禁忌 に いざ な われ し もの。 ハラールとは

助詞の種類と機能5(終助詞) 和歌入門 和歌のための文語文法

禁忌 に いざ な われ し もの

良寛の春の俳句 春 新池や 蛙とびこむ 音もなし 【季語】蛙 【補足】 松尾芭蕉の「 古池や 蛙 かわず とびこむ 水の音」が思い浮かぶ句で、「新池 あらいけ 」に面白さが感じられます。 なお良寛は、芭蕉が没して 110年ほど経ってから誕生しています。 鶯に 夢さまされし 朝げかな 【季語】鶯 【補足】 「朝げ =朝餉 」とは朝食のことをいいます。 梅が香の 朝日に匂へ 夕桜 【季語】 「梅が香」と「桜」がともに春の季語で、 季重なり きがさなり の句です。 子らや子ら 子らが手を取る 躑躅かな 【季語】躑躅 つつじ 散る桜 残る桜も 散る桜 【季語】桜 【意味】散ってゆく桜 … 残っている桜も、いずれは散るのが桜なのだ 【補足】 太平洋戦争中の特攻隊員の心情になぞらえた歌として知られています。 また、これが良寛の辞世の句といわれることがありますが、一般的には後述の「裏を見せ ~」が辞世とされています。 春雨や 門松の注連 ゆるみけり 【季語】春雨 門松 新年の句 【補足】 注連 しめ とは、注連縄 しめなわ=七五三縄、標縄 を略した言葉です。 スポンサーリンク 春雨や 静になづる 破れふくべ 【季語】春雨 【補足】 「ふくべ 瓢 」はウリ科の蔓草 つるくさ で、果肉をとって加工して容器などが作られます。 「破れ」の読みは「やれ」です。 春雨や 友を訪ぬる 想ひあり 【季語】春雨 水の面に あや織りみだる 春の雨 【季語】春の雨 【補足】 「面」の読みは「も」で、「表面」の意です。 山里は 蛙の声と なりにけり 【季語】蛙 夢さめて 聞くは蛙の 遠音かな 【季語】蛙 世の中は 桜の花に なりにけり 【季語】桜 良寛の夏の俳句 夏 かきつばた 我れこの亭に 酔ひにけり 【季語】かきつばた 雷を おそれぬ者は おろかなり 【季語】雷 いかづち さわぐ子の 捕る知恵はなし 初ほたる 【季語】初ほたる 鉄鉢に 明日の米あり 夕涼 【季語】夕涼 【補足】 鉄鉢 てっぱつ とは、僧が用いる食器のことです。 手もたゆく あふぐ扇の 置きどころ 【季語】扇 【補足】 新古今和歌集には、相模 さがみ:平安時代の女流歌人 の次の和歌が採られています。 手もたゆく ならす扇のおきどころ 忘るばかりに秋風ぞ吹く なお、「たゆく」は「だるく なるほど 」の意です。 スポンサーリンク 夏の夜や 蚤を数へて 明かしけり 【季語】夏の夜 【補足】 「蚤」の読みは「のみ 昆虫 」です。 人の皆 ねぶたき時の 行行子 【季語】行行子 【補足】 行行子 ぎょうぎょうし とは、ウグイス科の小鳥・ 葦切り よしきり の別名で、葦原雀 よしわらすずめ と呼ばれることもあります。 昼顔や どちらの露の 情やら 【季語】昼顔 風鈴や 竹を去ること 三四尺 【季語】風鈴 【補足】 尺 しゃく は尺貫法の長さの単位で、一尺=約 30cmです。 真昼中 ほろりほろりと 芥子の花 【季語】芥子 けし の花 わが宿へ 連れて行きたし 蓮に鳥 【季語】蓮 良寛の秋の俳句 秋 秋風に 独り立たる 姿かな 【季語】秋風 秋風の さはぐ夕べと なりにけり 【季語】秋風 秋日和 千羽雀の 羽音かな 【季語】秋日和 【補足】 秋日和 あきびより とは、秋らしい良い天気のことをいいます。 雨の日や 昔を語らむ 破れふくべ 【季語】ふくべ いざさらば 暑さを忘れ 盆踊 【季語】暑さ 盆踊 いざさらば 我も帰らむ 秋の暮 【季語】秋の暮 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 【季語】もみじ 【補足】 良寛の 辞世の句といわれています。 なお、松尾芭蕉と親交があった谷 木因 たに ぼくいん に次の句があります。 裏散りつ 表を散りつ 紅葉かな 柴の戸に 露のたまりや 今朝の秋 【季語】今朝の秋 手ぬぐひで 年をかくすや 盆踊 【季語】盆踊 萩すすき わが行く道の しるべせよ 【季語】萩、すすき 【補足】 「しるべ 標、導べ 」は「案内、手引き」の意です。 名月や 庭の芭蕉と 背比べ 【季語】名月、芭蕉 【補足】 芭蕉 ばしょう は、バショウ科の多年草です。 もみぢ葉の 錦の秋や 唐衣 【季語】もみぢ葉、錦の秋 【補足】 唐衣 からころも とは、中国・唐風の衣服のことです。 悠然と 草の枕に 秋の庵 【季語】秋の庵 ゆく秋の あはれを誰に 語らまし 【季語】ゆく秋 宵闇や 前栽はただ 虫の声 【季語】虫の声 【補足】 前栽 せんざい とは、庭先に植え込んだ草木、あるいは、花木や草花を植えた庭のことをいいます。 われ喚て 故郷へ行くや 夜の雁 【季語】雁 【補足】 「喚びて」の読みは「よびて」です。 良寛の冬の俳句 冬 雨もりや また寝るとこの 寒さかな 【季語】寒さ 疑ふな 六出の花も 法の色 【季語】六出 【補足】 六出 むつで は雪の別名です。 また、「法」の読みは「のり」で、「仏の教え」の意味です。 落ちつけば ここも廬山の 時雨かな 【季語】時雨 しぐれ 【補足】 廬山 ろざん は中国・江西省にある名山です。 木枯を 馬上ににらむ 男かな 【季語】木枯 柴垣に 小鳥集まる 雪の朝 【季語】雪 柴焼いて 時雨聞く夜と なりにけり 【季語】時雨 焚くほどは 風がもて来る 落ち葉かな 【季語】落ち葉 【補足】 小林一茶 こばやし いっさ は次の句を詠んでいます。 焚くほどは 風が くれたる 落ち葉かな 初時雨 名もなき山の おもしろき 【季語】初時雨 日々日々に 時雨の降れば 人老いぬ 【季語】時雨 火貰ひに 橋越て行く 寒さかな 【季語】寒さ 湯貰ひに 下駄音高き 冬の月 【季語】冬の月 関 連 ペ ー ジ.

次の

ロクデナシ魔術講師と禁忌教典についてです

禁忌 に いざ な われ し もの

日本人にみられる「禁忌の健康観」 日本人にみられる「禁忌の健康観」 Health as limited good in Japanese medical ethos 【初出】教育と医学,1990年10月号(38巻10号),pp. 13-19(pp. 907-913),1990年10月 およそ人の身は、よはくもろくして、あだなる事、風前の燈火のきえやすしが如し。 あやうきかな。 だが、健康を善いものとよぶためには、それをさらに理性によって目的に方向づけなければならない。 124) 健康観の多様性 「健康」と「病気」は常に対比して考えるのが、現在のわれわれの習いである。 病いや病気の概念については、その用語は多様であるにもかかわらず、古くから存在していた。 しかしながら、「健康」という用語そのものは 明治時代以降に登場し 1 、今日的な意味での健康の概念の浸透はたかだか半世紀にしか過ぎないと見てよい。 では、全く健康に相当する言葉が無かったかというと、そうではない。 それは健康ではなくて、「安泰」であったり、「無病」や「息災」で あった。 だが、それはやはり今日における「獲得すべきもの」としての健康ではなく、否定的な病気や災いから逃れるという性格が強い。 学校教育において一番なじみ深い、世界保健機関(WHO)世界保健憲章にみられる健康の「定義」も、過去二十年間の間にさまざまな解釈や 論争の対象になってきた 2。 そこでは、健康のとらえ方は、次第に個人的なものから社会的、環境的なものへと拡張しつつあること。 人間の健康は、それぞ れの時代や社会の人びとが理想と考える「健全さ」というものと深い関係にあること、などが明かにされている。 近代医学の歴史において、健康概念の登場は病 気のそれよりもずっと遅く、同時に健康の概念は、時代と共に少しづつ変化していると見てよいであろう。 そして、巷間では多様な「健康」法が、繰り返し生成・流布・消滅しているのも今日の特色である。 教育、あるいはマスメディアを通して、わ れわれはさまざまな健康について、なんらかの情報を入手しているに違いない。 これらも、知らないうちに、われわれが持つ「健康」にまつわるイメージの形成に影響を与え ているかも知れない。 また、健康は市場経済におけるひとつの「商品」でもある。 「われわれの生を、より健康に、より美しく、より快適にするような『からだ』を めぐる(あるいは『からだ』に直接関与する)人間の営為を対象とする産業」を「からだ産業」として位置づけた調査報告 3 によると、その市場規模(一九 八三年)は十六兆円近くにおよび、GNPの約五・七パーセント、国民医療費をはるかに上回ると言われている。 そして、健康食品、健康器具に関しては八十三 年に遡る八年間に五倍の市場規模にまで成長したと言う。 ここでは、「健康」は商品として流通し、具体的に売買できる実体にまで押し上げられているのであ る。 さて、このような多様な健康観を眺めてみて、まず疑問を持つのは、日本人の健康観は古くから綿々と現在まで続いているのか?、あるいは都 市化された現代社会のなかで変貌しつつあるのか?、ということであろう。 本稿はそのような問題意識をもって議論を展開してみたい。 禁忌の健康観 健康観と銘打たれると必ずあげられるのが、貝原益軒の『養生訓』(一七一三) 4 である。 だが、近代的な文脈の中で健康を論じる人たちの間では、この養生訓は極めて評判が悪い。 曰く、富裕な階級を対象にした教訓書である。 親か ら「戴いた」身体を守れという儒教の<孝>の思想が強調され、なぜ自己の健康を守るのかという理念が欠落している 5 、などと批判されている。 また中国や朝鮮との比較を通して、日本の風土や人びとの体質の独自性につ いてもことさら強調している。 益軒が嫌われるもうひとつの理由は、それ自体の思想性もさることながら、戦前において国家主義イデオロギーの宣伝に利用されたという「暗 い経験」に対する反発にもあるようだ。 健康について語るこの著作には、一貫した原理がみられる。 それは「病気にならないためには〜しない事」という表現が多くみられ、健康を妨 げる特定の行為、食物や療法を制限することによって、健康を維持しようというものである。 従来、養生訓の要点といわれてきた、<孝>の教えや<忍>の信条 についての記述が抽象的なのに対して、この「〜しない事」の内容は、極めて数多くの具体的な指示から構成されているのも特色である。 〜するな、という、ある行為を避けることを通して、災厄から免れようとすることは、世界のさまざまな民族において広くみられる。 このよう な考え方に基づいた健康観を、ここでは「禁忌(タブー)の健康観」と名づけてみよう。 禁忌を守ることが、健康を維持するのだという健康観は、禁忌を破ることに対する恐怖と表裏一体である。 そこからは健康の意味が積極的に評 価されない。 すなわち、養生とは、いま持ち得る「生」をいかに、損失することなく保ち得るかという技術論に他ならない 7。 そして、何かによって介入さ れないならば、健康は所与のものとして獲得されていると見るのもこの健康観の特色なのである。 健康維持について 禁忌の健康観からみると、健康の維持のためには、害のあることをさけることが肝要となる。 貝原益軒は、それをひたすら辛抱することを通し て実現すべきだと説いている。 過度の飲食、セックス、菓子や嗜好品、感情の起伏など、これらは、欲望の対象であり、放っておけば自然に発露するものであ る。 しかしながら、これらのことは、身体における<気の充実>を妨げ、ひいては病気を生み出すことにつながる。 だから辛抱するのである。 この辛抱することに対するプラスの価値観は、基本的にわれわれの道徳観に直結させられて考えられている。 利己的にならず、他者のことを思 い、自分はひたすら辛抱する。 このような人が家庭や職場において理想像とされることは、われわれの現実でもあるのだ。 しかし、辛抱が高じても、自分の健康までも損なってはならない。 なぜなら、それは「ほかの人」に迷惑がかかるからである。 『健康づくりに 関する意識調査』 6 において、健康をそこなうことに人びとが心配するおおきな理由は、「家族に心配をかける」、「家庭生活が維持できない」ということ であり、そう答える人が全体の六割以上を占めるという。 これらのことは、総じて現代の集団検診において象徴的に表われる。 したがって、禁忌の健康法からは、積極的な健康増進の発想が生まれにくい。 先の『意識調査』の別の項目では、健康のために何か気をつけて いることがあるか?と、聞いているが、それに対して「過労に注意し睡眠・休養をとるように心がけている」、「食事・栄養に気を配っている」のがそれぞれ六 割前後の回答がある一方で、「運動やスポーツをするようにしている」ものは二割半ばにすぎない。 あくまでも、健康維持に重きをおく養生訓の伝統は現在まで も続いているといえよう。 外的な働きかけを通して健康を獲得する方法には、食事や投薬がある。 その意味では今日の自然食品、機 能性食品、滋養強壮薬の幅広い利用は、益軒の発想にはない。 だが、そうとは言えない面もある。 そし て、積極的な活動を伴う運動を通して健康を達成しようする態度は、「導引」という穏やかな身体運動を除くと、養生訓に見られない。 過度の運動は、むしろ養 生にはマイナスに作用すると見なされている。 「忌避の健康観」とは正反対に、積極的な努力を通してプラスの価値を高めようとするような健康観を、ここでは「獲得の健康観」と名づけて もよいだろう。 このような健康観が人口に膾炙するようになるのは第二次大戦後の先進諸国においてであった。 現代社会において健康増進の手段として重要視されているのは、レクリエーションや身体運動であり、またスポーツである。 体力づくり、健康 増進におけるそれらの効用は、六十年代後半のノルウェーに始まるトリム運動が特に著名である。 西ドイツは、トリム運動について国家的なキャンペーンを組み、国民の大多数をそれに参加させたことでよく 知られている。 むろんトリム運動には、労働時間の短縮やその経済的効果についての政治経済的な配慮や政策面での努力があったからこそ達成されたのであ り、またそのような努力が不可欠なのである。 わが国において、東京オリンピックが開催され、比較的早い時期にトリム運動が紹介され、さらには厚生省による「国民健康づくり計画」が推 進されてきた。 しかし、それにもかかわらず、先の調査報告のように健康のためにスポーツを行なう人口が少ないのは、総労働時間の短縮という、トリム運動を 支援する具体的政策が実現されていないからであろうと考えられる。 健康のための運動ができない理由として、「時間がない」と多くの人びとが答えている 6 こともうなづけよう。 別の調査においても 3 、「気に入ったスポーツ施設が近隣にあれば通いたいと思っている」わが国の人びとの割合は、米国、英国などと比 べて変わりはないにもかかわらず、実際にスポーツ施設を利用している人の割合は、それらの国々の半分にしかすぎないという結果がでている。 スポーツに対する古典的イメージ 今日、人びとのスポーツに対する関心は高まっていると言われる。 テレビ番組におけるスポーツ番組の取り扱われ方、スポーツのファッション 化、娯楽としての多様化といった、社会的な現象としても、このことは、よく理解できるところである。 今や、日本のスポーツは単なる根性論では語れなくなっ てきたことは事実である。 トレーニング法においても同様である。 運動生理学や動機づけの理論など、「科学的な」方法を駆使して選手管理することなどは今や常識化し ている。 にもかかわらず、日本人がもっている身体運動に対する古典的なイメージが完全に払拭されたかというと、疑問な点も多い。 身体運動について の考え方という面ではどうであろうか? スポーツを通しての健康法は、先にも触れた「獲得の健康観」に基づいている。 しかしながら、養生訓流の「禁忌の健康観」を想起させるもの も残っている。 例えば、運動を苦行や修行としてみる見方である。 それは久しく健康をめざす運動が、「鍛錬」や「教練」として意味づけられていたことと無 関係ではない。 健康を達成するために、ある苦行を辛抱して行なうという理解は現在でも色濃く残っており、先のトリムの精神とは対照的である。 また、運動が個人指向のなかで行なわれるのではなく、集団指向をもって行なわれる。 あるいは、そうであればこそ効果が十分に発揮されるの だという考え方もそうである。 そのため、個々人がスポーツを通して健康を達成するために、どのようにやればよいのかという技術や方法に関する知識は十分に は普及しておらず、また人びとにそれらが教えられる機会も実際に少ない。 健康観と身体観 大貫恵美子は、日本人の病気観と医療システムを論じた著作 8 のなかで、その衛生観念に表われる「清潔」と「不潔」の区分が、極めて文 化的な尺度によって決められおり、それらが、例えば家の「内」と「外」、「上」と「下」と言った分類の中で強固に守られていると述べている。 彼女による と、このような二元的対立は、身体をはじめ、社会や世界の認識(これらは総じて「宇宙観(コスモロジー)」と呼ばれている)にまで展開するという。 本稿で触れた「禁忌の健康観」は、この二元的対立の構図を保守的にかつ厳格に守ろうとして、その境界を越境しないように振舞うことである と解釈することができよう。 しかしながら、われわれの社会が経験しつつある「獲得の健康観」は、この二元的なあり方を解体しようとする、あるいはその境界の位置を変 えようする、状況の中で生じた新しい社会現象なのであろう。 健康達成のためのスポーツという発想は、この「獲得の健康観」の最たるものであり、その動態を 把握することは、今後の「健康観の探究」のためにも必要なことである。 そのためにも健康の生物科学の研究同様、健康の文化的側面についての人文・社会科学的な探究が不可欠とされるのである。 2 池田光穂、第三世界のプライマリーヘルスケア戦略とその背景にあるもの、医療人類学、二巻三号、一九八九年。 3 シィー・ディー・アイ、日本における「からだ産業」の将来、シィー・ディー・アイ株式会社、一九八六年。 4 貝原益軒、『養生訓』(佐藤友信訳)、講談社学術文庫、一九八二年。 6 健康・体力づくり事業財団、『昭和六〇年度 健康づくりに関する意識調査』、財団法人、健康・体力づくり事業財団、一九八五年。 ただ し引用は吉田 1 によった。 7 このような発想は広く農民がもち得るエートスだと言われてきた。 (Foster,G. ,Pesant Society and the Image of Limited Good,American Anthropologist,Vol. 【2017年の追加】 9 カント『判断力批判』熊野純彦訳、作品社、2015年 Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1990-2017.

次の

軍歌、戦時歌謡 六 「いざ来いニミッツ マッカーサー」

禁忌 に いざ な われ し もの

ハラールとは イスラーム法において合法なものの事をハラールといい、非合法なもののことをハラームといいます。 そして、最近ではそれ以外のハラールでない物の事を非ハラール(non halal と称する事もあります。 ハラールに処理された食品は、ムスリムの人のみが食するものではなく、もちろん誰でも食することができます。 食肉に関しては血抜きをするため、バクテリアの繁殖を防ぎ、鮮度を保ち、清潔に肉を食する事ができます。 その他、加工品や化粧品では原材料にハラールではない成分を含むもの(ポークエキス、ゼラチン、豚脂など)を食、利用することができません。 最近では一般的にオーガニック食材が日本でも大変人気となってきました。 欧米では早くから健康に気を使う人々から人気が高まっていたようですが、日本でも食や健康への意識が高まってきた証拠です。 自分の体に何を入れているのか、それを知りたいという意識、果たして普段自分が口にしているものが体に取って良いものなのか、悪いものなのかを判断する意識。 我々が日々の食事を通して体にできることを考えて行く。 自分の体や子供達の体の事を考えると当然の意識だと思います。 ハラールはひと言でも、意味として2つあります。 1つはイスラム法で合法であること、そしてもう1つは健康的、清潔、安全、高品質、高栄養価であることです。 イスラームでは我々の日常において常に清潔を保つ事、自分が摂取するのにふさわしい良いものしか他人にも与えません。 これがハラーラン タイイバンのコンセプトの源となります。 ハラールな製品はムスリムにとってのみ良いものなのではなく、誰にとっても健康的で良いものであると言えるでしょう。 23:51. あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。 われはあなたがたのすることを熟知している。 ローマ字で書くとHalalですが、haとlaの間にLとそれを伸ばすaaがありますので、発音するとHalaalとなります。 そのため、カタカナで書くとハラール、というのが正しい表記となります。 なぜイスラーム教徒はハラールにこだわるのか イスラームの信仰とハラール 単なる人の好き嫌いとは違うハラールへのこだわり ムスリムにとって、ハラールの食品のみを口にすることは神の教えに忠実に従うこと、すなわち信仰そのものです。 聖典コーランにはこのように書かれています。 5:3 .あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、 アッラー 以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。 また石壇に犠牲とされたもの、籤で分配されたものである。 これらは忌まわしいものである。 今日、不信心な者たちはあなたがたの教え(を打破すること)を断念した。 だからかれらを畏れないで われ を畏れなさい。 今日 われ はあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対する われ の恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。 しかし罪を犯す意図なく、飢えに迫られた者には、本当に アッラー は寛容にして慈悲深くあられる。 5:4 .かれらは何が許されるかに就いて、あなたに問う。 言ってやるがいい。 「(凡て)善いものはあなたがたに許される。 あなたがたが アッラー の教えられた仕方によって訓練した鳥獣があなたがたのために捕えたものを食べなさい。 だが獲物に対して、 アッラー の御名を唱えなさい。 アッラー を畏れなさい。 本当に アッラー は清算を極めて速くなされる。 」 23:51 .あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。 われ はあなたがたのすることを熟知している。 神が良いとしているもののみを食する、それ以外の行為をすることはすなわち背信行為にもなりかねない。 従って、神に身を委ねるイスラーム教徒にとって、ハラールではない物を口にすることは罪をおかす事になります。 それはイスラームの信仰の根源でもある神への信仰心から、罪に対する懲罰を恐れてそのような行為は日常的にすることはありません。 イスラーム教徒のハラール食へのこだわりは、ただ単なる人の好き嫌いではありません。 豚肉入りの物を豚をよけたからといってハラールになる訳でもないですし、スープやブイヨンにそれらが使用されていたら、いくら見た目は分からなくても、食することはできません。 トンカツをあげた同じ油であげられた野菜や魚も食することはできません。 フランス料理で使われるワインや日本食・中華で使われる料理酒はたとえ使用する食材がハラールであっても、アルコールを入れることでハラールではなくなります。 かれは,あなたがたに禁じられるものを,明示されたではないか。 だが,止むを得ない場合は別である。 本当に多くの者は,知識もなく気まぐれから(人びとを)迷わす。 あなたの主は,反逆者を最もよく知っておられる。 6:120 .公然の罪も内密の罪も避けなさい。 本当に罪を犯した者は,その行ったことに対し報いを受けるであろう。 6:121. またアッラーの御名が唱えられなかったものを食べてはならない。 それは実に不義な行いである。 しかし悪魔は,自分の友を唆し,あなたがたと議論させようとする。 あなたがたがもしかれらに従うならば,あなたがたは正に多神教徒である。 6:138. またかれらは「これこれの家畜と穀物は禁じられる。 わたしたちが許す者の外に,誰も食べることは出来ない。 」などとかれらの勝手な決断により,背中が禁忌になっている家蓄,また(屠殺にさいし)それに,アッラーの御名を唱えない家畜などと(捏造して)言う。 (これらは凡て)かれに対する捏造である。 かれはこの捏造に照らし,やがて報われるであろう。 16:116. あなたがたの口をついて出る偽りで,「これは合法〔ハラール〕だ,またこれは禁忌〔ハラーム〕です。 」と言ってはならない。 それはアッラーに対し偽りを造る者である。 アッラーに対し偽りを造る者は,決して栄えないであろう。 これ以外にも多くの節で同じ事を何度も何度も言っている。 22:34. われは凡てウンマの(供儀の)儀式を定めた。 かれが授けられる4つ足の家畜の上に,アッラーの御名を唱えなさい。 本当にあなたがたの神は,唯一の神であられる。 だからかれに服従,帰依しなさい。 あなたは,謙虚な者たちに吉報を伝えなさい。 22:35. これらの者は,アッラーの御名が唱えられる時,心は畏怖に満ち,遭遇することによく耐え忍び,礼拝の務めを守り,また われが授けたものを施す者たちである。 22:36. また(犠牲の)ラクダ(や牛)を, われはあなたがたのためアッラーの儀式用とした。 それらにはあなたがたへの(多くの)利益がある。 (犠牲に供えるに当り)並べて,それらの上にアッラーの御名を唱えなさい。 そしてそれらが横ざまに倒れ(動かなくなっ)たならば,あなたがたはそれを食べ,また口に出して請わない者,物請いする者たちに食べさせなさい。 このようにそれらをあなたがた(の用)に供させるのもあなたがたに感謝の念を起させるためである。 彼は伝えている。 許されたこと 1は明らかであり、禁じられたこと 2もまた明瞭であるが、その中間には多くの人々が知りえないさまざまな疑わしい事柄がある。 したがって疑わしい事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉に関して〔過ちから〕免れるが、それに足を踏み入れる者は禁じられた行為を犯すことになる。 これはちょうど聖域のまわりで動物を飼う牧童 3が、聖域の中で動物に草を食ませる危険を冒すようなものである。 まことに王者は誰しも聖域をもっているが、アッラーの聖域とはそのさまざまな禁令である。 まことに肉体の中には一片の肉があり、それが健全な場合肉体はすべて健全だが、それが腐ると肉体もすべて腐ってしまう。 その〔一片の肉〕とは心のことに他ならない。 この伝承は、アルブハーリーとムスリムの2人が伝えている。 1 原語ハラールとは宗教で許されたこと、許された行為を指す。 2 原語ハラームとは宗教で禁じられたこと、禁じられた行為を指す。 3 聖域中で動物に草を喰ませてはならないが、えてしてその周囲で動物を飼う牧童は知らぬ間にその禁を破ってしまいがちである。 出典:40のハディース イマーム・アンナワウィー イスラミックセンター・ジャパン翻訳 ハラールとハラームの意味 ハラールかハラームであるかは、食に限ったことではありません。 イスラム教徒の日々の生活において全てが当てはまります。 毒性、泥酔性、健康に害がある以外の全ての植物はハラールである。 キノコ類と細菌類:毒性、泥酔性、健康に害があるもの以外はハラールである。 ミネラルとケミカル:毒性、泥酔性、健康に害があるもの以外はハラールである。 飲料:毒性、泥酔性、健康に害があるもの以外はハラールである。 遺伝子組み換え食品:毒性、泥酔性、健康に害があるもの以外はハラールである。 ナジス(不浄なもの) イスラム教徒の日々の生活の中に、清潔は常にあります。 ナジスが体に付着していると礼拝もできないほどですので、毎回の礼拝の前には体を清める作業をします。 食に関しても同じく、体内にナジスを取り入れることはハラームとなります。

次の