藤原 家。 藤原不比等の家系図からみる奈良時代の日本の政治

藤原不比等の家系図からみる奈良時代の日本の政治

藤原 家

「南家」 「北家」 「式家」 「京家」 とそれぞれ4つの家系に分かれました。 北家の始祖、藤原 房前 ふささきから数えて5代目の 良房 よしふさは人臣で初めて摂政になり、その養子である 基経 もとつねは日本で初めて「関白」になっています。 こうして藤原北家の中でも摂政や関白を世襲していく家系が特に 「摂関家」と呼ばれました。 基経のひ孫、藤原 伊尹 これただが摂政就任1年で死没して道長の父親、兼家が次の摂政になります。 道長は兼家の五男。 もともと道長には 道隆 みちたか、 道兼 みちかねという優秀な兄がいましたから出世は望めないと考えられていました。 ところが、その兄二人ともが病死。 甥にあたる藤原 伊周 これちかとの政争にも勝って、道長の誕生当時には想像もされなかった藤原氏のナンバーワンの地位をものにしました。 道長の出世の経緯 その後は娘たち三人を天皇の后にし、のちにさらに一人の娘を后にすることで結果的に四人の天皇の外祖父となって摂関政治の基盤を固めます。 そして道長とその息子頼通で藤原氏の栄華は頂点に達します。 しかし、道長から数えて5代目の 忠実 ただざねからは院政が強くなり、勢力は弱まってしまいました。 関連記事 >>>> 五摂家の藤原氏 平安後期の京では武家が台頭してきて平氏・源氏の時代となります。 源氏によって鎌倉幕府が開かれるころになると、子孫は分かれて五摂家が成立。 公家のトップとしての家柄はこの五家が独占し、それ以降は摂政・関白はこの五摂家からしか出ていません。 羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と養子の豊臣 秀次 ひでつぐはうまく藤原氏を利用し、関白職に就任して地位を活用しました。 その後、明治維新まで藤原氏が歴史の表舞台に立つことはなく、摂関政治は消滅しましたが、藤原氏の血脈は続いていきます。 藤原氏トリビア 道長に繋がる藤原氏の家系に関する雑学です。 系図の中の平安藤原セレブリティ ここでは政治的な貢献度とは関係なく、ちょっとミーハーに目を引く藤原氏の有名人をピックアップしてみましょう。 藤原 頼通 よりみち: 道長の息子。 父親と共に摂関政治の頂点を極めました。 道長の別荘・宇治殿を平等院鳳凰堂に改修。 藤原 公任 きんとう: 一条天皇時代に活躍した 四納言 しなごんの一人。 和歌、漢詩、管弦に優れた万能アーティスト。 藤原 実資 さねすけ: 『小右記』を書いた藤原道長のライバル。 有職故実に非常に詳しく、平安朝の良識人ですがプライベートではちょっと好色なんです。 藤原 実方 さねかた: 平安中期のプレイボーイ。 清少納言と交際関係があったとも。 20人以上の女性との交際があり、『源氏物語』の光源氏のモデルの一人とも言われています。 紫式部: 『源氏物語』『紫式部日記』の著者。 藤原北家の血をひく作家は誇り高き才女です。 伊勢: 平安時代の女歌人。 三十六歌仙の一人。 藤原北家の血筋の恋多き情熱家。 今に続く藤原氏 有名なところでは、島津家に関連する近衛家、明治維新以降も京都に住んでいる冷泉家などが藤原氏の子孫として現代に続いています。 多くの藤原氏を区別するために領地や職業などに「 藤 」をつけて名乗ったのが始まりとか。 おわりに 一時期日本の政治界を席巻した藤原氏。 その血筋は現代にも続いています。 あなたの名字に藤がついていれば、広大な藤原氏の家系図のどこかに繋がる家柄なのかも・・・と考えるのもロマンがあっていいですね。 関連記事 >>>> その他の人物はこちら 平安時代に活躍した歴史上の人物 関連記事 >>>> 時代別 歴史上の人物 関連記事 >>>>.

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藤原定家

藤原 家

概要 [ ] 末期から初期という激動期を生き、御子左家のにおける支配的地位を確立。 日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきたる。 2つの『』『』を撰進したほか、秀歌撰に『』がある。 歌論書に『』『』『』があり、などの技法や心と詞との関わりを論じている。 家集に『』がある。 拾遺愚草はのひとつに数えられる。 に依頼され『』を撰じた。 定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。 『』『』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いがのもととなった)。 また、『』の作者は定家とする説が有力である。 18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『』(2000年にに指定)を残した。 このうち、元年(1201年)にの行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。 経歴 [ ] この記事はただいま大幅な改稿を行っています。 申し訳ございませんがを避けるため、 しばらくの間編集を控えてくださるとありがたく存じます。 ご迷惑をおかけしますが、ご協力お願いいたします。 設定期限もしくは貼付後72時間経っても場合は、このテンプレートを除去しても構いません。 前期の元年()にする。 元年()2月に流行していたを患うが、同年父・の辞任に伴ってにし官途のスタートを切る。 しかし、翌安元2年()俊成が咳病の悪化によりしたため、定家は後ろ盾を失い昇進面で大きな痛手を受けた。 さらに安元3年()定家はにかかって二度目の大病を経験し、以降はしばしばに苦しむなど肉体的に虚弱な体質となるとともに、でに激する傾向が現れるようになったという。 3年()の広庭で行われた会にとして初めて参加し、と組んで引き分けとなった。 また、元年()『初学百首』を詠むと、翌寿永元年()俊成の命令により、まとまった歌作として初めての作品となる『堀河院題百首』を作っている。 これに対しては、父・俊成、母・のほか、・藤原定長()・ら諸歌人や、さらには・からも手紙を送られるなど、多くの称賛を受けた。 またこの間に俊成の和歌の弟子であるの娘と結婚し、 寿永3年()に長男のを儲けるとともに、治承4年()従五位上、寿永2年()に昇叙されている。 元年()11月末にの最中にで少将・に嘲笑されたことに激怒し、を持って雅行の顔を殴ったため、を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。 これに対して、翌文治2年()3月に俊成が左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、から赦免の返歌があったという。 同年より親幕派の・を主とするにとして出仕を始める。 九条家では兼実次男のに親しく仕えて外出に常に従ったほか、和歌を通して兼実弟のとも交渉が深かった。 定家は九条家に家司として精励して務める一方で、5年()、文治6年()、建久6年()従四位上、2年()と、後白河法皇の没後政権を掌握していた九条兼実の庇護を受けて順調に昇進した。 またこの頃には、『二見浦百首』『皇后宮大夫百首』『閑居百首』(と共作)など歌人として目覚ましい活躍を見せる一方、九条家への出仕後日が浅いにもかかわらず九条兼実の連歌の席に出席するなど、家人同様に重宝がられた様子が窺われる。 また、文治5年(1189年)には慈円の『早卒露肝百首』に対して、『奉和無動寺法印早卒露肝百首』『重早卒露肝百首』を著した。 なお、建久5年(1194年)ごろに定家は季能の娘と離別し、の娘と結婚し、建久6年(1195年)に長女のが生まれている。 建久7年(1196年)・によるが起こると、九条兼実がを罷免され、・と・慈円も要職を辞任した。 さらに、定家の義兄弟である・や・も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ。 人物 [ ]• 「 美の使徒」 、「 美の鬼」 、「 歌聖」 、「 日本最初の近代詩人」 などと呼ばれることがある日本を代表する詩人の一人。 美への執念は百人一首の選歌に見られるように晩年まで衰えることがなかった。 によると文治元年11月に少将雅行と言い争い、脂燭 ししょく で相手を打ち除籍となり、『』によると父俊成から和歌によって取りなして貰い、後鳥羽天皇から許しを得たとあるほど気性が激しく、またによると「さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさ/\と思ひたりし上は、ましてや余人の歌沙汰にも及ばず」、「傍若無人、理 ことわり も過ぎたりき。 他人の詞 ことば を聞くに及ばず」と他人の和歌を軽んじ、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘されている。 また、どんなに後鳥羽院が褒めても、自詠の左近の桜の述懐の歌が自分では気に入らないからと、新古今に入撰することに頑強に反対するなど、折り紙付きの強情な性格だった。 順徳天皇歌壇の重鎮として用いられるも、承久二年の内裏歌会への出詠歌が後鳥羽院の勅勘を受け、謹慎を命じられた。 しかし、この謹慎の間、さまざまな書物を書写した結果、多くの平安文学が後世に残ったと言える。 定家の日記には、「心神不快」とか「心神迷惑」とか「心神常に違乱」といった言葉が随所に出てきており、若い頃から病弱だったことが分かる。 とりわけ日記に咳病や風病が頻繁に記録されていて、いずれも風邪の症状で、呼吸器系の疾患で冬になると毎年のようにこの病に悩まされ、写経や書写を通して持病の不快感を克服していた。 歌風 [ ]• 巧緻・難解、的・夢幻的で、代表的な新古今調の歌人であるとされている。 定家の和歌の性格について著『新古今時代』の「『拾遺愚草』成立の考察」に要約がある。 定家は平安朝生活の伝統を多分に承け、それにふさわしく繊細な神経で夢の世界を馳せ、その天性によって唯美的な夢の文学を完成した。 しかし表現せんとするものが縹渺 ひょうびょう として遥かであるほど、それを生かすには辞句の選択、着想の考案のために心を用いることは大でなければならぬ。 そして定家はそれに耐えるほどの俊敏な頭脳をもっていた。 かれの歌の成功はこの頭脳の力にある。 しかしまた、その失敗も頭脳のためであった。 かれの歌の大半は、優艶なる夢をいかにして表現しようかと努力した理知の影を留め、その表現のために尽くした努力はその措辞 そじ の上に歴々として現れた。 かれはじつに 夢の詩人で、理知の詩人で、そして言葉の詩人であった。 また石田吉貞は次のように言う。 「定家が恋歌を最も得意としたということは、彼を知る上で極めて重要な事実である。 「定家などは智慧の力をもってつくる歌作り也」 『井蛙抄』 と自認していたというが、その智巧的態度に立って、幻想世界を縦横に描き出そうとする定家にとっては、現実にしばられ易い四季自然歌よりも、智巧 利巧 や空想 そらごと の恣意を多分に許容される恋歌のほうが得意であったことは、全く当然のことなのである。 すなわち、定家ーー少なくとも新古今撰進期における定家をして、恋歌を本領とさせたのは、その恋の体験の深さや広さではなくて、彼の智巧的超現実的なの魔力的意欲であるというべきである。 そういう点では、さすがの俊成も西行も家隆も俊成女 としなりのむすめ も、遥かに遠く及ばない古今独歩の境地を極めているのである。 しかも、そういう行き方が、恋歌からさらに四季自然歌にまで拡充されているのだから、全く驚くべき魔術師である。 そして、新古今の歌人たちは、ほとんど例外なく、及ばぬながらにも、多かれ少なかれ、一応はこの道に追従していったのである」。 谷山茂著作集第5巻『新古今集とその歌人』282頁 書 [ ] 定家の筆跡 更級日記 定家のは、父の俊成と同じくより入ったが、強情な性格をよく表した偏癖な別のを成した。 といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れてである。 江戸時代には、やらに大変に愛好され、彼らは、この書風をと称して大流行させた。 定家の筆跡は特に近世以降あまりにももてはやされたため、偽筆も多く現代に伝わっている現状があり、だまされないために注意が必要である。 また、定家は古典文学作品の書写においては、原本に問題ありと考えれば、場合によっては校訂作業を加えることもあったが、基本的にはどんな誤りがあっても私意では訂正しない学者的慎重さを見せている。 なお、「定家自筆」とされる書の中には定家本人のものではなく、彼の監修の下に定家の子女や家臣などによって行われた作品が含まれているとする説もあり、議論が行われている(同様の趣旨の説は父の俊成や九条兼実など、当時の公家の書に関して広く指摘されている)。 政治家として [ ] 定家はの(5代後の子孫)にあたる。 だが、摂関家のから遠く、を輩出できなかった定家の御子左流は他の庶流(や)と比較して不振であり、更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は()の養子となって諸国のを務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった。 定家自身も若い頃に宮中にて、の最中にと乱闘したことで除籍処分を受ける など波乱に満ち 、長年を務めながらにはなれず、51歳の時に漸く公卿に達したがそれさえも姉の九条尼が(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。 それでも定家はにとして仕えて摂関の側近として多くのの現場に立ち会って、を自己のものにしていくと共に、反九条家派のらと政治的には激しく対立するなど、政治の激動の場に身を投じた。 定家が有職故実に深い知識を有していたことや政務の中心に参画することを希望していたことは『明月記』などから窺い知ることは可能である。 そして、4年(1232年)、定家はの後任として71歳にして念願の権中納言に就任する。 当該期間の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたびの任を務め、特にに関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。 また、貞永やのなどの重要な議定にも参加している。 だが、との間で何らかの対立を引き起こしたらしく 、同年のには「罷官」(更迭)の形(『公卿補任』)で権中納言を去ることになった。 こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる(『明月記』安貞元年9月27日条)のように政治的な要職に就くことは適わなかった。 また、2代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元年(1225年)7月には同じく嫡男をにしようとすると激しく争って敗れている。 だが、この年の12月に実宣の子の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年1月に父が自分の妻を追い出しての娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。 定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している。 その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。 定家が歌道のみならず、『』や『』など公事や有職故実の書を著した背景には自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている。 後世の評価 [ ] 簡潔な要約として、『藤原定家の研究』の序文に次のような文章がある。 「藤原定家については古来毀誉さまざまであり、すでに在世中から、「」のように骨をさすばかりの痛烈な批判の書があるかと思えば、『』のように一代の詩宗と認めたものもあるという風であった。 が死後になると、中世ではほとんど神のごとく崇められ、歌道においては勿論、連歌をはじめ能楽や茶道においても、その芸術論のごとき、神託のように取扱われ、多くの偽書まで出るという有様であった。 随ってその筆になるものは断簡零墨も至宝として尊重され、ためにその筆写にかかる本は、いわゆる定家本となって、現在に至るまで多くの古典の伝本中王座を占めて来ているのである。 近世に至ると、中世的権威破壊の機運に逢って、定家の勢威も昔日の観は無くなったけれど、それでもまだ人麻呂・貫之と並ぶ大歌人として取扱われることに変わりはなかった。 ところが明治に入ると、定家は古典文学の世界における偶像の代表のごとくに見られ、常軌を逸したとおもわれるほどのはげしい破壊排撃を受けた。 その作品はとるにたらない技巧過飾のものとしてしりぞけられ、その歌学書はほとんどすべてが偽書として葬られるに至ったのである。 中略 しかし大正の中頃から昭和の初めにかけて、この廃墟の中から一つ一つ真実なものを拾いあげて、定家を築き直そうとする動きが現れて来た。 中略 、、、らによって それぞれ大きな開拓がなされ、その和歌作品に対しても、しだいに正しい見方を回復しようとする努力がなされるようになり、定家の人間像歌人像はようやく復元されようとするに至った。 偉大なもの真にすぐれたものは、決して破壊されたままで消えてしまうものではない。 定家像の復元に当たって示された多くの学徒のたゆまざる情熱を見て、私は深い感激に打たれざるを得なかった」。 戦後からにかけや、、、、、や、、ら多くの作家や研究者が定家を積極的に評価してきた。 中世から近世にかけ、定家を讃え尊崇を示した多くの芸術家・文学者のなかには、、、、、、、、、、、、、などがいる。 作品 [ ] 『住吉の名月』(『月百姿』)住吉明神の神託を受ける定家 勅撰和歌集 [ ]• :親撰。 定家は院の助手たちの中心だった。 :定家単独撰の勅撰集、仮名序も定家。 政治的な配慮で後鳥羽院、の歌が除かれている。 家集等 [ ]• 拾遺愚草員外• 定家卿独吟詩歌 秀歌集 [ ]• 秀歌大体:後堀河院に進献。 :八代抄、八代知顕抄、二四代集、二四代抄、黄点歌勅撰抄とも。 初撰本とそれを増補した精撰本とがある。 八代集秀逸:定家単独撰、または後鳥羽院、藤原家隆との共撰。 百人秀歌• 物語二百番歌合• 歌学書・注釈書 [ ]• :漢文体の歌論と「秀歌躰大略」と題する秀歌例からなる。 快法親王に進献したものか。 衣笠内府歌難詞:に宛てた手紙。 家良の歌を批評する。 :和歌秘々、秘々抄、定家卿和歌式とも。 実朝に送った初撰本と成立不明の再撰本とで秀歌例が大きく異なる。 :下官抄、僻案とも。 草子や和歌の書式を述べる。 :古今秘注抄、古今和歌集抄とも。 顕昭の古今集への注に定家が補注したもの。 五代簡要:万物部類倭歌抄とも。 三代集之間事:三代集について父俊成から伝授されたものを中心に纏める。 先達物語:京極黄門談、京極中納言定家卿相語、定家卿相談とも。 の聞書き。 :定家が10に分類した歌体にそれぞれの例歌を集めたもの。 定家物語:古今集や万葉集の歌に関する質問に答えたもの。 僻案抄:三代集注釈書。 :定家卿消息、和歌庭訓とも。 偽作説も。 :定家卿長歌短歌之説、長歌短歌古今相違事、万葉集長歌載短歌字由事などとも。 古今集雑躰の部に「長歌」を「短歌」と題してあることにつき、万葉集の例歌や題詞をあげて論証し正したもの。 明月記:毎月抄に見えるが不詳。 和歌会次第:定家卿和歌書様並会次第、和歌秘抄、和歌秘書などとも。 その他 [ ]• :日記。 :擬古物語。 :古今六帖の抄出歌集と主に源氏物語に関する考勘を併せたもの。 :源氏物語注釈。 :についての故実。 :中少将の装束について為家に書き与えたものか。 偽作 [ ]• 雨中吟:歌学書。 桐火桶:歌学書。 鵜鷺系偽書の一。 愚見抄:歌学書。 鵜鷺系偽書の一。 歌の詠みかた、定家卿詠方集とも。 愚秘抄:歌学書。 鵜鷺系偽書の一。 三五記:歌学書。 鵜鷺系偽書の一。 定家卿筆諌口訣• 定家卿自歌合• 定家卿鷹三百首• 未来記:歌学書。 小倉問答 官歴 [ ] 藤原定家墓() 『公卿補任』による。 元年() 12月30日:(皇后宮()長寛元年未給分)• 元年() 12月8日:(俊成、右京大夫辞任に伴う任官)• 4年()正月5日:従五位上• 2年() 12月19日:(に伴う給分)• 5年() 11月13日:• 文治6年()正月5日:• 2年() 2月10日:兼• 建久6年()正月5日:従四位上• 建久10年()正月30日:兼• 2年() 10月26日:(臨時給分)• 2年() 閏10月24日、左近衛中将• 建仁3年()正月13日:兼• 4年()正月14日:兼。 1月21日:辞左近衛中将。 12月17日:• 元年() 9月8日:、侍従。 2年() 2月11日:• 建保3年()正月13日:兼• 建保4年()正月13日:兼。 3月28日:辞侍従。 12月14日:• 建保6年() 7月9日:兼• 建保7年() 日付不詳:辞伊予権守• 2年()正月22日:兼• 承久4年() 8月16日:辞参議• 元年() 日付不詳:辞播磨権守• 3年() 10月21日:、民部卿• 4年()正月30日:。 12月18日:辞権中納言• 元年() 10月11日:出家。 慈心房(元)をとして出家(法名:明静)。 2年() 8月20日:薨去(享年80) 系譜 [ ] 流()に属し、のにあたる。 母:(? -1193) - 藤原親忠の娘。 妻:の娘• 長男:(1184-? 男子:定修• 女子:• 妻:の娘• 三男:(1198-1275)• 長女:(1195-? ) - 後堀河院民部卿典侍• 次女:藤原香子(1196-? 生母不明:• 次男:定円(のち定修)(1191-1235? 男子:覚源• 女子:妾、のち室• 男子:藤原定時(実父はで) 子孫 [ ] 定家の子孫は御子左家(嫡流は別名とも)として続いたが南北朝時代からにいたる戦乱により嫡流は断絶した。 御子左家の分家であるは現在も京都に於いて続いており、この系統からは4家の(、、、)を輩出したことでも知られる。 定家神社 [ ] 定家神社 ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。 所在地 下佐野町873番地 位置 : 主祭神 藤原定家 地図• 明月記にはでが起こったこと(現在の)に関する記述があり、上、重要な資料となっている。 新潮社版『定家明月記私抄』帯の広告• 丸谷才一編『別冊文芸読本 百人一首』 河出書房新社 の「百人一首」撰者考 石田吉貞 より 166頁下段• 国書刊行会『藤原定家全歌集』序文に引用される霊元天皇の言葉「人麻呂貫之が亡くなりたる後には、ただ京極の黄門のみぞ。 古(いにしえ)を正し今を教へ、独 ひとり この道の聖 ひじり なりける」• 丸谷才一『後鳥羽院』258頁• 風巻景次郎『中世の文学伝統』より「八 源実朝、『金槐集』、実朝の歌の多くは風流の歌である」岩波書店1985年• 家入博徳『中世書写論 -俊成・定家の書写と社会』勉誠出版、2010年、• 『』文治元年11月25日条。 なお、父・俊成が後白河上皇側近であるに充てた定家の赦免嘆願の書状が現存している。 2014年5月17日. 2014年5月17日閲覧。 はの際にもに連座して除籍処分を受けた可能性を指摘する(五味、2000年、p11-12)。 『明月記』貞永2年4月5・6・13日条。 五味、2000年、第三章第四節「中納言定家と上卿故実」(初出:『明月記研究』3号(明月記研究会、1998年))。 松薗、1996年• 『明月記』嘉禄2年6月2日条。 五味、2000年、P225-226.• 『藤原定家全歌集 (上・下)』は、校訂・訳(、1985年/、2017年)で刊行。 当該記事以前の記事は所蔵の定家直筆の『』写本・建暦元年条「藤定家」条による。 『公卿補任』と内容が異なる部分(国史大系本にある仁安2年12月30日条の紀伊守補任の記事が存在しないなど)があるものの、定家自身が記した官歴がより正確な記述と考えられている。 なお、によれば国史大系本に登場する仁安2年補任の紀伊守季光は定家のことではなく、同国の知行国主の息子のことである(五味、2000年、P4-5)• 群馬県神社庁. 2019年4月22日閲覧。 高崎市. 2019年4月22日閲覧。 早川愿次郎編『』上野日日新聞社、1910年、 -。 高崎市編纂『』高崎市、1927年、 -。 参考文献 [ ]• 『』社団法人日本書作家協会、1971年。 五味文彦『明月記の史料学』青史出版、2000年、• 村山修一『藤原定家』〈〉新装版、1989年、 定家自筆本の影印 [ ]• 『拾遺愚草 上・中』冷泉家時雨亭叢書第八巻. (財)冷泉家時雨亭文庫編. 1993. 朝日新聞社• 『拾遺愚草 下・拾遺愚草員外・俊成定家詠草・古筆断簡』冷泉家時雨亭叢書第九巻. (財)冷泉家時雨亭文庫編. 1995. 朝日新聞社• 『明月記 一~五』冷泉家時雨亭叢書第五十六~六十巻. (財)冷泉家時雨亭文庫編. 1993~2003. 朝日新聞社• 『京都冷泉家・国宝明月記』展覧会図録. 2004. 五島美術館• 『藤原定家自筆本 近代秀歌』佐々木信綱編. 1930. 竹柏会• 『近代秀歌』久松潜一解説. 1958. 武蔵野書院• 『藤原定家 近代秀歌』日本名跡叢刊33. 1979. 二玄社. 『古今和歌集 嘉禄二年本・古今和歌集 貞応二年本』冷泉家時雨亭叢書第二巻. (財)冷泉家時雨亭文庫編. 1994. 朝日新聞社• 2005. 笠間書院• 『拾遺和歌集』久曽神昇編. 全二冊. 1990. 汲古書院• 『後撰和歌集 天福二年本』冷泉家時雨亭叢書第三巻. (財)冷泉家時雨亭文庫編. 2004. 朝日新聞社• 『御物更級日記 笠間影印叢刊 』橋本不美男. 1971,笠間書院• 1995. 笠間書院• 『更級日記[藤原定家筆]』日本名筆選43. 2004. 二玄社• 『冷泉家 王朝の和歌守 うたもり 展』展覧会図録. 2009. 朝日新聞社 関連項目 [ ]• - 法名:明静の由来。 交友・関連人物 [ ]• 外部リンク [ ]• ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。 ウィキクォートには、に関する引用句があります。

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藤原純友の華麗な家系図と謎多き子孫たち

藤原 家

概要 [ ] 藤原北家は、の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。 祖の房前は朝でに先んじてに昇進すると、後に祖父以来のとなり、元正天皇の側近としてと政権を争った。 朝になると、6年()により政権を掌握し、でも中心人物として政権を主導したが、天平9年()の蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。 その後後期~初期にかけては、朝で房前の子である・がに昇るが、朝では永手の嫡男・は早逝し、魚名はにして失脚したこともあり、・に押されがちの状態にあった。 しかし朝以後、2年()ので南家の、弘仁元年()ので式家の勢力が衰えると、の信任を得たが急速に台頭し他家を圧倒するようになった。 さらに、冬嗣がの、その子がの、そしてその養子(甥)がとの、それぞれのとなり、北家が三代にわたっての地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。 これが以後の、北家 = = 、という図式を決定づけることになり、この系統による「」が後の・父子の時代に全盛を極める。 その子孫はに別れたが、の最高はひきつづきこの五家が独占した。 他の藤原姓のもほとんどが北家の後裔である。 時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は18家、6家、5家、4家、3家、3家、2家、1家、1家、1家)。 派生氏族は公家ばかりではなく、の・、、、、・、・・・・・など、主に・・に勢力基盤をもった多くの氏族が藤原北家の末裔と称した。 一族 [ ] 嫡流 [ ]• - 祖• - 鎌足の次男• - 不比等の次男 藤原北家の祖• - 房前の三男• - 真楯の• - 内麻呂の次男• - 冬嗣の次男• - 良房の養子(長良の三男)• - 基経の四男• - 忠平の次男• - 師輔の三男• - 兼家の四男• - 道長の長男• - 頼通の三男 祖• - 師実の長男• - 師通の長男• - 忠実の長男• - 忠通の長男 の祖• - 忠通の三男 の祖 主な傍流 [ ]• - 房前の次男• - 内麻呂の 祖• - 冬嗣の長男• - 長良の曾孫• - 冬嗣の六男• - 良門の 4代後に• - 良門の次男 祖• - 基経の長男• - 忠平の長男• - 実頼の次男• - 頼忠の長男• - 実頼の孫• - 実頼の孫• - 師輔の長男• - 師輔の十二男 祖• - 師輔の次男• - 兼家の長男• - 兼家の次男• - 兼家の三男• - 道兼のひ孫• - 道長の四男• - 忠実の次男• - 房前の四男• - 房前の五男• - 魚名の子• - 藤成の子• - 豊沢の子• - 村雄の子 ただし、生存時期において嫡流と見なされていた人物がその後の子孫の盛衰によって傍流と位置づけられた者もいる(例・藤原永手・実頼など)。 系譜 [ ] 凡例 太線は実子。 なお、嫡流を書き連ねることとし、傍系は下記の系図の下に記載する。 また養子はあえて記載せず。 北家本流(摂関家流) [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2020年3月)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第1篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第5篇』吉川弘文館 黒板勝美(編) 関連項目 [ ].

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