天理教 中山 みき。 教祖中山みき

天理教教祖伝参考年表<年表>

天理教 中山 みき

そもそも、私たちが暮らすこの世界は、どうやって創られたのでしょうか。 人間は何のために生きているのでしょうか。 そうした、人々が古来持ち続けてきた根本的な問いに対する明確な答えが、天理教では具体的に示されています。 親神・天理王命は、人間が互いにたすけ合う「陽気ぐらし」の姿を見て共に楽しみたいとの思いから、人間と自然界を創り、これまで絶え間なく守り育んできました。 人間に体を貸し、果てしなく広く深い心で恵みを与え、「親」として温かく抱きしめ、教え導いています。 人間創造の目的である「陽気ぐらし」に近づく生き方を、教祖(おやさま)を通して教えられた私たちは、日々の生活の中で「陽気ぐらし」にふさわしい心になるよう、親神様から大きな期待がかけられているのです。 それは、自己中心的な心遣いをやめて、他者の幸せを願い、たすけ合う心へと成長していくことです。 つらく悲しい出来事でさえ、実は神様による導きであるという真実に目覚めたとき、何ごとも前向きに受けとめ、明るく陽気に生きていくことができるでしょう。 さらに、その思いは、神様に対する感謝と喜びを生み、私欲を忘れて他者のために行動する「ひのきしん」へとつながっていきます。 天理教の信仰はすべて、教祖・中山みきの口を通して教えられた親神・天理王命からの啓示に基づいています。 教祖は、「陽気ぐらし」に近づく生き方を、私たちに分かりやすい言葉で伝え、文字に記し、自らの行動で教えました。 なかでも、教祖の直筆による「おふでさき」を含む天理教原典と、それに基づく『天理教教典』は、信仰の揺るぎない拠りどころとなっています。

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中山みき

天理教 中山 みき

概要 天理教は、江戸時代の天保9年(1838 年)、教祖・中山みきによって始められました。 現在、日本国内を中心に、約1万7千の教会があります。 信者数は200万人を数え、その教えは海外80カ国に広がっています。 天理教信仰の中心は、親神・天理王命(おやがみ・てんりおうのみこと)によって人間創造の地点と教えられる聖地「ぢば」です。 奈良県天理市に位置し、天理教教会本部の神殿と礼拝場は「ぢば」を取り囲むように建てられています。 全国各地の天理教の教会は、この「ぢば」の方角を向いて建てられています。 信仰者は教会から「ぢば」に向かって、人々の幸せと救いを親神様に祈ります。 また、教会を拠点に、他者への奉仕を通じて地域社会に役立つ活動を行っています。 天理教は、世界中のすべての人々が、親神様に守られ生かされて、仲睦まじくたすけ合う「陽気ぐらし」世界の実現を目指しています。 陽気ぐらしの教え そもそも、私たちが暮らすこの世界は、どうやって創られたのでしょうか。 人間は何のために生きているのでしょうか。 そうした、人々が古来持ち続けてきた根本的な問いに対する明確な答えが、天理教では具体的に示されています。 親神・天理王命は、人間が互いにたすけ合う「陽気ぐらし」の姿を見て共に楽しみたいとの思いから、人間と自然界を創り、これまで絶え間なく守り育んできました。 人間に体を貸し、果てしなく広く深い心で恵みを与え、「親」として温かく抱きしめ、教え導いています。 人間創造の目的である「陽気ぐらし」に近づく生き方を、教祖(おやさま)を通して教えられた私たちは、日々の生活の中で「陽気ぐらし」にふさわしい心になるよう、親神様から大きな期待がかけられているのです。 それは、自己中心的な心遣いをやめて、他者の幸せを願い、たすけ合う心へと成長していくことです。 つらく悲しい出来事でさえ、実は神様による導きであるという真実に目覚めたとき、何ごとも前向きに受けとめ、明るく陽気に生きていくことができるでしょう。 さらに、その思いは、神様に対する感謝と喜びを生み、私欲を忘れて他者のために行動する「ひのきしん」へとつながっていきます。 天理教の信仰はすべて、教祖・中山みきの口を通して教えられた親神・天理王命からの啓示に基づいています。 教祖は、「陽気ぐらし」に近づく生き方を、私たちに分かりやすい言葉で伝え、文字に記し、自らの行動で教えました。 なかでも、教祖の直筆による「おふでさき」を含む天理教原典と、それに基づく『天理教教典』は、信仰の揺るぎない拠りどころとなっています。 基本教理1「十全のご守護」 親神様の広大無辺なご守護を、十の守護の理をもって体系的に説き分け、それぞれに神名を配し、分かりやすく、覚えやすいようにお教えくださっています。 「十柱の神名」と呼ばれることもありますが、決して十柱の神々がおられるという意味ではありません。 「くにとこたちのみこと」 人間身のうちの眼うるおい、世界では水の守護の理 人間の眼の働きを始め、世界では水の潤いを与えて、万物をお育て下さっています。 人間は眼で見分けするので、何事もできるし、楽しみも味わえます。 物の黒白、曲直、遠近、長短、善悪の区別ができるのも眼のお陰です。 陽気ぐらしに欠かせないのが眼の働きです。 また、水は人間の身体にはなくてはならないもので、飲み水はもちろん、水があるから煮炊きも洗濯も掃除もできます。 また、田畑に作物が育つのも、すべて水の働きがあってのことです。 「くにとこたちのみこと」のおはたらきにかなうのが水のような心、すなわち、いつも低いところに流れていく水のように、誰にでも頭を低くして通る謙虚で慎み深い心。 どのような形にでも順応する水のように、親神様の思召に逆らわず、周りの人の心に合わせて通る素直な心。 水の潤いのように人を潤わせる心。 自らは汚れ役を担い、他を美しくする無私の心。 陰で尽くす真実の心です。 反対に他人の欠点ばかりを見て不足する、人の幸せをうらやむ、神の理を立てずに自分の思いばかりを立てたがるというのでは、このご守護の理に反することになります。 何事も天の鏡に映ることを忘れて、人の目をくらまし、金銭をごまかし、信義・愛情を裏切る事が重なれば、「くにとこたちのみこと」のご守護が頂けなくなります。 日頃からこのご守護の理にかなう水の心を忘れずに、先案じをせずに親神様にもたれて通る態度を養い、何事も見て楽しみ、結構という理を味わう日々を過ごすことが大切だと教えられています。 「をもたりのみこと」 人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理 人間の身体では、体温を保つ働きをして下さり、世界では一年十二ヶ月、一日昼夜十二刻二十四時間の運行を支配し、春夏秋冬の変化に応じた気温をはじめ、すべてのぬくみに、火に関わるご守護を下さっています。 人間の身体はぬくみがなくなれば単なる物体になります。 しかし、熱がありすぎても命が危うくなります。 「をもたりのみこと」のほどよいぬくみのご守護で命が保たれるのです。 また、この世は太陽の光とエネルギーがなければ成り立たず、生物の成育、活動はぬくみのご守護があってこそです。 「をもたりのみこと」のご守護の理にかなうのはぬくみの心。 隔てなく照らす温かい情愛の心。 求めることなく尽くす一方、日々寸秒の休みもなく変わらぬ誠の心で働く心です。 すなわち、誠真実、やさしい心がこのおはたらきの理にかなうのであり、恩に着せるむごい心や、出し惜しみ、骨惜しみ、負け惜しみ、尽くし惜しみの、惜しい心は、「をもたりのみこと」の隔てないお働きの理に沿いません。 朝は日の出より早く起き、尽くす一方で働いて、日々年々変わらぬ温かい心で通れば、「をもたりのみこと」のご守護を、欠けることなく頂けるようになります。 「くにさづちのみこと」 人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理 人間の身体では、皮膚と皮下組織、内臓皮質、筋肉の働きと女性の生殖器官の働きの守護をして下さり、世界では人と人との関係、すなわち、縁談・家族、金銭関係、経済を司るご守護をして下さっています。 皮つなぎのご守護で包まれているから、人間をはじめとする生物の姿形、個体ができる。 個が縁で結ばれて夫婦・家族ができる。 家族と家族がつながれて社会ができる。 また、女一の道具の働きで子供が産まれ、親子、子孫のつなぎができる。 世界経済が繋がり、それぞれの衣食住が確保される。 これすべて、「くにさづちのみこと」としてのご守護です。 「月よみのみこと」 人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理 人間の身体では、骨格器官、関節、靭帯、男の生殖器のご守護をして下さり、世界では草木をはじめ地上に自ら立っているものすべてを支えて下さっています。 人間が立っこと座ること、寝ること起きること、関節の折りかがみで思うように身体が動き、力を出して支えることができる。 また、男一の道具もつっぱれる。 草木が伸びるのも建造物が聳え立つのも、「月よみのみこと」のつっぱりのご守護であります。 「月よみのみこと」のおはたらきの理にかなうのは、勢いよくつっぱる心。 何事も率先して立ち働き、人を手伝い、人を背負って通る心。 「一に勢い」で通る心です。 反対に、理屈・強情・欲の心でつっぱること、自分の顔が立たんと腹を立てること、怠け心で骨惜しみをすることは、「月よみのみこと」のご守護が頂けない原因になります。 お与え頂く御用、仕事は一身に引き受けて、神様の理を立て切って働くことが大切だと教えられています。 「くもよみのみこと」 人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理 人間の身体では、消化吸収と排泄、消化器・泌尿器、循環器一切を司り、世界では水及び水蒸気の循環に関わるご守護して下さっています。 地球に命が存在できるのは、世界の水の循環があればこそ。 飲み食い出入り、血液の巡りも皆水の循環です。 空からの雨が山から下ったり地下から湧き出て、飲み水や田畑の潤いとなるのも水の循環のお陰です。 さらには、太陽から地球へのエネルギーの吸収、地球から宇宙への廃熱の放出も水の循環の働きです。 このご守護があればこそ、地球の気温が保たれるのです。 「くもよみのみこと」のおはたらきの理にかなうのは、自由闊達でお礼やお願い、お詫びも精一杯にさせてもらう悪びれぬ心。 出入りの順序を間違えずに出すことを喜びとする心。 報恩、感謝、親孝行の実践です。 食物、金銭、財産、物質の先案じと溜め込み、また、特に天候への不足は「くもよみのみこと」のおはたらきの理を頂けないことになりかねません。 天からの与えを重く受け止め素直に喜んで、とらわれない心で通ることが大切だと教えられます。 「かしこねのみこと」 人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理 人間の身体では、呼吸器一切、音声・言語聴覚機能を司り、世界では大気の対流、気候の変化、また、人間相互のコミュニケーションを司って下さいます。 人間が呼吸できるのは、のどで食物と空気の出入りが分けられるからで、言葉が使えるのも耳が聞こえるのも、匂いを嗅ぎ分けられるのも「かしこねのみこと」のおはたらきです。 風の働きで気温が変化し、雨雲が風によって海から陸に運ばれて恵みの雨をもたらし、鳥や飛行機が空中を飛べるのも、皆「かしこねのみこと」のご守護があってこそです。 このおはたらきの理にかなうのは、良きものは身に付け悪しきものは身に付けない、使い分けを間違えぬ心。 自分の心を人の下に置いて、人の分け隔て差別をせぬ心です。 強情、理屈の心より言葉で人を強く責めたり、人の忠告を逆恨みして我が心を腐らしたり、喜びの心少なく愚痴多く通るのは「かしこねのみこと」のご守護の理にかないません。 言葉で人の心を勇ませる。 聞くべきところ、言うべきところを間違えぬようにして、自分の心や周りの人の心を腐らすことがないように、息一つ言葉一つを使い分けることが大切だと教えられます。 「たいしょく天のみこと」 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引き取る世話、世界では切ること一切の守護の理 人間の生き死に、縁切り、口中の歯、指先の爪、体内からの免疫反応などの機能を司り、世界では刃物の切れ味、物質の変化、変動の働きを司って下さいます。 出産と同時に胎縁が切れるから、この世のものになれる。 出直しの時に息が切れるから、この世と別れられる。 歯や爪で引き裂きかみ分けて、食物の命を人の命へ切り替えて栄養とし、老廃物を排出して代謝するので健康が保たれる。 また、不純物が体内に入るのを拒否する免疫作用が、身を守るのです。 また、はさみ、包丁、ナイフ、のこぎりなどの切れ物道具一切のご守護、大地の変動で山や平野ができるのも、「たいしょく天のみこと」のご守護です。 「たいしょく天のみこと」のご守護の理にかなうのは、万事周到に準備して切る、そうでなければ切ることはしないという心。 その中、未練、執着、我欲の思いは潔く断ち切る心です。 常日頃から出すべきものは思い切りよく出し、惜しまずに施していく。 また、家族、親族、地縁、血縁の関係を自ら切ることがないようにする。 しかし我さえ良くばの悪いんねんを積んだ結果できたような物や金への執着はきっぱりと断ち切って、人をたすける心の道、白いんねんへの切り替えの道を通ることが大切だと教えられます。 「をふとのべのみこと」 出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理 人間のお産、世界ではあらゆるものの出生、発芽、生育、また、技術・技量を司って下さいます。 お産の時はこのご守護の理で引き出され、「たいしょく天のみこと」のおはたらきで胎縁をきってくださり、「くにさづちのみこと」のご守護で息をつないで下さいます。 体力、知力を引き出しのばして下さる。 社会で立身出世させて下さる。 世界で万物が種から芽をふく力を与えて下さるのも、これ皆、「をふとのべのみこと」のご守護です。 「をふとのべのみこと」のご守護にかなう心遣いは、物の値打ち、人の値打ちを引き出す心です。 物については結構という理を味わうこと、人については人をほめ、人を立て、人を育てる心です。 廃る物を生かし、幼い物を育てる上で自らが玄人にならせてもらう努力をし、人助け・子育てに励むことが大切だと教えられています。 「いざなぎのみこと」 男雛型・種の理 人間をお創り下された時の男雛型、種の理。 人間の子種のご守護、世界では種物一切、子種、物種を司って下さいます。 人間をはじめ動物も植物も種があってこそ子孫が続く。 代々種に還って生まれ更るから品種改良、成人が進むのです。 「いざなぎのみこと」のご守護の理にかなう心遣いは、脇目もふらず真一文字に向こうへ向こうへと進んでゆく一条の心。 素直正直の心、苦労は楽しみの種と、何でもどうでもの精神で、理の種を蒔く心。 おつとめの勤修に一心に励む心です。 一条心にもたれて、神の田地に種を蒔くことが大切だと教えられています。 「いざなみのみこと」 女雛型・苗代の理 人間をお創り下された時の女雛型、苗代の理。 女子の子宮、卵子、月のものと受胎のご守護、世界では、田地苗代もの一切を司って下さいます。 子供が母親の胎内に宿って成長できるのも、植物が地に根を張り育つのも、皆、「いざなみのみこと」のご守護です。 このご守護の理にかなうのが、苦労を厭わずたすけ一条に励む心、母なる大地のようにすべてを抱えて受け入れる心、種を腐らさぬよう、芽を出し根が付くよう育てる心です。 基本教理2「八つのほこり」 人間の身体は、親神様からのかりもので、心だけが自分のものであります。 身体をはじめ、身の周りの一切は銘々の心通りにご守護下さいます。 親神様の思召に沿わない、自分中心の心遣いを「ほこり」と仰せられます。 ささいな「ほこり」の心遣いも積もり重なると、ついには十分なご守護を頂けなくなります。 そこで親神様の教えをほうきとして、たえず胸の掃除に努めるとともに、人には「ほこり」を積まさぬよう心を配らねばなりません。 ほこりの心遣いを掃除する手掛かりとして、「をしい」「ほしい」「にくい」「かわい」「うらみ」「はらだち」「よく」「こうまん」という「八つのほこり」をお教え頂いています。 また、「うそ」と「ついしょう」これ嫌いと教えてくださっています。 八つのほこり• 「をしい」とは、 心の働き、身の働きを惜しみ、税金など納めるべきものを出し惜しみ、世のため道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、借りたる物を返すのを惜しみ、嫌な事は人にさせて、自分は楽をしたいという心。 すべて、天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いはほこりであります。 「ほしい」とは、 心も尽くさず、身も働かずして、金銭を欲しがり、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、また、あるが上にも欲しがるような心。 「にくい」とは、 自分のためを思って言ってくれる人に、かえって気を悪くして反感を持ち、あるいは、自分の気に入らない、癪に触ると人を毛嫌いし、陰口を言って、そしり笑うような心。 また、銘々の身勝手から夫婦、親子などの身内同士が、いがみ合うのもほこりであります。 「かわい」とは、 わが身さえ良ければ、人はどうでもよいという心。 わが子を甘やかして、食べ物、着る物の好き嫌いを言わし、仕込むべき事も仕込まず、間違ったことも意見せず気ままにさせておくのは、よろしくありません。 また、わが身を思って、人を悪く言うのもほこり。 わが身わが子が可愛ければ、人のことも思い、人の子も可愛がらねばなりません。 「うらみ」とは、 顔をつぶされたとて人を恨み、望みを妨げられたとて人を恨み、誰がどうやったとて人を恨み、根に持ち、銘々、知恵・力の足りないことや、德のないことを思わず、人を恨むのはほこりであります、人を恨む前に、わが身を省みることが大切であります。 「はらだち」とは、 腹が立つのは気ままからであります。 心が澄まぬからであります。 人が悪いことを言ったとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。 これからは腹を立てず、天の理を立てるようにするのがよろしい。 短気や癇癪は、自分の德を落とすだけでなく、命を損なうことがあります。 「よく」とは、 人より多く身に付けたい、何が何でも取れるだけ取りたいという心。 人の目を盗んで数量をごまかし、人の物を取り込み、あるいは、無理な儲けを図り、暴利をむさぼる。 何によらず、値を出さずに我が物にするのは強欲。 また色情に溺れるのは色欲であります。 「こうまん」とは、 思い上がってうぬぼれ、威張り、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけにするような心。 また、目上に媚び、弱い物をいじめ、あるいは、頭の良いのを鼻にかけて、人を侮り、知ったかぶりをし、人の欠 点ばかりを探す、これはこうまんのほこりであります。

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天理教

天理教 中山 みき

天理教の教祖は中山みきといいます。 一八三八年(天保九年)十月二十六日、中山みきが神がかったこの日を「立教の日」と定め、天理教では毎年その日に大祭を行なっています。 大和国山辺郡 三昧田 さんまいでん 村に生まれたみきは、隣の庄屋敷村の中山家へ十三才の時に嫁ぎ、そこが今の天理教本部(天理市三島町)の中心であります。 小さいときから、みきは信仰心が厚く、近くの念仏寺の参詣を条件に嫁入りしたといわれます。 嫁ぎ先の中山家は裕福な家だったのですが、夫善兵衛が非常に身持ちが悪く、夫婦仲が悪くなっていくにしたがって家運も落ちていきました。 百姓のほかに綿商もしていた中山家は、人の出入りが多く、若くして嫁入りしてきたみきにとっては、思いの外気苦労が多かったようです。 そんな中で、十七年間に一男五女の子をもうけて、そのうち二人を亡くしています。 みき四十一才の時、一人息子の長男が足を病み、夫が眼を病み、自分は出産の肥立ちが悪いので、これを祈祷によって治そうと修験者・市兵衛を呼びました。 修験者の祈祷には、加持台という神が降りる中継人が必要だったのですが、それを努めるべき 巫女 みこ が不在で、みきがその代理を行なったことによって神がかり、天理教発生のきっかけになったのです。 詳しくは後述いたします。 さて、天理教は、 天理王命 てんりおうのみこと を崇拝対象とし、これを 親神 おやがみ といい、創始者中山みきを、教祖〈おやさま〉と呼んでいます。 そして、教祖以後の代表者を 真柱 しんばしら と言います。 教典としては、みきの著作になる「 御 お 筆先 ふでさき 」「 御 み 神 か 楽 ぐら 歌 うた 」があり、また、教えを後人がまとめたところの「 御指図 おさしず 」を加えて、天理教の三原典としています。 開 教 起 因 新興宗教の成立過程はどれもよく似ています。 教祖の個人的事情によって引き起こされた異常心理による神がかり現象、これが最も共通する点です。 その昔、釈尊が城外に住む国民の老病死を 視 み て、それを救わんと志しての出家、あるいは、天下の乱れ、万民の苦しみは何故起こっているのだろうかと疑問解決のため出家された大聖人様とは、もともとその出発点が違う事を、まず第一に知っておかねばなりません。 天理教は、その典型的な一つであります。 では、開教起因と過程をみてみましょう。 祈祷の加持台となった中山みきは、三日三晩神がかり状態が続き、その後夫に対し「われは天の将軍、大神宮である。 この屋敷親子もろとも貰いうけたい。 聞き入れるならば、三千世界を助ける。 もし不承知ならば、この家もろとも、もともこもないようにしてしまう、それでもいいか(取意)と言ったのです。 夫は、種々押し問答をしたが、みきの強引さにとうとう「差し上げ申す」と返事をさせられてしまったという内容が、教団の教祖伝に載っています。 これは、神の声と称して中山みきが、夫や、いきづまった家庭に対し行ったクーデター以外の何物でもありません。 跡取り息子の難病、家業を省みないグウタラ亭主との不和、子供の死、不安定な社会情勢からくる家業不振の悪条件が、内気なみきに究極の選択を迫ったものです。 そしてみきは、神々の総元締、伊勢大神宮の力を借りました。 また、地上の支配者徳川将軍に対して、それよりも威力ある天の将軍を引き合いに出し、何物にも負けない、この世で一番強いみきに生まれ変わったのであります。 みきは、神がかりという儀式を経て、日常の不満と日々の苦悩から一挙に解放されたことになります。 しかしこれは、自己回復という単なるみき個人の自己満足であって、当初から世直しのメシア(救世主)などではなかったことを物語っています。 教 団 名 へ の 批 判 天理教は、もともと 転 てん 輪 りん 教 きょう だったことをご存知でしょうか? そもそも天輪とは、転輪聖王のことであって、武力を用いず正法によって全世界を統治する理想の王と仏教一般に言われ、化城喩品にも出てまいります。 また、念仏信仰では、阿弥陀仏が理想の王たる転輪王である等とも説いています。 教祖みきが、念仏信仰に深く関わってきた経緯をみれば、転輪王との結びつきは十分考えられることです。 ましてや、天理と言う名称の発想等は、もともとみきの頭にあろうはずもありません。 教祖のお筆先はもちろん仮名書きではありますが、しかし、その「てんりん」を、教団自身「転輪」「天輪」「天倫」等と漢字を充てて出版した書物が今に残っていることからも、初めは転輪だったことがよく判ります。 では、いつ、どうして「転輪」が「天理」に変わったのか、その辺を述べてみましょう。 明治七年から十九年までの間に、みきは 官憲 かんけん に十八回も 拘留 こうりゅう されています。 そのたびに、とりまきの幹部は危険と不安に 怯 おび えていました。 体制批判を続けてきたみきが明治二十年に死亡し、お陰で当局と話し合いが出来るようになった教団幹部は大いに喜びました。 そして、教団の独立認可が欲しかった彼等は、ついに、明治政府の意向に従って、神道色の濃い教団に変身させます。 明治五年、政府は各宗派宛に三条教憲なるものを発布していました。 その三条教憲とは はじめに、天理教の神の観念について述べてみましょう。 天理教の親神「 天理王命 てんりおうのみこと 」とは、キリスト教における神とよく似ており、この世の万物万人を意のままに創造した創造主という概念になっています。 初めは「 神 かみ 」と呼んでいましたが、途中から「 月日 つきひ 」と変わり、後には「おや」と呼ぶようになっています。 こうした変化も不自然ですが、特に一般世間の神と区別するために、「元の神」「真実の神」「元こしらえた神」等と、親神を強調しているのも天理教ならではと思います。 ともかく、神と人とを 隔絶 かくぜつ する神人隔別のとらえ方であることは確かです。 そして面白いのは、作られるその人間も、もとはドジョウであった等と、神話「泥海古記」の中に説明していることです。 その神話では、十全の神(手抜かりのない完全な神)として次のような名前が挙げられます。 クニトコタチノミコト、ヲモタリノミコト、クニサヅチノミコト等ですが、よく見ると「古事記」「日本書紀」に出てくる神名そのままとも思えます。 ところが、その中で、クモヨミノミコトとタイショク天ノミコトは記紀に出てこないから記紀の真似ではない、と天理教では反論しています。 いずれにしても、これら十柱の神を統理し総称する神のことを天理王命だと説きます。 天理教の神とは、日本人特有の 氏神 うじがみ 信仰と 怨霊 おんりょう 信仰に加えて、 八 や 百 お 万 よろず の神等が底辺にあり、そこへ念仏信仰の仏教が加わり、終には伊勢信仰までもが加えられて仕上がったものとみるべきでしょう。 因縁話と陽気暮らしの理が、よくそれを物語っています。 仏の 垂迹 すいじゃく 、あるいは仏道修行者を護るところの諸天善神の神観念を説く仏教とでは、凡そその意は異なります。 また、神は親として人を産むが、子供として生まれた人間は、決して親たる神にはなれない、と言っています。 その点、仏法では、「 悉 しつ 有 う 仏 ぶっ 性 しょう ・ 悉 しつ 皆 かい 成 じょう 仏 ぶつ 」と説き、凡夫も仏も本来は同質のもの、との理もあります。 正法の信心と修行によって境智冥合するとき、九仏は一体、凡聖は一如なりとの理がそれであります。 次に、天理教の教えに基づく人生観を述べてみましょう。 教祖・中山みきの教えは陽気暮らしが大前提になっています。 歌を作り、歌に合わせて皆を踊らせることも、この陽気暮らしの表現化であり、楽天主義を異常なまでに誇張させたともいえます。 人がこの世にある姿として、仏が初めて見て教えたものは「苦」でありました。 その苦を解決してこそ人としての本当の幸せがあるとする仏教からは、天理教の陽気暮らしは強く批判されます。 つまり、人生の根本問題も解決せず、皮相的な人生観のもとに生活を謳歌しようとする思想であるからです。 天理教には「貧に落ちきれ」という人生教訓があり〝人の幸せは物・金ではない、心の安住が一番大事な事だ〟〝人の心は自分が物・金をもっていたのでは理解できない、他人に与え、貧乏になりきってこそ本物の人間になれる〟と教えています。 世間の人は、これを 等とやゆったこともあります。 遊蕩三昧 ゆうとうざんまい の亭主へのあてつけと、心身共に疲れた家業からの解放が教祖・みきのクーデターの第一目的と判れば、この発想もうなずけます。 しかし、陽気暮らしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、国の 安寧 あんねい は計られるでしょうか。 また、個々の将来は安泰でしょうか。 それらを考える時、厳正な宗教教義でないことが十分判ります。 天理教には一貫した三世の思想はありません。 現世だけが中心です。 過去は、仏法の業を採り入れた因縁話に終始し、未来は現世に出直すための仮の世とします。 ですから、人の死を「出直し」と呼んでいます。 教祖・みきがかかわった浄土思想、即ち未来での楽しみでは遅すぎるという抵抗心が、このような徹底した現世主義を作り上げたのではないでしょうか。 「心と肉体は別の物」と説くのも天理教の特徴です。 肉体は親神から借りたもので、心だけが自分独自のものとしています。 自分の心は、本来は清く正しいはずなのだが、いつの間にか 埃 ほこり がつき、汚く、けがわらしくなってしまった。 とし、その汚れた心は八つあるといいます。 おしい(惜)・ほしい(欲)・にくい(憎)・かわい(可愛い)・うらみ(怨)・はらだち(怒)・よく(貧)・こうまん(慢)の八つです。 この八つの埃は、天理王命に祈ることによって、ほうきで塵を払うが如く払ってもらえると教えています。 大聖人様は、人は本来仏性をもった 本有 ほんぬ の 尊 そん 形 ぎょう であり、色心も不二にして一体なもの、またその心も一念三千十界互具といわれ、煩悩・業・苦の三道は法身・般若・解脱の三徳と転ずることができる、と説かれています。 経文の「 不 ふ 断 だん 煩 ぼん 悩 のう ・ 不 ふ 離 り 五 ご 欲 よく 」等を加えて考える時、天理教の教えの低さがよく判ります。 八つの埃とは人の五欲を指しているようですが、これらを払っただけで五欲等は取れるはずもありません。 ところが、天理教では、この埃が全ての不幸を招くともいいます。 中でも病気の根元はすべてこの埃だと断定するところから、病人を一番の布教対象にしています。 今日ある天理病院はこのような教えに深く関係しているのです。 また、天理教では「そもそも病気とは、親神が人々の悪しき心を反省させるために人間に与えた試練だ」といい、これを「身上(みじょう)」と呼んでいます。 更には、家庭の不和や事業の失敗等も、その人の反省を促すところの神意であるとし、これを「事情(じじょう)」と呼んで、すべて自分の「心得違い」からくる不幸だと教えます。 しかし、心と直接、関係のない病気もあれば、また、戦争やまきぞえ事故、あるいは天災等による不幸も世の中には沢山あります。 これをすべて個人の「悪しき心のため」と片づけられてよいものでしょうか。 しかも、その中で陽気暮らしをせよとは、これまた矛盾といわざるを得ません。 最後に、御書を挙げて破折の文証といたします。 「 御 おん 病 やまい を 勘 かんが ふるに六病を出でず。 其の中の五病は 且 しばら く之を置く。 第六の 業 ごう 病 びょう 最も治し難し。 将又 はたまた 業病に軽有り重有り、多少定まらず。 就中 なかんずく 法華 誹謗 ひぼう の業病最第一なり」(太田入道殿御返事 御書912頁) 「病の起こりを知らざらん人の病を治せば 弥 いよいよ 病は倍増すべし」(種々御振舞御書 御書1067頁) 「能説に付いては釈迦なり。 衆生の業病を消除する方では薬王薬師如来なり」(御義口伝 御書1812頁) 「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」(太田左衛門尉御返事 御書1222頁).

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