 現状「ただの泥」の可能性

日本各地の「鳥島」の由来?

南 鳥島

地勢 [ ] 地形 [ ] 一辺が約2kmのの平坦な島であり、最高地点のは9 m。 島の周囲はで浅くなっているが、が速く泳ぐのは危険である。 この海域はに含まれ、島の周囲は深い海に囲まれている。 サンゴ礁の外側は1,000 mの断崖となる。 日本の島としては唯一の東側にあり、日本で唯一上にある。 日本最東端のが存在し、この電子基準点は日本で唯一太平洋プレート上にあることからプレート運動の監視に重要な意義を持っている。 気候 [ ] 降水量と気温 でいう Aw に属する。 月平均気温2月21. 降水量は日本国内では少なめ。 日本ではと南鳥島を含むのそれぞれ一部がに属しているが、南西諸島はからの距離が近いため寒候期(10 - 3月)にはの大きな影響を受ける。 同じ熱帯でも、南西諸島南部(、、、など)は年中降水量が多いので Af に属する。 これに対して、南鳥島は大陸からの距離が遠いため年間の気温差が小さいが、日平均気温年較差が約6. 極値は、最低気温が 13. また、南鳥島はアメダス、気象官署をあわせた気象庁の観測所における11月、12月、1月の国内最高気温記録を保持している。 それぞれの34. 7 85. 5 29. 0 84. 2 30. 2 86. 4 31. 9 89. 4 34. 0 93. 2 35. 0 95 35. 6 96. 1 34. 7 94. 5 35. 3 95. 5 33. 5 92. 3 34. 2 93. 6 31. 6 88. 9 35. 6 96. 7 76. 5 24. 3 75. 7 25. 3 77. 5 27. 2 81 29. 0 84. 2 30. 9 87. 6 31. 3 88. 3 31. 0 87. 8 31. 0 87. 8 30. 3 86. 5 28. 7 83. 7 26. 6 79. 9 28. 3 82. 3 72. 1 21. 6 70. 9 22. 4 72. 3 24. 2 75. 6 26. 0 78. 8 27. 8 82 28. 4 83. 1 28. 2 82. 8 28. 3 82. 9 27. 8 82 26. 4 79. 5 24. 3 75. 7 25. 6 78. 3 68. 5 19. 3 66. 7 20. 2 68. 4 22. 2 72 23. 8 74. 8 25. 5 77. 9 26. 0 78. 8 25. 9 78. 6 26. 1 79 25. 8 78. 4 24. 6 76. 3 22. 4 72. 3 23. 5 74. 9 57 13. 8 56. 8 14. 2 57. 6 16. 4 61. 5 19. 1 66. 4 20. 0 68 21. 6 70. 9 21. 8 71. 2 21. 7 71. 1 20. 8 69. 4 19. 2 66. 6 16. 7 62. 1 13. 8 56. 8 mm inch 71. 7 2. 823 43. 2 1. 701 42. 6 1. 677 72. 4 2. 85 90. 3 3. 555 61. 4 2. 417 153. 2 6. 031 167. 3 6. 587 99. 7 3. 925 80. 3 3. 161 70. 3 2. 768 97. 2 3. 827 1,053. 6 41. 5 mm 11. 3 8. 6 7. 4 7. 8 8. 9 8. 3 13. 8 16. 6 14. 2 11. 7 9. 4 12. 2 130. 1 178. 5 227. 7 237. 6 274. 0 299. 4 274. 1 252. 0 256. 8 250. 6 213. 8 175. 5 2,805. 3 出典: 平均値:1981年-2010年、極値:1951年-現在 人間史 [ ] 南鳥島への空襲(1943年8月31日)• 約20万年前() - して島となる。 (元年) - の船(の船という説もある)モーニングスター号が来訪し、マーカス島と命名する。 (12年) - の斉藤清左衛門が、初めて南鳥島を訪れたとなる。 (明治29年) - 小笠原諸島を拠点に、南洋探検と交易を行なっていたが到達し 、から46人が移住し、に「水谷」と命名する。 開拓の当初の目的はの捕獲との採取であり 、副産物としてやの製造も行なわれた。 のちにの製造が加わった。 南洋の楽園というイメージとは裏腹に、移住者は、、()、(水源に乏しいことからの)、物資不足に悩まされ続けることとなった。 (明治31年) - 「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される。 (明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカ合衆国による領有権を主張して開拓を試みるが、それを察知したも軍艦を派遣し、先に上陸して牽制した(南鳥島事件)。 この事件の際、軍艦「」に同乗していたの技師が南鳥島の土を採取・分析。 分が30%程度であったことから、南鳥島がの国内産地として注目される。 (明治36年) - 2月、水谷が東京府に「鳥糞採取願」を提出。 3月に府より許可が降りる。 これにより鳥糞石()の採掘が本格化する。 最盛期には年間1000トンのグアノを採掘。 島の中央部において採掘され、現場から沿岸部へ敷設されたトロッコによって運搬されて貨物船で出荷された。 主な出荷先は東京の「全国肥料取次所」であった。 グアノ採掘に従事する労働者は60~70人をかぞえた。 大正初期の生産高は年間600トンであった。 この時期に南鳥島の事業の権利は水谷から「南鳥島合資会社」に移転。 (大正11年)- グアノ事業の権利が全国肥料株式会社に移転する。 グアノ採掘はその後も続いたが、によるグアノや肥料の価格急落、資源枯渇などから昭和初期までにグアノ事業は終了。 会社及び労働者は南鳥島から撤退した。 昭和初期 - 漁業を営む数世帯が暮らしていたという。 (8年) - 全島民が撤収し、になる。 (昭和10年) - がを開設する。 (昭和17年) - 中、中将麾下の(旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めてを受ける(日本本土への初空襲は同年4月の)。 その後も1943年(昭和18年)など何度も空襲を受けた。 (昭和18年) - 施行(東京府廃止)。 (昭和20年) - 軍の一国であるによって占領される。 (昭和21年) - 連合軍総司令部がを指令し、日本の南鳥島へのが停止される。 (昭和22年) - 台風発生に伴うで被害を受けたため、アメリカ軍が撤退して無人島となる。 1951年(昭和26年) - 日本のがの委託を受け、南鳥島で業務を始める。 1952年(昭和27年) - によって、正式にに入る。 (昭和38年) - が完成する。 これを受け、南鳥島にが駐留し、日本の気象庁職員は撤収する。 (昭和43年) - され、に属する。 南鳥島航空派遣隊が編成される。 (平成5年) - 南鳥島ロランC局を管理していたが撤収し、が管理を引き継ぐ。 (平成14年) - によりが設置され、日本最東端の点となる。 (平成18年) - 接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。 (平成21年) - 環境省がに指定。 2009年(平成21年) - 南鳥島ロランC局(自体の)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。 (平成22年) - 南鳥島などの離島の保全を目的とした案が衆議院を全会一致で通過。 、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き施行。 2011年(平成23年) - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁舎完成。 (平成24年) - 研究チームにより、南鳥島付近の海底でが発見される。 翌年3月、の一部が高濃度であることが発見される。 生物 [ ] の一種が生息している。 日本国内ではこことにのみ生息が認められ、方面から流木などに乗って分布を広げたものと考えられている。 人体に有害なを持つが多数生息する。 島内の施設と交通 [ ] 太平洋における南鳥島の位置 施設 [ ] 一般市民の定住者はなく、飛行場施設を管理するの(約10名)や南鳥島気象観測所(約10名)、南鳥島港湾保全管理所(3名)の職員が交代で常駐する。 があり、の観測地でもある。 は気象庁の社団局JD1YAAがあり 、来島者の個人局が運用することもある。 かつては海上保安庁の社団局JD1YBJもあった。 往来・補給のために1,370 のがあり、島の一辺の方向に平行である。 島の南側に船のがあるが、浅いに阻まれて大型船は接岸できないため、大型船は沖合いに停泊し、そこから船積みの小型ボートで島に荷揚げを行っている。 このため、2010年度より泊地及び岸壁工事が行われており、2022年度に完成予定である。 の際に戦闘を想定して島を化していたため、その時代のやの残骸などが残る。 アメリカ軍による空襲はあったものの上陸・戦闘は起きなかった。 かつては、が電波航法施設を運用していた。 1993年に千葉ロランセンターが業務を引き継ぎ、213mのアンテナから1. 8の送信出力でロランパルスを発射していたが、ロランを使用する船舶が減少したため2009年12月1日午前に廃止された。 交通 [ ] 島に駐在する職員の交代などのためのが月に一度、海上自衛隊のC-130Rが週に一度、を経由して食料の補給や荷物の逓送のために飛来する。 海上自衛隊のや航空自衛隊のが利用されることもある。 交代の職員もこれらの飛行機を利用する。 が「」 に指定し、南鳥島の住所を記載してもは届かない。 これは各社も同様である。 所要時間はC-130がからの直行で約3時間半である。 海上自衛隊がまで運用していたでは、厚木基地から硫黄島を経由して約7時間かかり、絶海の孤島で周囲に緊急着陸が可能な飛行場が存在せず、何らかの理由で着陸ができないと帰路に燃料不足の懸念があることから、確実に着陸可能である状況でのみ運航を行っていた。 作家のが南鳥島に行きたいと要望し、補給船に乗って1日だけ上陸して、その際の状況を「南鳥島特別航路」に書いた。 希土類 [ ] 2012年6月28日、の加藤泰浩ら研究チームは当地付近の海底5600mにおいて、日本で消費する約230年分に相当する(レア・アース)を発見したと発表。 日本の排他的経済水域である南鳥島沖の海底の泥に、希土類の中でも特に希少で HV のなどに使われるが、国内消費量の約230年分あるという推定がなされた。 これにより、掘削技術を提供していると共同でからの泥の回収技術の開発を目指す。 2013年3月21日、と東京大学の研究チームは、深海底黒泥中には最高で中国鉱山の30倍超の高濃度希土類があることが判ったと発表。 今回の調査で、同大学の加藤泰浩は「230年分以上、数百年分埋蔵している可能性がある」と話している。 なお、陸上の希土類鉱山で問題になる放射性は深海底黒泥中には含まれていなかった。 世界の希土類の主な輸出国であるは、日本による2013年の当地域の希土類に関する報道について、「我が国を煽り立て、牽制(けんせい)することが目的だった可能性がある」とした。 社長の中村繁夫は、南鳥島の希土類採掘は経済合理性に欠けており、一連の報道は単なる牽制目的なのではないかと述べた。 は2013年度から3年間、南鳥島周辺の排他的経済水域内において、希土類を含む海底堆積物の分布状況を調査して評価を行い、商用化に向けた技術開発も行っている。 脚注 [ ] []• (日本語)• 国土地理院. 2015年11月12日閲覧。 日経新聞 2015年1月15日. 2015年9月21日閲覧。 気象庁. 2019年1月閲覧。 気象庁. 2019年1月閲覧。 坂根嘉弘、松山大学論集,28 4 ,127-154 2016-10-01• 2020年4月7日閲覧。 日テレNEWS24• : p. 2000年9月30日• (日本語) 郵便事業株式会社• 日刊工業新聞. 2012年7月2日. の2012年10月21日時点におけるアーカイブ。 2012年10月9日閲覧。 2013年4月10日. 2013年4月16日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年4月10日閲覧。 中村繁夫「 」• 参考文献 [ ]• 『南鳥島特別航路』 、1994年。 関連項目 [ ]• - 存在が確認できなかったにもかかわらず、日本国のとしてなどにも記載されていた架空の島。 仮に存在していたならば、南鳥島よりも東にある日本最東端の島だった。 - 施設を管理する厚木基地のサッカーチーム。 チーム名は島の英語名が由来。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - (東京都小笠原村)• - (2015年5月8日アーカイブ分)•

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南鳥島気象観測所

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南鳥島について 南鳥島について ・ ・ ・ ・ ・ はじめに 皆さんは日本の最東端であり、最南東端である小さな島の名をご存じですか。 (アメリカ等では別名マーカスと呼ばれています。 ) 島の情報は一般的に少なく、伊豆諸島の鳥島、日本の最南端の沖ノ鳥島と間違えられることが多く、その 知名度は低く、一般の人々が立ち入ることが出来ないため、その存在もあまり知られていません。 しかし、台風時期には、新聞・ラジオの天気予報等で「南鳥島の南の台風・」と報道されると、南鳥島は何処 にあるの?、どんな島なんだろう?、とインターネットで検索される方が多く見られます。 実際にインターネットで「南鳥島」検索すると、数多くの関係するホームページを見つけることができます。 そんなホームページを見ていて、私が仕事で過去4回 1回の出張期間は3ヶ月間 島を訪れたときの経験、 島の情報、写真などを公開することで、少しでも皆さんの役に立てるのではないかと、ホームページを作成し ました。 位置 南鳥島は、東京から南東に約1950Kmの洋上、北緯24度17分、東経153度58分に位置し、東京都 小笠原村に所属しています。 また、あまり知られていませんが、経度は北海道の根室よりも東に位置し、日本の最東端にもなります。 詳しくは、太平洋地域が載っている地図で位置を確認して下さい。 歴史 1.発見時代 欧米で島の存在が話題に上がり始めたのは、1800年頃からである。 その頃は伝説的な存在であって、太 平洋の捕鯨船による2〜3の報告物にそれらしい物が見られるが、その位置や名称は非常に曖昧であった。 記録上はっきりしているのは、1864年にハワイの MISSION SHIP "MorningStar" Captain Gelett による訪 問で、「白い砂浜で、樹木と灌木が密生している」事を報じたものが初めてであった。 次いで1868年5月には 、Captain Kilton が "David Hoadley 号" で島を訪れ、「樹木と藪で覆われた低い 砂浜の島である」と抽象的に言及している。 次いで1880年には、フランスの軍艦 "Eclai-Ieu 号" の艦長 Folny が測量して、東経153度57分、北緯 24度30分と報告しているが、この2者が初めての科学的な発表であった。 また、 Weeks 島とも言われていたものも南鳥島の事である。 島の存在は、19世紀後半頃には欧米人の間でも相当知られるようになったが、絶海の小孤島である上に 上陸も容易でなかったため、長い間無人島として放置されていた。 日本人として南鳥島を訪れた記録は、1883年(明治16年)11月高知県人、信崎常太郎らが横浜のコンシ ロ会社のイギリス船 "エター号" に乗船して、上陸したのが始めてとされている。 なお不確実であるが、1879 年(明治12年)に静岡県人、斉藤清左衛門が、この島を発見または上陸したとも言われている。 (明治35年7 月26日東京新聞) 1889年(明治22年)には、米国帆船の船長 A. Rosehill は6月に島を発見、上陸し、無人島であることを知り 島の初めての発見者であると誤信し、椰子の樹に星条旗を掲げ、ホノルルに帰港後、同地駐在米国公使を経 て、米国国務省に発見の報告書と同時に、同島のGuano採取権を要請した。 しかし、それは公式の手続きとし て取り扱われず、国務省の記録に留められたに過ぎず、13年間放置されていた。 2.日本民営時代 1896年(明治29年)に、水谷新六が南洋方面の開拓を志し、当時日本にも分りかけいてたマーカス島 および疑存島のグランパス島を探索する目的で、帆船天祐丸を仕立てて出帆したが、グランパス島は不明 で(この島は後に存在しないことが明らかになった。 )、多くの苦労の末、暴風雨に遭って南鳥島に同年12月 3日に漂着した。 彼は島に上陸し、事業開拓に有望な島であることを確認して、急ぎ帰国の上、12月28日には小笠原より 人夫23名を移住させる一方、日本政府に対して、北緯24度25分、東経152度35分の位置にあるとして 地図を附して、同島の借下げ方を願い出た。 このときの地図は日本人による、最初の実測図で、東京朝日 新聞明治35年7月29日に掲載された。 その後、前記の信崎は、小笠原および八丈島の人夫を移住させ、横浜の貿易商、上滝七五郎と共同して 信天翁の羽毛を採取して輸出したとも言われているが、不確実な点が多い。 しかし、上滝七五郎が南鳥島の 事業主として活躍したことは事実である。 次いで日本政府は同年12月6日附で10年間、同島を水谷新六に貸与する事にした。 しかし、水谷の南鳥島における事業は必ずしも順調とは言えず、明治33年9月には、前記上滝七五郎に 1年間事業を譲り、上滝は独自のアイデアで事業を振興して、一時は在島者は70名にもなった。 水谷は上滝との契約の切れるのをまって、上滝の企画力と水谷の実行力とを合わせることを考え、度々船 を出したが、島に達し得ず、非常な苦労の末、1902年5月に辛うじて、小笠原より49名を移住させること に成功し、事業も盛大となり、島の南側中央部に「水谷村」を作った。 この間において、前記 Rosehill はマーカス島の領有と運営の準備をし、1902年7月に米国政府より Guano採取の許可を得て、帆船 Julia E. Whalen 号を仕立て、同年7月11日にホノルルを出帆し、マーカス 島に向かった。 日本政府はこの報に接し、日本領の南鳥島水谷村に居る日本人と Rosehill との間に紛争が起こることを 恐れ、外務省電信課長石井菊次郎を軍艦笠置で急行させ、7月27日に到着したが Rosehill 一行は未着で あったため、海軍中尉秋元秀太郎と陸戦隊員16名を3ヶ月の食料を持たせ上陸させ、笠置は帰国した。 皮肉にも次の日の7月30日に Rosehill が来島し、秋元中尉等と小さなゴタゴタが生じたが、彼らも事情を 承諾して、島の調査の許可を得て、専門家が調査を行い米国に引き揚げた。 南鳥島で気象観測が始まったのは、昭和10年(1935)10月海軍水路部気象班による観測である。 3.戦後 昭和20年(1945) 9月 米国極東軍進駐、米軍の占領軍政下となる 昭和22年(1947) 台風・高潮により全ての米軍引き上げ、無人島となる 昭和26年(1951) 2月 米軍委託により中央気象台が観測開始 昭和38年(1963) 7月 ロランC局完成に伴い、米国気象局へ観測業務移管 昭和43年(1968) 6月 小笠原諸島の日本返還に伴い、気象庁が南鳥島気象観測所を設置し、米国 気象局より気象観測業務を引き継ぐ 昭和44年(1969) 6月 庁隊舎完成(気象庁、海上自衛隊との一体運営) 平成 5年(1993) 3月 大気バックグランド汚染観測所を設置し、観測開始 平成 8年(1996) 4月 遠地津波の観測開始 平成15年(2003) 3月 気象観測所新庁舎完成 平成18年(2006) 9月1日 台風12号による、一時全島避難 のため、気象観測業務を中止 平成18年(2006) 9月30日 気象観測再開 自然 南鳥島の自然は、戦前のリン鉱石の採取、太平洋戦争によるトーチカ等の造営、その後のアメリカ軍統治下 の飛行場の開設により、自然は破壊されました。 しかし、今はモンパが生い茂り、椰子の木の移植などにより 徐々に回復している。 また、島の周りには珊瑚礁があり、珊瑚礁の外ではカンパチ、サワラ、キハダマグロ等 の釣りが楽しめます。 島の様子は、写真集に掲載していますので、ご覧ください。 ・植物 椰子、パパイヤ、モンパ、ガジュマル、竜舌蘭等 ・海中 熱帯魚、ウツボ、鮫、エビ等 ・生物 アカオネッタイチョウ、アジサシ、小アホウドリ、アメリカシギ等 生活 1.島民 南鳥島には、仕事で出張している人以外は住むことが出来ません。 現在の在島者は、海上自衛隊、海上 保安庁、気象庁の職員、およびその関連工事の作業者です。 海上保安庁が来るまでは、アメリカの沿岸警備隊コーストガード(CG)の職員が13名ほどロランCを運用 するために在島していました。 その頃、コーストガードは日本時間より早い、ウェーク時間を使っていたため、 小さな島の中で時差が2時間存在していました。 2.生活水 南鳥島には川はなく、飲み水を含めて生活用水は天水を利用していました。 天水を集める方法としては、 滑走路に降った雨を集めて貯水槽に溜める方法と、建物の屋上に降った雨を集めて貯水槽に溜める方法 がありました。 毎年、4月から5月は渇水期で雨が降らないため、貯水槽の残りが少なくなったときには、シロップと言う地 下水を洗濯などに使用したこともありました。 しかし、このシロップが紅茶を薄めたような茶色の水で、白い Tシャツなどを洗濯すると大変なことになりました。 しかし、数年前に海水から真水を作る、淡水化装置が整備さ れたため、現在では水には苦労していないようです。 3.食料 南鳥島で採取できるものとしては、陸上ではパパイヤ、からし菜、椰子の実、海からは魚が取れるだけで 普段必要な食料は、毎週、神奈川県の綾瀬から飛来する海上自衛隊のYS-11で、食料を含む生活物資が 送られてきます。 また、気象庁の交代時には埼玉県の入間からC130またはC1により、生活物資が届きま す。 しかし、台風時期などには航空機が欠航になり、食料が不足した経験もありました。 また、補給船による 補給もあります。 4.給油 南鳥島で使用する車両の燃料、航空機に補給する燃料は、年に2回来るタンカーから補給されます。 島には港がないため沖合いに停泊し、フローティングホースと呼ばれるホースを伸ばして行われます。 作業は勤務者以外が総出で行われ、結構大変な作業でした。 5.補給船 航空機に搭載出来ない、水素ガスボンベ、プロパンガスボンベ、その他の物資は、年に2回来る補給船に より運ばれてきました。 給油でも書いたように、港がないので物資の陸揚げは、補給船から小さな船に乗せ代 えて行われます。 (この補給船に乗船して南鳥島にやってきたのが、作家の池澤夏樹さんです。 この時、私も 在島していましたが、作家とは知りませんでした。 詳しくは「南鳥島特別航路」に載っています。 ) 6.その他 昔は自衛隊、コーストガード、気象庁の間で、土日に優勝旗を賭けてソフトボールの試合をしていました。 グランドなどは無いため、エプロン 航空機の駐機所 で行っていましたが、アスハァルトのため滑り込みで怪 我をする人もいました。 休みの日は、のんびりと日光浴をする人、魚釣りをする人、マージャンで懇親を深める人、アマチュア無線等 島の外にはいけないので、それぞれ自分にあったものを探して時間をつぶしていました。 以上のように、国内では体験できない生活でした。 写真集 南鳥島で撮影した写真をスキャナで読み込んでを作成しました。 南鳥島の風景、天然記念物のアカオネッタイチョウなどの動植物、マーカス国際空港? に飛来した航空機、 機上から見た西之島新島等を掲載しています。 この他の写真も整理しながら公開していきます。

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南鳥島沖のレアアース発見、中国メディアが敏感に反応、採掘技術が進めば優位性失うと警戒? |レコードチャイナ

南 鳥島

概歴 [ ] 1907年(明治40年)8月、諏訪町(現在の)のが、から560の位置にを発見、上陸して、まで試みたとされる。 これより以前に、日本の南東海上に、未確定ながら「ガンジス島」なる島があるとの情報があり 、当時のが記した『日本水路誌』にも「其ノ位置ニハ多少ノ差異アルニ依リ他日確定スルノ必要アルヘキ」の注記付ではあるが、 に島があるとされていた。 山田は、発見した島を「ガンジス島」に比定し、1908年(明治41年)5月に小笠原庁へ、島の地図を添えて発見の報告を行った。 この報告を基に、からに宛てて提出された「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」に付属する「小笠原島所属島嶼発見届」によると、島は外周125(約6. 67)、面積64万3700(約2. 13)、と思われるもあった。 また、島にはが積もってできるで覆われており、これは当時、原料やとして重要視されるものであった。 山田はこの島を開発するため日本によるを訴え、1908年(明治41年)7月22日ににより「中ノ鳥島」と名付けられ、日本領に編入された。 しかし、中ノ鳥島はそれ以来再び発見することができず 、特に大正時代には周辺海域を大規模に探索したが、全く発見できなかった。 こうして暗黙のうちに実在しないということでガンジス礁とともに1943年(昭和18年)に海軍水路告示によりの機密水路図誌から削除された。 第二次世界大戦後の1946年1月29日、から「日本」の範囲についての訓令(第677号) が出されたが、第3項に「中ノ鳥島」が含まれていており、アメリカ側では未確定のままとしていた (SCAPIN第677号の目的に於ける日本の範囲を意味するもので、日本領の範囲を示すものではない)。 日本の範囲から除かれる地域として a 、、。 b 北緯30度以南の(を含む)、、、小笠原、硫黄群島、及び、、、 中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。 c 、(、、、、を含む)、。 1946年(昭和21年)11月22日の水路告示第46号(昭和21年11月22日付官報掲載)において、近隣暗礁含め、不存在として削除されたことで、一般の水路図誌からも削除されることとなった。 中ノ鳥島の記述は告示に従い順次削除されたが、改正されていない水路図や地図は依然として民間で流通しており、1953年に出版された『高等新地図』(地勢社)に描かれるなど、新規発行の地図にも記載されたことがある。 実在の真偽 [ ] 実際に島があったものが水没したのか、元々存在せずに山田が他の島とし、あるいはのかは不明である。 山田が本当に探検したかも疑う余地が大いにあるが、そうであれば山田がこれほど壮大な嘘をでっち上げた理由が謎となる。 詐欺話説 [ ] このような「幻の島」が「発見」された理由については、仮説の一つとして「話ででっち上げられた」という説がある。 その概要は以下の通りである。 中ノ鳥島の発見報告書には「高純度の燐鉱石が大量に存在する」「(を取ることのできる)が多数生息している」という記述がある。 これらは当時商品価値の高いものであり、実際に山田の名義でこれらの事業を実行する許可を求めている。 当時(ラサ島)においても燐鉱石が採掘され、開発者に莫大な利益をもたらしていることと照らし合わせても、中ノ鳥島はあまりに都合のよい「もうかる島」だといえる。 ところが、この絶海の孤島を開発するためには多額の初期が必要なことも確かである。 従って「島の開発資金を集めるという名目で詐欺話を企てた」との推測が可能である。 話に信憑性を持たせないとが資金を出すことはないので、国に申し出て国土として認定を受けたと考えることができる。 また、山田自身も過去の経歴や記録を見れば探検航海に出たとは考えにくく、「詐欺話に信憑性を持たせるため、それなりに信頼のおける者」として詐欺師が担ぎ出したと考えるとつじつまが合う(信頼性のありそうな者を担ぎ出すのは詐欺師の常套手段である)。 大正期に中ノ鳥島の開発を目指し、船を派遣したのの談話によると、山田は島開発のために組合を設立し、国から燐鉱採掘権を得られた。 しかし組合員の一人にその権利を独り占めにされ、その人もある事件で投獄されて採掘権もやがて期限切れとなったと、当時の「」に記載されている。 存在の可能性 [ ] 中ノ鳥島があったとされるのはおよそ5,000、またからも外れており、島があったとしても、それがすぐに消えてしまうとは考えにくい。 座標から北東に500kmほど離れた位置には水深約1,400mに頂上を持つ高さ4,000m級の()が存在し、これがかつて島であった可能性もないわけではないが、明治末期以降の数十年という短期間で海面下1,400mまで水没したとすれば、大規模なかが起きたことになる。 その場合、が日本列島を含めた太平洋沿岸まで到達すると思われるが、そのような記録は無く、中ノ鳥島の存在を裏づけるには説得力に欠ける。 には「山田禎三郎がこの島と勘違いしたのではないか」という島もいくつか存在し、最東端の(ただし、当時は人が居住しており、地形も発見報告と異なる)もそのひとつである。 ほかには、当時によって島ができては海没していた()というのもあるが、そのような性質の島であれば、地形的にも記録にあるような比較的平坦なものにはなり難く、まして燐鉱石やも存在しえず、結局勘違いなのか、でっち上げなのか、今となっては不明である。 日本近海の太平洋海域はこの手の幽霊島の宝庫で、南鳥島の南西約400kmに存在したとされるなどは典型的な例である。 に発見報告があって以来海図に載り続け、最終的に不存在とされたのは、中ノ鳥島が不存在と確定した更に後の1972年のことであった。 日本政府の見解 [ ] 1998年(平成10年)4月7日の参議院総務委員会で内閣官房長官は中ノ鳥島についての質問に対して「の七月に閣議決定をいたしまして、『自今該島ヲ中ノ鳥島ト名ケ東京府小笠原島庁ノ所管ト為サムトス』と。 には『機密水路図誌ヨリ之ヲ削除スル』、には『中ノ鳥島不存在』、『精測ノ結果存在シテイナイコトガ認メラレタ』、こうなっております。 したがって、中ノ鳥島の存在は現在確認されておりません。 」と述べた。 脚注 [ ] []• 53-70, :• 「 2016年3月4日, at the. 」『公文類聚・第三十二編』、• 長谷川亮一、「」 千葉大学大学院人文社会科学研究科 紀要論文 千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告 2016年 296巻 p. 2-14, ,• 2011年10月5日, at the. 国会議事録 参議院総務委員会(平成10年4月7日) 関連項目 [ ]• - 2012年に削除されるまで一部の地図に載り続けた幻島。 原因は地図への誤記が続いたため。 - 実在する島。 最東端にして絶海の孤島。 中ノ鳥島は南鳥島よりも東にあるとされていた。 ()-。 噴火によって島が形成された際は新硫黄島と呼称される。 - 実在する島。 日本最南端にして絶海の孤島。 - にあると主張された島々の総称。 ほとんどが実在しない幻島。 - 南鳥島との間に位置するとされた幻島。 外部リンク [ ]•

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