二宮金次郎 何をした人。 5分で知る二宮尊徳(二宮金次郎)あの銅像はなぜあんなに有名?│れきし上の人物.com

「二宮金次郎」ってどんな人?銅像になっている理由は?

二宮金次郎 何をした人

「質素倹約」「勤勉」など、銅像の意味を表す言葉は教えられているものの、ではなぜあの銅像はたきぎを担いで本を読んでいるのか?と改めて問われると、大きなハテナマークが浮かびませんか? 二宮尊徳の幼名が金次郎です。 神奈川県小田原市(当時は相模国足柄上郡栢山村)の百姓の子として生まれた金次郎でしたが、住まいと畑の近くにあった酒匂川の水害により、家財もろとも流されてしまったのです。 悪いことは続き、金次郎が12歳の時に一家の大黒柱である父親が眼病となり、金次郎少年が一家の働き手となりました。 田畑の世話から酒匂川の水害対策工事にいたるまで率先して従事したものの、父親は回復せずに他界し、母も体調を崩して満足に働くことができませんでした。 14歳になった金次郎少年は、病気の母と幼い兄弟たちの面倒を見ながら、早朝から山にたきぎ拾いに行き、田畑を耕し、夜は内職の草履作りというハードワークな生活を送ることになりました。 しかし、病気の母も他界してしまい、兄弟たちは離れ離れに…。 預けられた祖父の家では、本を読む灯りにも窮し、自ら菜種油を絞って灯りを作り、それで本を読み、知識を蓄えたそうです。 親も財産も失い働かなければならない境遇でも、知恵とガッツで勉強する環境を作る金次郎の幼年時代を、たきぎの話と勉強の話をドッキングさせて丸ごと紹介したような小学校の銅像ですが、世の教育家たちが「二宮尊徳の幼年期」に注目したのは、少年時代の勤勉さではなく、大人になってからの業績が理由だったとも言えます。 二宮尊徳は江戸時代後期の人です。 18世紀後半から19世紀前半、幕府も藩も困窮を極めていて、効果的な財政改革を摸索しており、有名なところでは老中・水野忠邦の「天保の改革」が取組まれていた時代でした。 大人になった二宮尊徳は、こつこつと増やした財で生家の再興を成功させ、余った資産でさらに農地を買い集め、地主となり農園を経営しつつ、小田原藩の奉公人としても働きだしました。 倹約をしつつ勤勉をして、結果として財が集まっても、その金を蓄財して遊ばせず、設備投資に使用することで、「全ては小さな努力の積み重ねから」という「積小為大(せきしょういだい)」を実現。 無理なく着実に富を増やす二宮尊徳のスタイルに着目した小田原藩の家老・服部家は、彼に困窮した家政の建て直しを依頼しました。 焦らず無理せず、捨てられていた苗でも精魂篭めれば稲穂をつけることを実体験として知っている二宮尊徳の指導で、財政再建に成功した家老・服部家、そして小田原藩内で「優れた農政家であり思想家」と一目置かれた彼は、その後も飢饉に苦しむ約600もの村々に財政再建のやり方を指導し、豊かな実りをもたらして救済しました。 富を自分ひとりのものとせず、自然を敬い、その力を最大限に引き出して豊かな生活をみんなと一緒に享受すること。 そのためにはズルをせず、勤労と倹約、いたわりの心を忘れないこと。 今の豊かさを次の世代の豊かさに繋げるために、浪費せず正しく投資すること。 そんな二宮尊徳の考え方は、「報徳思想」として人々の心に受け継がれています。 「二宮金次郎の像」ブーム、いつから? 二宮尊徳 にのみやたかのり は天明7年 1787年 7月23日、相模国足柄上郡栢山 かやま 村 現在の神奈川県小田原市栢山 に誕生しました。 尊徳の生家があったとされる場所には現在、二宮尊徳記念館と昭和35年 1960年 に復元された尊徳の生家があります。 尊徳の幼名を「金次郎」といい、中流農家の長男として生まれましたが、尊徳が5歳の時に、暴風雨で近所を流れる酒匂川 さかわがわ が決壊し、二宮家の田畑が流されてしまいました。 幸い、田畑は数年で元に戻すことができましたが、復旧させるために大きな借金を抱えてしまった二宮家は生活に窮することになります。 悪いことは続き、寛政12年 1800年 には父が、その2年後の享和2年 1802年 には母が亡くなってしまいました。 さらには、同年に再度酒匂川が氾濫し、再び二宮家の田畑が流されてしまいました。 一度は大きな借金をして田畑を立て直したものの、もう一度復旧させるだけの財力は無く、泣く泣く家を手放すことになってしまいました。 この生家はその時のものを復元したもので、尊徳の祖父である銀右衛門が寛保2年 1742年 頃に建てたそうです。 「広間型三間取り」という間取りで、土間と接して囲炉裏のある広間を設け、上手 かみて には表側に座敷があり、裏手には寝室が設けられました。 当時の相模国の中流農家はこういった家だったらしく、銀右衛門は、農家の次男坊であったにも関わらず、わずかな土地から身を起して中流農家にまでなった人物でした。 祖父・銀右衛門が建てた家を手放すことになってしまった尊徳はさぞ無念だったことでしょう。 本家や、親族の家を転々としながら汗水垂らして働いた尊徳は4年後の文化3年 1806年 に生家を再興することに成功したのです。 この生家は昭和38年 1963年 に、神奈川県指定重要文化財に指定されています。 そして隣には昭和63年 1988年 に建設された二宮尊徳記念館があります。 地下1階、地上3階建てのこの建物では、尊徳の生涯や興した事業の資料や遺品が紹介され、さらには講堂や図書館に宿泊施設と、尊徳の報徳思想を学べる社会教育施設になっています。 二宮尊徳ゆかりの地 桜町陣屋跡 生家を再興し、小田原藩家老・服部十郎兵衛家の財政再建を成功させた尊徳の名声は高まり、小田原藩に無くてはならない人になっていました。 そこに小田原藩主・大久保忠真より、新たな財政再建の命が下されました。 場所は大久保家の分家である宇津家の所領がある下野国芳賀郡桜町です。 桜町にあった桜町陣屋は、現在の栃木県真岡市物井 合併前の二宮町 にあります。 桜町陣屋の陣主である宇津家は、小田原大久保家3代藩主・大久保忠朝の3男である宇津教信が、元禄11年 1698年 に芳賀郡4000石を分知されたのが始まりで、その翌年の元禄12年 1699年 に桜町陣屋が設けられました。 藩命を受けた尊徳は文政6年 1823年 、桜町主席として桜町に移住し、26年間に渡って財政再建に取り組み、見事再建を果たすのです。 現在は、国指定史跡に指定され、土塁跡とともに、移住した二宮一家が住んだといわれる住居が残っており、隣には尊徳を祀っている二宮神社と二宮尊徳資料館が併設されています。 二宮尊徳終焉の地 報徳仕法役所跡 桜町陣屋にて26年間に渡って財政再建に取り組み成功させた尊徳の手腕は、「報徳仕法」として有名となり、全国各地から教えを求められるようになりました。 その手腕を認めた幕府は、尊徳を直臣として取立て、弘化2年 1845年 には下野国真岡の代官である山内氏に従う形で、真岡に移住し報徳仕法を施しました。 そして嘉永6年 1853年 、天領である日光神領89カ村の再興を命じられ、日光神領に仕法を施しますが、病により安政3年 1856年 、志半ばにして、下野国今市村にあった報徳役所にて70年の生涯を閉じたのです。 尊徳が亡くなった報徳仕法役所は、現在の栃木県日光市にありました。 合併前の今市市です。 報徳仕法役所は安政2年 1855年 、尊徳69歳の時に設けられ、ここを拠点に日光神領の再興に務めました。 残念ながら現在、報徳仕法役所の建屋は残っておらず、尊徳の銅像と書庫だけが残っています。 二宮尊徳ゆかりの地 二宮尊徳の墓 二宮尊徳は生前に遺言を残していました。 「余の死近きにあるべし、余を葬るに分を越ゆることなかれ。 墓石を立つることなかれ。 碑を建つることなかれ。 ただ土を盛り上げてその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにてよろし。 必ず余の言に違うことなかれ。 」 尊徳の葬儀は近くの如来寺で行われました。 葬列は報徳仕法役所のある春日町より続いていたとあり、どれほど慕われていたかが分かるエピソードです。 そして遺言通りに埋葬されましたが、一つ尊徳の誤算がありました。 それは、明治31年 1898年 のこと。 二宮尊徳終焉の地ということで、尊徳のお墓の周りに神社が創建されたのです。 その名は「報徳二宮神社」。 もちろん祀られているのは二宮尊徳その人であり、学問や経営の神様として今も人々に信仰されています。 そして昭和32年 1957年 には、二宮尊徳の墓が栃木県指定史跡に指定されました。 志半ばで亡くなった尊徳の志は、嫡男である二宮尊行に引き継がれ、戊辰戦争に今市が巻き込まれる時まで、日光神領に仕法が施されたのです。

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二宮金次郎

二宮金次郎 何をした人

こんにちは、kinkoです。 二宮金次郎の銅像は、誰もが一度は見たことがある「薪を背負いながら読書する姿」が有名です。 貧しくても勉強をして成功を収めた偉人として、主に小学校を中心に銅像が建てられました。 その二宮金次郎の銅像が、最近では撤去の方向へ進んでいるらしいのです。 お金もかかるのに、なぜわざわざ撤去しなければならないのでしょうか? 二宮金次郎の銅像が撤去される訳 その理由は、「 歩きスマホ」を助長する恐れがあるからですってー!! 格好が歩きスマホに似ていても、意味が全然違うのだから先生が説明すれば良いんじゃない?って思うのですけどね。 まぁ、これも時代だからしょうがないのでしょう。 でも、なんだか寂しいですね。 ふと、二宮金次郎って何した人だっけ?と考えると、kinkoはよく知らない事に気がつきました。 無知の知…なんつって、笑 で、便利な世の中、ネットでググってみましたよ〜。 二宮金次郎の功績 二宮金次郎 二宮尊徳 は、簡単に言うと農村や地域改革をした人でした。 その功績が認められて、 百姓から武家の位を授かった 出世した 人です。 江戸時代に位が上がるのは珍しい事でした。 国の政治に関わるような歴史上の大人物とまでは行かないのに、全国の学校に銅像が建ったのはどうしてでしょうか? 二宮金次郎は、裕福な百姓の生まれでありながら、災害で家を失い10代で両親に先立たれたそうです。 叔父さんの家で夜勉強をしていると「油が勿体ない」と言われ、勉強することを阻まれました。 それで考えたのが 菜種を栽培し菜種油を灯りに使って夜勉強すること、昼間は薪を拾いながら本を読む事でした。 そこまでして勉強した甲斐があって、20代で実家を再建し裕福な家になりました。 それを知った小田原藩士に財政再建を任され、見事それを成し遂げました 615の村の再建。 身分に関係なく、頭ひとつで藩の財政再建を担った優秀な人だったということです。 学問がいかに大事なことであるかがわかります。 それで学校に銅像が建ったのでしょうね。 二宮尊徳 金次郎 の格言 二宮尊徳は、 勤労・ 分度・ 推譲の3つを人々に勧めたそうです。 勤労とは、徳に報いるために働くこと。 分度とは、収入の範囲内で支出を定めること。 推譲とは、貯まった物を将来のために残したり、人に施すこと。 何事も順というものがあり気に逸って速成を願ってはならないという戒め。 小は自らの身の丈にあったもの、平凡なものでありそれが集うことでやがて大なるものへとなる。 そして、『 五常講』を説きました。 ということだと思います。 引用元: 江戸時代に二宮尊徳が人々に解いた格言は、現代の私たちにも通じるものがあります。 kinkoが参考にさせてもらっている個人投資家さんのブログには、お給料を節約しながらコツコツと長期投資していく方が多いです。 すぐに大金持ちになろうとせず、みなさんまるで二宮尊徳のようです。 学校から銅像は無くなってしまうけれど、せめて 二宮尊徳の格言は世に残していきたいと思いました… ま と め• 歩きスマホのせいで二宮金次郎の銅像が撤去• 二宮金次郎は小田原藩の財政再建をした人•

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小学校にある二宮金次郎の銅像の意味とは? 二宮金次郎(にのみやきんじろう)は、 二宮尊徳(にのみやたかのり・1787年~1856年)という名前でも知られる、江戸時代の人物です。 「尊徳」という名前は、亡くなってから与えられた名前で、正式には「たかのり」と読みますが 「そんとく」と読むことも多いです。 また、本来は「金治郎」という字なのですが「金次郎」とされることが多いそうです。 ここでは一般的に使われている「金次郎」と表記します。 まずは二宮金次郎の生涯を見ていきましょう。 二宮金次郎の生涯 天明7年(1787年)、二宮金次郎は相模国足柄上群栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に裕福な百姓の家の長男として生まれました。 金次郎が5歳の時、南関東を襲った暴風で村の近くの川が決壊し、田畑と家を流失してしまい、数年をかけて復旧させたものの、金次郎の家は借金を抱えて家計は苦しくなりました。 14歳の時に父が亡くなり、金次郎は、早朝は薪(まき・たきぎ)を拾い、昼は田畑で働き、夜は草鞋(わらじ)を作って、一家4人を支えました。 しかし、大変貧しく食べ物にも困ることがあったそうです。 この頃金次郎は「この先、百姓も知識や知恵を持たなければならない」と考えており、いつかは二宮家を再興すると心に誓い、苦しい生活ではありましたが、薪を町へ売りに行く時には、薪を背負って歩きながら本を読んでいたといわれています。 16歳の時に母が亡くなり、幼い弟2人を親戚に預け、金次郎は祖父の家に身を寄せます。 金次郎は一日も早く弟2人と一緒に暮らしたいという思いから、一生懸命に働き、働きながら勉強も続け、コツコツと貯金をし、20歳の時に生家の再興に着手します。 家を修復し、失った田畑を買い戻し、一部を貸し出すなどして収入の増加を図り、31歳の時には大地主になっていたそうですよ。 暮らしに困っている村人には無利子でお金を貸し、金次郎の好意を感じた村人は自ら利子を決めて返したといわれています。 25歳の時に金次郎は武士の暮らしぶりを学ぶため、農園を経営しながら小田原で武家奉公人としても働き、小田原藩の家老、服部氏に仕えました。 その時、金次郎の財務整理能力を見抜いた服部氏から家政の立て直しを依頼されました。 服部家の財政は破綻寸前でしたが、金次郎の手腕で4年で再建したそうです。 このことが評判となって金次郎の名は小田原で知られるようになりました。 その後も多くの家や村の救済や再興を行い功績をあげ、生涯で600以上の村の立て直しをしたといわれています。 また、初物のナスの味がいつもと違い、秋ナスの味がすることに気が付き、冷夏の予兆ではないかと思った金次郎は、村人たちに冷害に強い稗(ひえ)を植えさせ、天保の大飢饉(てんぽうのだいききん・1833年~1839年)からひとつの村を救ったというエピソードもあります。 天保13年(1842年)、56歳の時には天保の改革を行っていた幕府に登用され、安政3年(1856年)に70歳で人生の幕をおろします。 このように、田畑や家を失い、借金を抱え貧困に苦しんだ二宮金次郎ですが、努力を続けて百姓から幕府の役人にまで出世し、貧困に苦しむ人を救い、数々の功績を残しました。 なぜ小学校に設置されるようになったのか?銅像の意味とは? 二宮金次郎の銅像が初めて作られたのは大正時代のことです。 なぜこの頃の二宮金次郎の銅像が各地の小学校に設置されたかというと、当時の日本では 自主的に国に奉公する国民の育成を進める政策を取っており、自らの力で貧困から立ち直り、幕府のために働いた二宮金次郎はそのモデルとされたためです。 また、 国の政策のためというだけではなく、純粋に勤労・勤勉のモデルとして銅像を設置した小学校もあったそうですよ。 また、薪を背負って歩きながら本を読んだ姿が銅像になっていますが、実際に二宮金次郎は本を読みながら歩いていたわけではなく、薪を背負って歩きながら、覚えたことを暗唱していたともいう説もあるそうです。 二宮金次郎の名言 二宮金次郎は次のような名言を残しています。 経済を忘れた道徳は、寝言である。 戦後になると、今度は「本を読みながら歩くのは危険だ。 子どもが真似するといけないから撤去した方が良い」ということで撤去されたそうです。 そして現在は、歩きスマホが問題になっていますよね。 金次郎はスマホをしているわけではないのですが、歩きスマホは危険だと問題視するなら、歩きながら本を読むのも危険だというのです。 また、教育現場では「ながら行動をしないように」と指導していることから、本を読みながら歩く姿は良くないこととされ、撤去されたり、代わりに座って本を読む二宮金次郎の銅像が作られるようになったそうですよ。 二宮金次郎という人がどういう人だったのかわかりましたね。 現在のように、子どもに教育を受けさせる義務などありませんし、「百姓に学問はいらない」と叱った祖父の言うことが正しい時代だったはずです。 それでも学ぶことを諦めず、働いている間も時間を惜しんで勉強続け、数々の功績を残した金次郎はたいへん立派な人物だったのですね。 歩きながら本を読むのは危険なことですが、二宮金次郎の銅像がなくなってしまうのはとても残念なことです。 金次郎の生き方はこれからも伝えていきたいのものですね。 関連: -.

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